ワシントンとロシャンボーは、ウィリアムズバーグを発ってヨークタウンを包囲した

日付と暦

原典表記
1781年9月28日(グレゴリオ暦)
換算
1781-09-28(グレゴリオ暦)
掲載日
9月28日のページ

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概要

1781年9月28日、ジョージ・ワシントンと、フランス派遣軍司令官ロシャンボー伯爵が率いるアメリカ・フランス連合軍は、ヴァージニアのウィリアムズバーグからヨーク川沿いのヨークタウンへ進軍した[SRC-00410]。この地には、南部で軍を率いていたチャールズ・コーンウォリス卿が要塞化した拠点を構えていた[SRC-00410][SRC-00414]。連合軍の進軍は、この町を包囲する戦い(ヨークタウンの戦い)の始まりだった[SRC-00410][SRC-00414]。海上ではド・グラス提督率いるフランス艦隊がチェサピーク湾下流に留まり、封鎖線を築いていた[SRC-00410]。この包囲戦は、同年10月19日のコーンウォリス降伏で終わった[SRC-00410]。

本文

1780年夏、ロシャンボー伯爵に率いられたフランス軍5,500名がロードアイランド州ニューポートに上陸した[SRC-00410]。1781年7月、ロシャンボー軍は進軍し、ニューヨーク市郊外でワシントン軍と合流した[SRC-00410]。同年、フランスのド・グラス提督はチェサピーク湾下流に艦隊を留め、封鎖線を築いた[SRC-00410]。

ワシントンとロシャンボーは9月28日、ウィリアムズバーグからヨークタウンへ進軍した[SRC-00410]。ヨークタウンには、南部で軍を率いていたコーンウォリス卿が拠点を置き、要塞化を命じていた[SRC-00410]。9月末までに、連合軍はアメリカ・フランス両軍あわせて約17,600名がウィリアムズバーグに集結し、ヨークタウンを占拠する英軍約8,300名を上回っていた[SRC-00410]。

包囲戦の最中、10月14日夜には、フランス軍400名が英軍の第9稜堡を、アメリカ軍400名が第10稜堡を攻略し、両稜堡は合わせて30分以内で陥落した[SRC-00410]。10月17日、コーンウォリスは降伏交渉の使者を送り[SRC-00410]、2日間の交渉を経て、10月19日、コーンウォリス軍の大半が連合軍の隊列の間を行進して降伏した[SRC-00410]。

歴史的背景

ド・グラス艦隊が9月5日にチェサピーク湾で英国艦隊と交戦したことで、ヨークタウンに拠点を置くコーンウォリスは海上からの増援を断たれ、籠城を続けざるを得ない状況に置かれた(この経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この因果を「〜のため籠城を続けざるを得なかった」と述べているわけではない)[SRC-00410]。なお、コトバンク収載のブリタニカ国際大百科事典は、コーンウォリスが1781年4月に低南部内陸地方から北進を始めてヴァージニアへ向かったと記している[SRC-00413]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1780年夏(グレゴリオ暦) ロシャンボー率いるフランス軍5,500名、ロードアイランド州ニューポートに上陸 [SRC-00410]
1781年9月5日(グレゴリオ暦) ド・グラス艦隊、チェサピーク湾で英国艦隊と交戦(Battle of the Capes) [SRC-00410]
1781年9月28日(グレゴリオ暦) ワシントンとロシャンボーの連合軍、ウィリアムズバーグからヨークタウンへ進軍し、包囲を開始 [SRC-00410][SRC-00414]
1781年10月9日までに(グレゴリオ暦) 連合軍の塹壕が完成し、大砲が前進配置される [SRC-00410]
1781年10月14日(グレゴリオ暦) 連合軍、英軍の第9・第10稜堡を攻略 [SRC-00410]
1781年10月17日(グレゴリオ暦) コーンウォリス、降伏交渉の使者を送る [SRC-00410]
1781年10月19日(グレゴリオ暦) コーンウォリス軍、降伏 [SRC-00410]
1783年1月20日(グレゴリオ暦) 全当事者が合意に達し、休戦が宣言される [SRC-00412]
1783年9月3日(グレゴリオ暦) パリ条約が批准され、独立戦争が正式に終結 [SRC-00412]

暦の注記: 上表の日付はいずれもグレゴリオ暦(イギリス・北米植民地は1752年の改暦以降グレゴリオ暦を用いており、1781年の事象はすべてグレゴリオ暦の範囲内にある)。改暦境界(1582年10月・明治5年)には該当しない。

異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

日本語圏の代表的な世界史事典・辞典6件(コトバンク収載)を確認したところ、「ヨークタウンの戦い」をどの日付・局面で捉えるかについて、収載辞典間でも記述が一致しなかった[SRC-00413]。降伏日(10月19日)は複数の辞典で共通して確認できたが、9月28日を明示する辞典は1件もなかった。

米国立公園局(Yorktown Battlefield)は、ワシントン・ロシャンボーがウィリアムズバーグからヨークタウンへ進軍し、1781年9月28日に包囲を始めたと明記している[SRC-00410]。American Battlefield Trustの当該戦闘頁も、同じ9月28日を連合軍がヨークタウン付近に到着し直ちに包囲に取りかかった日として記す[SRC-00414]。ただし同頁の見出しは戦闘全体を「Sep 28 - Oct 19, 1781」という期間で掲げており、後述する日本大百科全書の期間型の整理に近い枠づけである。さらに同じ頁に掲載されたスペイン語版へのカードは、開始日を1日ずらした「Sep 29 - Oct 19, 1781」としており、同一機関内でも起点日の記述が一致しない[SRC-00414]。米国立公園局とは別に、American Battlefield Trustの史跡案内頁にも1781年9月28日という日付が独立に記載されている[SRC-00411]。一方、精選版日本国語大辞典は「包囲攻撃」そのものを1781年10月19日の出来事として記述し、「独立軍は勝利を確定し、事実上の終戦にはいった」と評価する[SRC-00413]。ブリタニカ国際大百科事典(小項目事典)は、1781年4月にコーンウォリスが低南部内陸地方から北進を始めたと記したうえで、10月6日にワシントン軍約9,000とロシャンボー軍約7,800の連合軍が英軍約6,000を包囲攻撃したと記す[SRC-00413]。日本大百科全書(署名: 島川雅史)は、戦闘全体の期間を「1781年8月30日から10月19日にかけて」とし、英軍約8,000・連合軍約1万6,000という兵力数を挙げる(8月30日が具体的に何を指すかは、本記事が確認した範囲では特定できていない)[SRC-00413]。

兵力数についても資料間で幅がある。英軍守備隊の規模は、ブリタニカ国際大百科事典が約6,000、山川世界史小辞典が約7,000、日本大百科全書・旺文社世界史事典が8,000としており、米国立公園局は8,300、American Battlefield Trustはさらに大きい9,000としている[SRC-00410][SRC-00413][SRC-00414]。本記事が確認した範囲(コトバンク収載6事典・米国立公園局・American Battlefield Trust)では、英軍守備隊の兵力数は約6,000〜9,000の幅で記述が分かれている。

これらは必ずしも互いに矛盾する記述ではなく、「戦いの開始」をどの局面(連合軍のヨークタウン到達・包囲の開始/米仏合流時の兵力集計/降伏に至った包囲攻撃そのもの)に置くか、また兵力をいつの時点でどう数えるかという、整理の違いである可能性が高い(本サイトの整理)。本記事は、この戦場に特化した米国立公園局の記述に基づき、連合軍がウィリアムズバーグから進軍しヨークタウンへの包囲を開始した「9月28日」を採用した。American Battlefield Trustも同じ9月28日を到着・包囲着手の日として記すが、前述のとおり同機関自身の見出しも戦闘全体を期間で枠づけ、スペイン語版のカードでは起点が1日ずれる点には留意を要する(本サイトの整理)。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
ヨークタウンの戦いの「開始」日 9月28日(連合軍がウィリアムズバーグから進軍し包囲を開始した日) [SRC-00410] 米国立公園局の記述による、点としての開始日
同上 9月28日〜10月19日を戦闘期間とする整理(9月28日到着・包囲着手〜10月19日降伏)。同一頁のスペイン語版は起点を9月29日とする [SRC-00414] American Battlefield Trustの当該戦闘頁の見出し。同一機関内で英語版と起点日が割れる
同上 10月19日(「包囲攻撃」自体をこの日の出来事とし「事実上の終戦」と評価) [SRC-00413] 精選版日本国語大辞典の記述
同上 10月6日(ワシントン軍・ロシャンボー軍の連合軍が英軍を包囲攻撃した日) [SRC-00413] ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の記述
同上 8月30日〜10月19日を戦闘期間とする整理(8月30日が具体的に何を指すかは本記事の確認範囲では未特定) [SRC-00413] 日本大百科全書(署名: 島川雅史)の記述
英軍守備隊の兵力数 約6,000〜9,000の幅(ブリタニカ国際大百科事典6,000/山川世界史小辞典7,000/日本大百科全書・旺文社世界史事典8,000/米国立公園局8,300/American Battlefield Trust9,000) [SRC-00410][SRC-00413][SRC-00414] 日本語圏の事典・米国立公園局・American Battlefield Trustの間で数値が一致しない

もう一点、整理を要する論点がある。この戦いを「独立戦争を決着させた戦い」と紹介する場合があるが、独立戦争が公式に終結したのはパリ条約が批准された1783年9月3日であり、ヨークタウンでの降伏(1781年10月19日)そのものが公式な終結ではない[SRC-00412]。米国立公園局自身、この解説ページの冒頭で、戦闘とパリ条約批准(1783年9月)との時間差に多くの来訪者が戸惑う旨を述べ、降伏から条約批准までの約2年間に何があったかを別立てで解説している[SRC-00412]。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

この包囲戦での英軍降伏の報を受け、英国政府では首相ノース卿とトーリー党内閣が退陣し、ロッキンガム率いるホイッグ党が政権を握って講和交渉が始まった[SRC-00412]。ただし、独立戦争が国際法上公式に終結したのは、予備講和(1782年11月)・休戦宣言(1783年1月20日)を経てパリ条約が批准された1783年9月3日であり、ヨークタウンでの降伏から約2年を要した点は、前節(異説・論争)で述べたとおりである[SRC-00412]。

現代の視点

「ヨークタウンでアメリカ独立戦争が終わった」という語られ方は広く定着しているが、ヨークタウン古戦場を管理する米国立公園局自身が、解説ページの冒頭で、多くの来訪者が戦闘と条約批准(1783年9月)との時間差に戸惑う旨を述べ、降伏から批准までの約2年間の外交交渉(予備講和・スペインとの利害調整・条約批准手続き)を別立てで解説していることは注目に値する[SRC-00412]。一つの戦闘の決着と、戦争という国家間関係の法的終結との間には、しばしば長い距離があることを、この事例は示している(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-00410] History of the Siege (Yorktown Battlefield)/National Park Service (Colonial National Historical Park, Yorktown Battlefield)(ランクA)
  2. [SRC-00411] Yorktown Battlefield/American Battlefield Trust(ランクB)
  3. [SRC-00412] After Yorktown: From the Siege of 1781 to the Treaty of Paris in 1783/National Park Service (Colonial National Historical Park, Yorktown Battlefield)(ランクA)
  4. [SRC-00413] よーくたうんの戦い(ヨークタウンの戦い)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営、複数辞典を収載するアグリゲータ)(ランクB)(複数の資料を収載)
  5. [SRC-00414] Yorktown/American Battlefield Trust(ランクB)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-03
22026-09-05あり
32026-09-07あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。