1868年江戸時代

鳥羽・伏見の戦い、開戦 — 戊辰戦争の火ぶたが切られた日

日付と暦

原典表記
慶応4年1月3日(和暦・太陰太陽暦)
換算
1868-01-27(グレゴリオ暦)
掲載日
1月3日のページ

暦の注記: この出来事は和暦(太陰太陽暦)の慶応4年1月3日夕刻に起きた(グレゴリオ暦換算: 1868年1月27日)[SRC-01112]。慶応4年は、その年9月8日の改元の詔により後年「明治元年」とも呼ばれるようになったが[SRC-01112]、開戦当日時点で効力を持っていた元号は「慶応」であり、本記事はこれを採用する。国立公文書館の資料紹介ページはこの出来事を「明治元年正月3日」と表記する一方[SRC-01113]、同館の別の企画展ページは「慶応4年正月」と表記しており[SRC-01114]、同一発行主体内でも表記が割れている(対立する異説ではなく編集方針の相違とみられる)。なお、慶応3年12月9日の王政復古の大号令は、グレゴリオ暦換算では1868年1月3日にあたる[SRC-01112]——本記事の開戦日(和暦1月3日)とは和暦・西暦で「3」の現れる位置が入れ替わる、まったく別の日である。本サイトでは開戦の原典日付である 01-03 のページに掲載している。換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」による[SRC-01112]。

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概要

慶応4年(1868年)1月3日夕刻、京へ向けて北上していた旧幕府軍と、これを阻止しようとした薩摩藩兵ら新政府軍とが、京都南郊・鳥羽街道の赤池付近で長時間対峙した末、日没を機に武力衝突を始めた[SRC-01115]。続いて伏見市街でも両軍が衝突し、戊辰戦争と呼ばれる内乱の端緒となった[SRC-01113][SRC-01118]。前年の王政復古の大号令で新政府内の討幕派が優位に立ち、徳川慶喜への辞官・納地要求が強まったとされる[SRC-01118]。こうした反発の中、旧幕府軍は前進を図ったが、翌4日に新政府軍側が錦の御旗を得て「官軍」の立場となり、その士気が大いに高まったと京都市の公式資料は記す[SRC-01115]。旧幕府軍は5日に淀・八幡へ退却し、旧幕府軍に擁された徳川慶喜は6日、大坂を離れて江戸へ向かった[SRC-01115][SRC-01118]。

本文

慶応3年12月9日の王政復古の大号令によって江戸幕府は廃され、前将軍・徳川慶喜は12月12日、京都の二条城から大坂城へと退いた[SRC-01115]。新政府内では討幕派が公議政体派を抑え、慶喜に対して内大臣の辞官と領地の一部返納(辞官納地)を求める動きが強まった[SRC-01118]。旧幕府側はこれに反発し、江戸市中での薩摩藩の挑発的行為に憤激したと事典類は記す[SRC-01118]。日本大百科全書は、この挑発・攪乱工作にのった旧幕府側が江戸薩摩藩邸を焼打ちしたと記す[SRC-01118]。慶応4年1月2日、旧幕府兵に会津藩兵・桑名藩兵らを加えた大軍が、大坂から京へ向けて進発した[SRC-01115][SRC-01118]。

これに対し朝廷は翌1月3日、伏見市街や御香宮神社に薩摩・長州・土佐等諸藩の兵を増派し、鳥羽では城南宮から鳥羽街道の小枝橋に至る西参道や鴨川の竹藪、東側の油小路にかけて薩摩軍が布陣した[SRC-01115]。都を目指し北上する旧幕府軍は、城南宮から南南西五百メートルの赤池に達し、入京を阻止しようとする薩摩軍と長時間対峙した[SRC-01115]。日没が迫り旧幕府軍が強行突破の構えを見せると、喇叭の音を合図に城南宮西参道の薩摩軍の大砲が轟き、銃撃戦が始まった[SRC-01115]。同じ夕刻、鴨川に架かる小枝橋でも両軍が戦端を開いたと京都市の公式資料は伝える[SRC-01116]。続いて伏見でも両軍が衝突し、激戦となった[SRC-01115]。

日本大百科全書は、旧幕府軍(幕兵・会津藩兵・桑名藩兵ら)を約1万5000人、新政府軍(薩摩・長州藩兵ら)を約4500人と記す(登録出典中この数値を示すのはこの項目のみである)[SRC-01118]。ブリタニカ国際大百科事典も、佐幕系兵力(旧幕府軍側)の兵力が新政府軍を上回っていたが、装備力で劣勢だったために敗れたと記す[SRC-01118]。兵力の具体的な内訳は出典によって記述の詳しさが異なるため、本サイトはこれを単一の確定値としては扱わない(異説・論争参照)。

4日も下鳥羽から伏見にかけて戦闘が続いたが、仁和寺宮嘉彰親王が錦の御旗を奉じて御所を出陣したとの報が伝わり、「官軍」となった新政府軍の士気は大いに高まったと京都市の公式資料は記す[SRC-01115]。5日、錦の御旗は鳥羽街道を南に進み、旧幕府軍は淀・八幡へ退却して新政府軍が勝利した[SRC-01115]。京都府教育委員会は、幕末に幕府軍の入城を淀藩が拒んだために淀城下が焼かれたと記す(登録出典中この1件のみが記す事項である)[SRC-01117]。日本大百科全書は、6日に戦いが終了し、慶喜は海路、江戸へ逃れたと記す[SRC-01118]。精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典も、旧幕府軍の敗退の後に慶喜が江戸へ帰った(敗走した)ことを記すが、具体的な離脱日を記すのは日本大百科全書のみである[SRC-01118]。

歴史的背景

鳥羽・伏見の戦いは、慶応3年10月14日の大政奉還(徳川慶喜が政権返上を申し入れ、翌15日に朝廷が受け入れた)によって政権が朝廷へ返上された後[SRC-00419]、同年12月9日の王政復古の大号令で江戸幕府そのものが廃止されるという[SRC-01115]、急速な政治転換の延長線上に起きた。王政復古後の新政府内部では、諸侯による合議を志向する公議政体派と、徳川家の政治的影響力の一掃を目指す討幕派とが主導権を争い、後者が慶喜への辞官納地要求という形で押し切った[SRC-01118]。大坂城に退いた慶喜のもとから旧幕府兵・会津藩兵・桑名藩兵の大軍が京へ向けて進発する一方、朝廷側も御香宮神社周辺・城南宮周辺に薩摩・長州・土佐等諸藩の兵を増派・布陣させ、両軍は事実上の戦闘態勢で向き合うこととなった[SRC-01115]。旺文社日本史事典は、進発した旧幕府側(会津・桑名藩兵ら)が「君側の奸を払う」との名目を掲げていたと記す[SRC-01118]。

タイムライン

日付(和暦・慶応年間。太字行が本記事の開戦日) 出来事 出典
慶応3年12月9日 王政復古の大号令。江戸幕府が廃される(グレゴリオ暦換算1868年1月3日) [SRC-01112][SRC-01115]
慶応3年12月12日 徳川慶喜、二条城から大坂城へ退く [SRC-01115]
慶応4年1月2日 旧幕府兵・会津藩兵・桑名藩兵の大軍が大坂から京へ向けて進発 [SRC-01115][SRC-01118]
慶応4年1月3日 朝廷側が薩摩・長州・土佐等の兵を伏見・鳥羽へ増派・布陣 [SRC-01115]
慶応4年1月3日 夕刻 城南宮西参道での砲撃・銃撃を機に鳥羽で開戦。続いて伏見でも両軍衝突(グレゴリオ暦換算1868年1月27日) [SRC-01112][SRC-01113][SRC-01115][SRC-01116][SRC-01118]
慶応4年1月4日 下鳥羽・伏見で戦闘継続。仁和寺宮嘉彰親王が錦の御旗を奉じて出陣したとの報が伝わる(グレゴリオ暦換算1月28日) [SRC-01112][SRC-01115]
慶応4年1月5日 錦の御旗が鳥羽街道を南進。旧幕府軍は淀・八幡へ退却 [SRC-01115]
慶応4年1月6日 戦い終了。徳川慶喜、江戸へ向けて大坂を離れる(グレゴリオ暦換算1月30日) [SRC-01112][SRC-01118]
異説・論争定説のない論点があります

以下は、史実そのものが未確定という意味の「異説」だけでなく、出典間の記述の詳しさ・元号表記の違いによって生じる分岐も含めて整理する。調査範囲は本記事が挙げた7件の出典(国立天文台暦計算室・国立公文書館2ページ・京都市公式サイト2ページ・京都府教育委員会・コトバンク収載4事典)に限る。「官軍」という当時の位置づけの当否は、いずれの立場が正しいかを本サイトが判定するものではない。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
出来事の年の呼称 「慶応4年」(開戦当日時点で効力を持っていた元号) 国立公文書館の企画展ページ・京都市公式サイトはいずれも「慶応4年」と表記する。コトバンク収載事典では精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典が「慶応4年」と表記する一方、旺文社日本史事典は「1868年」とのみ表記し「慶応」を用いない[SRC-01114][SRC-01115][SRC-01118] 本記事のoriginal_dateはこちらを採用
出来事の年の呼称 「明治元年」(同年9月の改元の詔による後年の遡及呼称) 国立公文書館の資料紹介ページ「日本のあゆみ」は「明治元年(1868)正月3日」と表記する[SRC-01113]。改元の詔が同年9月8日であったことは国立天文台の暦日データベースへの照会結果が示す[SRC-01112] 対立する異説ではなく、遡及改元という制度に由来する編集方針の相違(同一発行主体内でも表記が割れている)
兵力の具体的数値 「旧幕府軍約1万5000人・新政府軍約4500人」という数値の記述あり 日本大百科全書のみがこの具体的数値を記す[SRC-01118] 登録出典中この1件のみの記述。他の事典類(精選版日本国語大辞典・ブリタニカ・旺文社)は具体的数値を記さない
兵力の優劣評価 旧幕府軍が兵力で優勢だったが装備力で劣勢 ブリタニカ国際大百科事典・日本大百科全書がこの評価で一致する[SRC-01118] 独立2系統(ブリタニカ・小学館)の一致
戦死傷者の規模 「3日間の激戦で多くの戦死傷者」という記述にとどまる 京都市公式サイトはこの表現にとどまり、具体的な人数は記さない[SRC-01116] 本サイトが登録した出典の範囲では、具体的な戦死傷者数を示す資料は確保できていない(調査範囲は上記7件)
淀藩の対応 幕末に幕府軍の入城を淀藩が拒み、城下が焼かれた 京都府教育委員会文化財保護課のみがこの事実に触れる[SRC-01117] 登録出典中この1件のみの記述。他系統での裏付けは本記事の調査範囲では確保できていない

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争の発端となり、その後の新政府内での討幕派の主導権を確定させたと日本大百科全書は記す[SRC-01118]。旺文社日本史事典・精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典もこの戦いを戊辰戦争の発端と位置づける点で一致する[SRC-01118]。戦闘そのものは数日間で決したが、新政府軍が「官軍」という立場を得て士気を高めたと京都市の公式資料は記す一方、幕末には幕府軍の入城を淀藩が拒むなど(異説・論争参照)、この戦いをめぐる各方面の対応は一様ではなかった[SRC-01115][SRC-01117]。

現代の視点

国立天文台の照会結果によれば、慶応4年の年の干支は「戊辰(つちのえたつ)」である[SRC-01112]。この内乱が「戊辰戦争」と呼ばれるのは、この干支にちなむ命名と見られる(本サイトの整理。この命名の経緯自体を直接説明する出典は本記事の登録出典中に確保できていない)。本記事は、鳥羽・伏見の開戦という出来事そのものの経緯を扱う。戊辰戦争のその後の展開(江戸城開城・上野戦争・北越戦争・東北戦争・箱館戦争)や、この戦いをめぐる後世の顕彰・地域における記憶のされ方は、本記事の射程外とする。

出典一覧

  1. [SRC-01112] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 慶応3年12月9日・慶応4年1月1日/3日/4日/6日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
  2. [SRC-01113] 日本のあゆみ「明治元年(1868)1月 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争が始まる)」(国立公文書館)/国立公文書館(ランクA)
  3. [SRC-01114] 平成30年度 第1回企画展「戊辰戦争―菊と葵の500日―」概要ページ(国立公文書館)/国立公文書館(ランクA)
  4. [SRC-01115] 鳥羽伏見の戦い跡(駒札全文)|【京都市公式】京都観光Navi/京都市(京都市観光協会運営「京都観光Navi」)(ランクB)
  5. [SRC-01116] 鳥羽伏見戦跡(小枝橋東の碑)|【京都市公式】京都観光Navi/京都市(京都市観光協会運営「京都観光Navi」)(ランクB)
  6. [SRC-01117] 淀城跡(京都府教育委員会 文化財保護課)/京都府教育委員会 文化財保護課(ランクB)
  7. [SRC-01118] 鳥羽伏見の戦い(コトバンク収載: 精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・旺文社日本史事典 三訂版)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)/収載各事典の発行元は下記contained_works参照(ランクB)(複数の資料を収載)
  8. [SRC-00419] 大政奉還(コトバンク収載)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-07—
22026-09-07あり
32026-09-28なし

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