英軍、ニューヨークから撤退——大陸軍を率いてワシントンが入城した1783年11月25日
日付と暦
- 原典表記
- 1783年11月25日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1783-11-25(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 11月25日のページ
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概要
1783年11月25日、独立戦争末期の英軍最後の部隊がニューヨーク市から撤退し、ジョージ・ワシントン率いる大陸軍とジョージ・クリントン州知事が市内へ入城した[SRC-00800][SRC-00801][SRC-00802]。撤退にあたり、英軍はバッテリーのフォート・ジョージに翻る英国旗を降ろさず、旗竿にグリースを塗って立ち去った。星条旗への掲げ替えは、元ニューヨーク植民地徴募部隊(Levies)の軍曹ジョン・ヴァン・アースデイルが金具を打ちつけて旗竿を登った後にようやく実現したと伝えられる[SRC-00800][SRC-00802]。この日の夜、クリントン知事はフランシス・タバーンで晩餐会を開き[SRC-00800][SRC-00801][SRC-00802]、13の乾杯が交わされた[SRC-00800][SRC-00802]。のちに「エバキュエーション・デー」と呼ばれるようになったこの日は、南北戦争前まではニューヨーク州で最も重要な市民的祝日となり、1883年の100周年には100万人超が参加する盛大な祝祭になったが、1916年を最後に公的な祝賀は途絶えた[SRC-00800]。
本文
英軍は1776年のロングアイランドの戦いと大陸軍の撤退以来、ニューヨーク市を占領の拠点としていた[SRC-00800]。独立戦争の終結を告げるパリ条約が1783年9月3日に署名されると[SRC-00801]、その報は同年11月初旬にニューヨークへ届いた[SRC-00800]。11月21日、北米駐留英軍総司令官ガイ・カールトンは部隊に撤退準備を命じた[SRC-00800][SRC-00802]。同じ日、ワシントンとクリントンはハーレムのデイズ・タバーンへ到着し[SRC-00802]、ヘンリー・ノックス少将は800名の大陸軍兵を率いてニューヨーク市の北境まで進出し、待機に入った[SRC-00800]。
撤退・入城の日として定められたのは1783年11月25日、火曜日だった[SRC-00802]。混乱を避けるため、両軍司令官の了解のもと英軍撤退の時刻は正午と定められ、英軍が持ち場を明け渡すそばから米軍が進駐する段取りだったが[SRC-00802]、実際にノックスが英軍からの合図を受け行軍を始めたのは午後1時頃だった[SRC-00800][SRC-00802]。英軍はバワリーを東河へ向けて行進して乗船し、ノックス率いる米軍はブロードウェイを下ってケープズ・タバーンへ進み、市を占拠した[SRC-00800][SRC-00802]。
一方、ワシントンとクリントンはバワリーのブルズ・ヘッド・タバーンでノックスの出迎えを受け、副知事ピエール・ヴァン・コートラントら評議会、ノックスと将校ら、騎乗・徒歩の市民が加わった行列を組んで市内へ入った[SRC-00801][SRC-00802]。行列はパール街・ウォール街を経てブロードウェイに出て、ケープズ・タバーンでノックス隊と合流し、祝辞が呈上された[SRC-00802]。
その後、一行はバッテリーへ向かい、フォート・ジョージに星条旗を掲げる最後の儀式に臨んだ。ところが英軍は要塞を解体して重砲・物資を撤収する一方、王旗を降ろさずに立ち去っていた。旗は旗竿に釘付けされ、揚降索は取り外されていた[SRC-00802]。旗竿自体にグリースが塗られていた[SRC-00800][SRC-00802]。砲兵は祝砲の準備をしていたが、グリースのため誰も旗竿を登れず、一同はやむなく地面に立てた竿の旗に祝砲3、4発を撃つという「時期尚早で屈辱的」な代替措置をとった[SRC-00802]。そこへ元ニューヨーク植民地徴募部隊(Levies)の軍曹ジョン・ヴァン・アースデイルが登坂を志願し、最初は失敗したものの、金具(cleats)を打ちつける方式に切り替え、途中からは梯子も使って頂上に達した[SRC-00800][SRC-00802]。英国旗を引き下ろして新しい揚降索を通した[SRC-00802]。この索によってアンソニー・グリーン中尉の手で星条旗が掲げられ、祝砲13発が轟いたという[SRC-00802]。
この儀式の後、ワシントンら将官はクリントンとともにフランシス・タバーンへ赴き、知事主催の晩餐会が開かれた[SRC-00800][SRC-00801][SRC-00802]。同盟国への敬意と将来への希望を込め、13の乾杯が交わされた[SRC-00800][SRC-00802]。
歴史的背景
ニューヨーク市は1776年のロングアイランドの戦いと大陸軍の撤退以降、独立戦争を通じて英軍の作戦拠点となっていた[SRC-00800]。ガイ・カールトンは1781年に総司令官に任命され、同年10月のコーンウォリスのヨークタウン降伏後は、ロイヤリスト避難民の移送を組織する立場にあった[SRC-00800]。フランシス・タバーン博物館によれば、1783年11月25日に英軍が撤退したニューヨーク市は、独立戦争中に英軍が占領を続けたアメリカの都市のうち最後まで占領が続いた都市だったという[SRC-00801]。
独立戦争を終結させたパリ条約は1783年9月3日に署名され、合衆国を独立国家として正式に承認した[SRC-00801]。もっとも、この条約の締結と、ニューヨークからの英軍撤退・その後の祝賀とは、歴史的な位置づけが異なるという整理がある——後述の「異説・論争」で扱う[SRC-00800]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1783年9月3日(グレゴリオ暦) | パリ条約が署名され、独立戦争が法的に終結する | [SRC-00801] |
| 1783年11月初旬(グレゴリオ暦) | パリ条約締結の報がニューヨークに届く | [SRC-00800] |
| 1783年11月21日(グレゴリオ暦) | カールトンが撤退準備を命令 | [SRC-00800][SRC-00802] |
| 1783年11月21日(グレゴリオ暦) | カールトンがキングズブリッジ〜マクガウンズ・パスの陣地を撤収。ワシントン・クリントンがハーレムへ到着 | [SRC-00802] |
| 1783年11月21日(グレゴリオ暦) | ノックスが800名を率い市の北境へ進出 | [SRC-00800] |
| 1783年11月25日(グレゴリオ暦) | 英軍最後の部隊がニューヨーク市から撤退。大陸軍が入城し、フォート・ジョージで星条旗を掲揚。夜はフランシス・タバーンで晩餐会 | [SRC-00800][SRC-00801][SRC-00802] |
| 1783年12月4日(グレゴリオ暦) | ワシントンがフランシス・タバーンで将校らに別れを告げる | [SRC-00800][SRC-00801][SRC-00802] |
| 1787年(グレゴリオ暦) | 市内駐屯部隊が観閲式の日付を11月25日へ移し、公的な祝賀が定着し始める | [SRC-00800] |
| 1883年(グレゴリオ暦) | 100周年記念祭。2万5000名の兵士、100万人超の観衆(チェスター・A・アーサー大統領を含む)が参加 | [SRC-00800] |
| 1916年11月25日(グレゴリオ暦) | 最後の記録された公的祝賀。オールド・ガードの退役軍人60名が旗を掲げる | [SRC-00800] |
暦の注記: 上表はいずれもグレゴリオ暦である。イギリス本国・北米植民地は1752年9月14日にグレゴリオ暦へ移行しており(本サイトの換算方針 R-CAL-9・docs/glossary.md)、1783年時点ではこの改暦境界に起因する複雑さは生じない。換算は不要である。
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
第一に、独立戦争の実質的な終結をどこに置くかという位置づけの違いがある。ニューヨーク州立公文書館機関誌は「条約は戦争の公式な終結を画したが、英軍撤退とそれに続く祝賀は、心理的・感情的な終結を画した」と整理する[SRC-00800]。フランシス・タバーン博物館は、パリ条約こそが「独立戦争を終結させ、合衆国を独立国家として正式に承認した」条約だと位置づける[SRC-00801]。両者は対立する主張というより、法的な終結(条約)と心理的・象徴的な終結(撤退)という異なる次元を指しており、本サイトはいずれか一方を正しいとは判定しない(本サイトの整理)。
第二に、旗竿を登った人物をめぐる伝承には、同時代からの反証が存在する。旗竿事件とジョン・ヴァン・アースデイルの逸話は、州立公文書館機関誌・郷土史家ジェームズ・ライカーの著作の双方で語られる、広く知られた話である[SRC-00800][SRC-00802]。しかし1831年、当時現場に居合わせ「旗竿から2フィート以内にいた」と自認する元砲兵士官ジョン・ヴァン・ダイクが、新聞への投書で「引き下ろすべき英国旗は旗竿になかった」「梯子も使われなかった」と最も断定的な言葉で述べたうえ、ヴァン・アースデイルが伝えられる役割を果たしたことについても強くほのめかす形で異を唱えた[SRC-00802]。これに対し著者ライカーは、初代駐英大使ジョン・アダムズが正式な降伏・旗の降下なしに撤退したことを非友好的な行為として抗議した記録(歴史家ドーソン氏からの手紙で著者に伝えられたという)、1808年刊のウォラバウト委員会のパンフレット、撤退翌日付の書簡(「彼らは要塞の旗竿から揚降索を切り取り、さらに柱にグリースを塗った」)、および複数の名指しした証言者(梯子の使用を証言したアンソニー・グリーン中尉、撤退当日の登攀を実見したという故ピアソン・ハルステッド、のちにヴァン・アースデイル本人と面識を得たジョン・ニクソンら)を挙げて反論し、ヴァン・ダイクの否定説は「時の経過によって、かつてよく知られていた事実がいかに記憶から消え去りうるかを示すにすぎない」と結論づけている[SRC-00802]。もっとも、著者ライカーが挙げるこれらの証言は、いずれも同一の著者・同一の書物(本書自体)が収集・提示したものである。さらに本書は、副題に「この日の彼の功績によって敵は出し抜かれ、星条旗はバッテリーに掲げられた」と掲げ、ヴァン・アースデイルの功績の顕彰を目的として1883年の100周年に際し自費出版された記念出版である[SRC-00802]。本サイトの登録出典の範囲では、ヴァン・ダイクの反証を独立に裏づける他の記録も、ライカー側の反証を独立に裏づける別系統の記録も確認できておらず、いずれの説が正しいかは判別不能である(本サイトの整理)。
第三に、撤退当日の旗をめぐる市民の抵抗の逸話には、資料によって細部が異なる伝承がある。州立公文書館機関誌は「Mrs. Dayという女性が少し早めに自らの星条旗を掲げ、英国将校に咎められると、箒の一撃でその鼻から血を流させた——その日唯一の暴力的な衝突だった」と記す[SRC-00800]。一方、ライカーの著作は、マレー街の(氏名不詳の)宿屋の女将が星条旗を掲げたのに対し、看守隊長カニンガム大尉が「その旗をしまえ、この街はまだ正午まで我々のものだ」と怒鳴って引き下ろそうとし、女将が箒でカニンガムのかつらから白粉が舞うほど打ちすえて退散させたという逸話を、ドクター・ロッシング経由でアレクサンダー・アンダーソン博士の目撃談として紹介する[SRC-00802]。人物名(Mrs. Dayという固有名か、氏名不詳の宿屋女将か)、相手(一般の英国将校か、看守隊長カニンガムか)、負傷の描写(鼻血を流させたか、かつらの白粉が舞ったか)が異なっており、両者が同一の出来事の異なる伝わり方なのか、それとも別々の出来事なのかは、本サイトの登録出典からは判別できない(判別不能・本サイトの整理)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 戦争の実質的終結 | パリ条約(1783年9月3日)が法的・公式な終結 | フランシス・タバーン博物館 | [SRC-00801] 条約の法的効力に着目した位置づけ |
| 同上 | ニューヨーク撤退(1783年11月25日)とその祝賀が心理的・感情的な終結 | ニューヨーク州立公文書館機関誌 | [SRC-00800] 象徴的・体験的な終結に着目した位置づけ。両者は排他的でなく次元が異なる(本サイトの整理) |
| 旗竿を登った人物 | ジョン・ヴァン・アースデイルが金具と梯子で旗竿を登り、英国旗を引き下ろして新しい揚降索を通した(掲揚自体はアンソニー・グリーン中尉によるとされる) | 州立公文書館機関誌、ライカーが収集した複数の回想証言(グリーン中尉・ハルステッド・チャップマン・ニクソン・ジョンソン将軍・ローレンス少佐ら。いずれも同一著者・同一書物による) | [SRC-00800][SRC-00802] 証言はすべて同一編纂者・同一書物に由来し独立系統は1。判別不能(本サイトの整理) |
| 同上 | 英国旗は旗竿になく、梯子も使われなかったと最も断定的な言葉で述べられ、ヴァン・アースデイルは伝えられる役割を果たしていないと強くほのめかされた | 元砲兵士官ジョン・ヴァン・ダイク(1831年、新聞投書) | [SRC-00802] 反証を独立に裏づける他の記録は登録出典の範囲では確認できない。反論側の証言もライカー自身の編纂に由来するため、いずれが正しいかは判別不能(本サイトの整理) |
| 撤退当日の旗をめぐる抵抗の逸話 | Mrs. Dayが英国将校の鼻を箒で打って出血させた | 州立公文書館機関誌 | [SRC-00800] 人物名を伴う伝承 |
| 同上 | 氏名不詳の宿屋女将が看守隊長カニンガムを箒で打ちすえた | ライカー著作(アンダーソン博士の目撃談経由) | [SRC-00802] 人物名を欠く伝承。両伝承が同一の出来事かは登録出典からは判別できない(本サイトの整理) |
関連する出来事
- 1781年10月、ヨークタウンでコーンウォリス卿率いる英軍が降伏した。この降伏を機に、カールトンはロイヤリスト避難民の移送を組織し始めた[SRC-00800]。
- 1783年9月3日、パリ条約が署名され、独立戦争が法的に終結した[SRC-00801]。
- 1783年12月4日、ワシントンはフランシス・タバーンで大陸軍の将校らに別れを告げた[SRC-00800][SRC-00801][SRC-00802]。
関連人物
- ジョージ・ワシントン(George Washington): 大陸軍最高司令官。大陸軍を率いてニューヨーク市へ入城した[SRC-00800][SRC-00801][SRC-00802]。
- ガイ・カールトン(Guy Carleton): 北米駐留英軍総司令官。1783年11月21日に撤退準備を命じ[SRC-00800][SRC-00802]、同日キングズブリッジからマクガウンズ・パスまでの陣地を撤収した[SRC-00802]。
- ジョージ・クリントン(George Clinton): 当時のニューヨーク州知事。ワシントンとともに入城し、同日夜フランシス・タバーンで晩餐会を主催した[SRC-00800][SRC-00801][SRC-00802]。
- ヘンリー・ノックス(Henry Knox): 大陸軍少将。撤退後最初に部隊を率いて市内へ進駐した[SRC-00800][SRC-00802]。
- ジョン・ヴァン・アースデイル(John Van Arsdale): 元ニューヨーク植民地徴募部隊(Levies)の軍曹。フォート・ジョージのグリースを塗られた旗竿を登り、英国旗を引き下ろして新しい揚降索を通したと伝えられる(掲揚自体はアンソニー・グリーン中尉によるとされる。伝承の細部には異説がある——異説・論争節参照)[SRC-00800][SRC-00802]。
歴史的意義
英軍のニューヨーク撤退と大陸軍の入城は、フランシス・タバーン博物館によれば独立戦争中に英軍が最後まで占領を続けたアメリカの都市からの撤退だった[SRC-00801]。著者ライカーは、この撤退の場面を「7年に及ぶ戦いを経て輝かしく勝ち取られた独立」を体現する場面として描いている[SRC-00802]。撤退にあたり英軍が正式な降伏の手続きや旗の引き下ろしを行わずに立ち去ったという細部は、当事者であった初代駐英大使ジョン・アダムズが後年、非友好的な行為として不満を述べた記録(歴史家ドーソン氏から著者に伝えられたという)として残るほど、当時の人々の記憶に刻まれた出来事だった[SRC-00802]。
この日はのちに「エバキュエーション・デー」として、1787年以降ニューヨークで公的に祝賀されるようになり、南北戦争前までは州の最も重要な市民的祝日だったという[SRC-00800]。1883年の100周年記念祭には、ニューヨーク歴史協会書記ジョン・オースティン・スティーヴンズの組織のもと、2万5000名の兵士とチェスター・A・アーサー大統領を含む100万人超の観衆が参加する規模に達した[SRC-00800]。ある一つの出来事の記念日が、州で最も重要な市民的祝日と呼ばれるほどの規模に達したという事実は、独立という達成が同時代人にとってどれほど生々しい体験だったかを物語る(本サイトの整理)。
現代の視点
もっとも、歴史家クリフトン・フッドの言葉として、ニューヨーク州立公文書館機関誌は「記憶のために捧げられた祝日でありながら……忘れられていたことによって記憶されている」と紹介する[SRC-00800]。エバキュエーション・デーの公的な祝賀は南北戦争のトラウマによって大きく周縁化した[SRC-00800]。同誌はまた、伝統的にニューヨークで独立記念日と同じ週に祝われていたサンクスギビングが1863年に全国的祝日となったことにも触れている[SRC-00800]。こうして1916年11月25日の祝賀を最後に、公的な祝賀は途絶えた[SRC-00800]。今日、この出来事の記憶は、当時ワシントンとクリントンが晩餐会を開いたフランシス・タバーンを保存・運営する博物館など、特定の史跡・団体の中に主に受け継がれている[SRC-00801](同館を運営するSons of the Revolutionについて、州立公文書館機関誌は、かつてエバキュエーション・デーを社交欄向けの私的な晩餐会・舞踏会として祝うことで、この祝日を周縁化させた一因になったと記す[SRC-00800])。南北戦争前まで州で最も重要な市民的祝日だった出来事が、一世紀余りを経て公的な祝賀からほぼ姿を消し、「忘れられたことによって記憶されている祝日」とまで呼ばれるに至った経過そのものが、この出来事の「へぇ」の所在である(本サイトの整理)。
出典一覧
- [SRC-00800] Evacuation Day (New York Archives, Vol. 10, No. 2, Fall 2010)/New York State Archives Partnership Trust(機関誌『New York Archives』編集発行元)(ランクA)
- [SRC-00801] History — Fraunces Tavern® Museum/Fraunces Tavern Museum(運営: Sons of the Revolution in the State of New York)(ランクA)
- [SRC-00802] "Evacuation Day", 1783, Its Many Stirring Events: with recollections of Capt. John Van Arsdale of the Veteran Corps of Artillery/James Riker(著者。初版1883年、ニューヨークで刊行。本記録の閲覧版はProject Gutenberg、電子化底本はInternet Archive/American Librariesのスキャン)(ランクB)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-05 | あり |
| 2 | 2026-09-06 | あり |
| 3 | 2026-09-06 | あり |
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