1787年世界 18世紀

フィラデルフィア憲法制定会議、7邦の代表団が定足数に達して開会——予定の5月14日から11日遅れ、ワシントンを議長に選出

日付と暦

原典表記
1787年5月25日(グレゴリオ暦)
換算
1787-05-25(グレゴリオ暦)
掲載日
5月25日のページ

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概要

1787年5月14日、フィラデルフィアで憲法制定会議(Federal Convention/Constitutional Convention)が開催される予定だったが、集まった代表者はわずかで、定足数を構成する邦の数に達しなかった[SRC-02266]。11日後の5月25日になって、ニュージャージー邦の代表者が到着して邦代表団が構成されたことで、ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルベニア・デラウェア・ヴァージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナの7邦の代表団が定足数を構成した[SRC-02267][SRC-02269]。ロバート・モリスがペンシルベニア邦代表団の委任によりジョージ・ワシントンを議長(President)に指名し、投票により全会一致でワシントンが選出された[SRC-01595][SRC-02266]。同じ会日に、ウィリアム・ジャクソンが書記(Secretary)に選出され、会議の規則を準備する3名の委員会も任命された[SRC-02266][SRC-02268]。この日が、同年9月17日の合衆国憲法への署名[SRC-01595]に至る会議の、実質的な始まりだった[SRC-02268]。

本文

1787年5月14日の月曜日が、連邦の政府制度の改定を審議する会議に代表者が集まる日として定められていた[SRC-02266][SRC-02268]。しかし当日に集まった代表者はごく少数で、定足数を構成するだけの邦の数には届かなかった[SRC-02266]。全米憲法センターは、この開始の遅れを「移動その他の問題」によるものと説明する[SRC-02268]。

11日後の5月25日(金曜)、ようやく定足数に達した[SRC-02267][SRC-02269]。ワシントン自身の日記は、ニュージャージー邦から新たな代表者が到着して邦代表団が構成されたことで、13邦のうち7邦に達し定足数(quorum)を構成したため、出席者らは本会議体を組織することを決議したと記す[SRC-02269]。この日、室内には実際には9邦(マサチューセッツ・ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルベニア・デラウェア・ヴァージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージア)からの代表者がいたが、マサチューセッツ(ルーファス・キング)とジョージア(ウィリアム・フュー)はそれぞれ代表者が1名のみで、正式な邦代表団を構成できなかった[SRC-02266][SRC-02268]。定足数を構成したのは、ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルベニア・デラウェア・ヴァージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナの7邦だった[SRC-02267]。

代表者らが集まったのは、フィラデルフィアのペンシルベニア議事堂(Pennsylvania State House)だった[SRC-01595]。全米憲法センターは、この建物を現在はインディペンデンス・ホールと呼ぶと記す[SRC-02268]。NARAの解説記事は、この日、議事堂前の石畳の道に馬車の音を遮るための土が新たに敷かれ、守衛が出入口に立って見物人を遠ざけていたと記す[SRC-01595]。

議事はロバート・モリスの指名で始まった。モリスはペンシルベニア邦代表団の委任により、独立戦争期の総司令官であったジョージ・ワシントンを会議の議長(President)に指名した[SRC-01595][SRC-02266]。本来この指名はベンジャミン・フランクリンが行う予定だったが、フランクリンは天候と健康状態のため自宅にとどまり、この日の会合に出席しなかった[SRC-02266][SRC-02268]。ジョン・ラトリッジが指名を支持し、投票により全会一致でワシントンが選出された[SRC-01595][SRC-02266][SRC-02267]。ワシントンは、このような重要な会議を主宰する資質に欠けるとして謙遜し、不慣れさから生じうる誤りについて詫びた(寛恕を求めた)と記録されている[SRC-01595][SRC-02266]。

続いて書記の選任が行われた。ジェームズ・ウィルソンがテンプル・フランクリン(ベンジャミン・フランクリンの孫)を、アレクサンダー・ハミルトンがウィリアム・ジャクソンをそれぞれ指名し、投票の結果ジャクソンが5票、フランクリンが2票でジャクソンが選出された[SRC-02266][SRC-02267]。全米憲法センターは、この投票を会議における「最初の争われた投票」と性格づける[SRC-02268]。さらに、C・ピンクニーの提案により、ジョージ・ワイス、アレクサンダー・ハミルトン、チャールズ・ピンクニーの3名からなる委員会が、会議の常置規則を準備するために任命された(会議にはチャールズ・コーツワース・ピンクニーとチャールズ・ピンクニーの2名のピンクニー代表が出席しており、提案者を記すMadisonの記録原文は「C. Pinckney」という略記のみで、いずれを指すかを本記事は確定しない)[SRC-02266][SRC-02267]。会議はこの委員会の作業のため、月曜日まで休会した[SRC-02269]。

病気のため5月25日に出席できなかったフランクリンが、この会議に初めて姿を見せたのは5月28日で、規則についての討議はこの日から始まった[SRC-02268]。

歴史的背景

独立戦争後のアメリカ合衆国は、1781年以来、連合規約(Articles of Confederation)という13の主権邦の「友好の盟約」のもとにあった[SRC-01595]。しかし中央政府である連合会議は、通商を規制する十分な権限を持たず、課税もできず、商業政策の決定においても概して無力だったとマディソンは考えた[SRC-01595]。1786年には、ダニエル・シェイズに率いられた武装した農民の集団が、マサチューセッツ州ノーサンプトンでの巡回裁判所の開廷を妨げ、スプリングフィールドの兵器庫の銃器を奪取すると脅した(シェイズの反乱)[SRC-01595]。この反乱は州軍によって鎮圧されたが、多くの富裕層が抱いていた無秩序への恐怖を裏付けたとNARAは記す[SRC-01595]。

NARAの解説記事は、この会議の具体的な起源を、ジェームズ・マディソンとジョン・タイラーがヴァージニア邦議会で行った、大陸会議に連合全体の通商規制権を与えるべきだという提案に置く[SRC-01595]。この議会での両名の働きかけにより、1786年9月にメリーランド州アナポリスで開く会議へ各邦を招く計画が立てられた[SRC-01595]。マディソンとニューヨークの若い弁護士アレクサンダー・ハミルトンは、この会合の報告書において、連合規約の改定のため全邦の代表者を招集するよう連合会議に求め、連合会議は正式に各邦へ会議召集を発した[SRC-01595]。

ワシントン自身にとって、この会議への参加の決断は容易ではなかった。NARAの解説記事は、リウマチを患い、兄の死への落胆のうちにあり、マウントヴァーノンの経営に専心していたワシントンが、会議が成果を上げるか、また有力な人物が十分に集まるかを疑い、招請への応諾を数カ月にわたって遅らせたと記す[SRC-01595]。それでも最終的に参加を決めたワシントンの存在は、36歳のヴァージニア邦代表ジェームズ・マディソンにとって、会議に重みと正当性を与えるものだった[SRC-01595]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1787年5月14日(グレゴリオ暦) 憲法制定会議の開催が予定されていた日。定足数を構成する邦の数が集まらず、会議は実際には開会しなかった [SRC-02266][SRC-02268]
1787年5月25日(グレゴリオ暦) 7邦の代表団が定足数に達し、ペンシルベニア議事堂で正式に開会。ロバート・モリスの指名でジョージ・ワシントンが議長に選出され、ウィリアム・ジャクソンが書記に選出された。規則委員会(ワイス・ハミルトン・C・ピンクニー)が任命され、会議は月曜日まで休会した [SRC-01595][SRC-02266][SRC-02267][SRC-02269]
1787年5月28日(グレゴリオ暦) 病気で欠席していたベンジャミン・フランクリンが会議に初めて出席。規則についての討議が開始 [SRC-02268]
1787年9月17日(グレゴリオ暦) 代議員が最後の会合を開き、ジョージ・メイソン、エルブリッジ・ゲリー、エドマンド・ランドルフの3名を除く出席者が合衆国憲法に署名し、午後4時に閉会 [SRC-01595]
異説・論争定説のない論点があります

本記事が確認した出典の範囲で、確認された異説・不確実な点は次のとおりである。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
ワシントン選出前に信任状を受け取った「仮の議長」の人物比定 NPSの記事は、代表者らが信任状を提示した相手を「おそらく(possibly)ヴァージニア邦知事エドマンド・ランドルフ」とみられる仮の議長(president pro tempore)と記す [SRC-02267] 出典自身が「possibly」と留保しており、本記事が確認した他の登録出典(Madisonの記録〔SRC-02266〕、ワシントン自身の日記〔SRC-02269〕、全米憲法センター〔SRC-02268〕)には、この仮の議長の存在や人物比定についての記述は見当たらない。本記事はこの人物比定を事実として断定せず、出典自身の留保をそのまま示す

関連する出来事

1786年9月、メリーランド州アナポリスで通商問題を議論する会議が開かれ、そこでのジェームズ・マディソンとアレクサンダー・ハミルトンの報告書が、連合規約の改定を目的とする全邦代表者会議の招集を連合会議に求めた[SRC-01595]。この5月25日の開会後、会議は同年9月17日まで続き、代議員のうち大多数が合衆国憲法に署名した[SRC-01595]。この間の会期では、通商をめぐる論点と結び付いた奴隷制をめぐる議論を含む、激しい論争が重ねられた[SRC-01595]。

関連人物

歴史的意義

全米憲法センターは、この日を「憲法制定会議が本格的に始まった日」と性格づける[SRC-02268]。会議はこの後、9月まで続く議論を経て、同年9月17日、合衆国憲法への署名に至った[SRC-01595]。

もっとも、この日に室内にいた9邦のうち、定足数に数えられたのは7邦のみであり、マサチューセッツとジョージアの代表者(それぞれ1名)は、正式な邦代表団を構成できなかった[SRC-02266][SRC-02268]。

現代の視点

合議体の議事を開始するための「定足数(クォーラム)」という手続上の仕組みは、1787年5月25日の経緯が示すとおり、単なる形式ではなく、実際に会議の開始を11日間遅らせる具体的な制約として機能した(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-01595] A More Perfect Union(Founding Documents — The Constitution)/National Archives and Records Administration(米国立公文書記録管理局、NARA)(ランクS)
  2. [SRC-02266] Madison Debates - May 14, May 25(The Debates in the Federal Convention of 1787収録・James Madisonの記録)/The Avalon Project, Lillian Goldman Law Library, Yale Law School(ランクA)
  3. [SRC-02267] May 25, 1787: Quorum(The Constitutional Convention: A Day by Day Account for May 1787)/National Park Service(米国国立公園局)/ Independence National Historical Park(ランクA)
  4. [SRC-02268] On this day, the Constitutional Convention began/National Constitution Center(全米憲法センター)(ランクA)
  5. [SRC-02269] Diary entry by George Washington (May 25, 1787)/ConSource(The Constitutional Sources Project)(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-10-07—
22026-10-07あり
32026-10-07あり
42026-10-07なし

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