徳川慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出し、政権を返上した

日付と暦

原典表記
慶応3年10月14日(和暦・太陰太陽暦)
換算
1867-11-09(グレゴリオ暦)
掲載日
10月14日のページ

暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の慶応3年10月14日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1867年11月9日)[SRC-00418][SRC-00419]。本サイトでは 10-14 のページに掲載している。換算値は国立天文台「日本の暦日データベース」による [SRC-00418]。

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概要

慶応3年(1867年)10月14日、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は、朝廷へ大政奉還の上表文を提出した[SRC-00419][SRC-00421]。前月から続いていた土佐藩の建白(山内容堂の名で、後藤象二郎の周旋による)を受け、慶喜は10月12日から13日にかけて二条城で老中以下の諸有司・在京諸藩の重臣を招集し諮問したうえでこの決断に踏み切ったと改訂新版世界大百科事典は記す[SRC-00419]。朝廷は翌15日、この上表を許可(勅許)した[SRC-00419]。同じ14日、討幕派の薩摩・長州両藩には、後世「討幕の密勅」と呼ばれることになる勅書も別途手交されていた[SRC-00420]。

本文

慶応3年(1867)に入り、幕府に代わって雄藩が朝廷のもとに連合政権を作るべきだとする公議政体論が有力になっていた[SRC-00419]。土佐藩参政の後藤象二郎は、幕府若年寄格の永井尚志と連絡をとり、前藩主山内豊信(容堂)の名で、10月3日、大政奉還を求める建白書を老中板倉勝静を通じて将軍慶喜に提出した[SRC-00419][SRC-00421]。6日には芸州(広島)藩も同様の建白書を提出した[SRC-00419]。

慶喜は板倉勝静・永井尚志らとはかって大政奉還を決意し、松平慶永ら諸大名にも意見を求めた[SRC-00419]。10月12日から13日にかけて、老中以下の諸有司と在京諸藩の重臣を二条城に招集して諮問したと改訂新版世界大百科事典は記す[SRC-00419]。翌14日、永井尚志の起草になる上表文が、武家伝奏日野資宗・飛鳥井雅典を通じて朝廷に出された[SRC-00419]。上表文には「当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ,愈朝権一途ニ出申サズ候テハ,綱紀立チ難ク候間,従来之旧習ヲ改メ,政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ,広ク天下之公議ヲ尽シ,聖断ヲ仰ギ,同心協力,共ニ皇国ヲ保護仕候得バ,必ズ海外万国ト並ビ立ツ可ク候」と記されている(改訂新版世界大百科事典による引用)[SRC-00419]。朝廷はこの上表を翌15日に許可した[SRC-00419]。

慶喜はさらに10日後の10月24日、将軍職の辞表も朝廷に提出したが、朝廷はこれを却下し、諸大名が上京するまで当分政務を委任する対応をとったと佐々木克は記す[SRC-00421]。

歴史的背景

背景には、慶応3年5月の兵庫開港をめぐる朝議で、有力4侯(島津久光・伊達宗城・山内容堂・松平慶永)の意見が押し切られる形で決着し、朝幕二元体制の限界が意識されたことがあった[SRC-00419][SRC-00421]。鹿児島藩(薩摩藩)の倒幕派はこれを機に武力倒幕へ傾き、萩藩(長州藩)と結んで討幕挙兵の計画を進めていた[SRC-00419][SRC-00420]。土佐藩は、この武力衝突を回避しつつ雄藩連合による新政権を樹立する道として、大政奉還論を推し進めた[SRC-00419]。同じ10月14日に討幕派が「討幕の密勅」と後世呼ばれる勅書を得ていたのは、武力倒幕の路線が並行して進んでいたことを示している(本サイトの整理)[SRC-00420]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
慶応3年10月3日(和暦) 土佐藩、山内容堂の名で大政奉還を求める建白書を将軍徳川慶喜に提出 [SRC-00419][SRC-00421]
慶応3年10月6日(和暦) 芸州(広島)藩も大政奉還を求める建白書を提出 [SRC-00419]
慶応3年10月12日〜13日(和暦) 徳川慶喜、二条城に老中以下の諸有司・在京諸藩の重臣を招集し諮問(改訂新版世界大百科事典の記述) [SRC-00419]
慶応3年10月14日(和暦・グレゴリオ暦換算1867年11月9日) 徳川慶喜、朝廷へ大政奉還の上表文を提出。同日、討幕派の薩摩・長州両藩に「討幕の密勅」と後世呼ばれる勅書が手交される [SRC-00418][SRC-00419][SRC-00420][SRC-00421]
慶応3年10月15日(和暦) 朝廷、大政奉還の上表を許可(勅許) [SRC-00419]
慶応3年10月24日(和暦) 徳川慶喜、将軍職の辞表を朝廷に提出(朝廷は却下。佐々木克の記述) [SRC-00421]
慶応3年12月9日(和暦) 王政復古の政変(クーデタ)が起こる [SRC-00419]

暦の注記: 上表の日付(慶応3年10月14日)は和暦(旧暦)であり、グレゴリオ暦換算は1867年11月9日である(国立天文台「日本の暦日データベース」照会値、双方向で一致確認済み)[SRC-00418]。改暦境界(1582年10月・明治5年)には該当しない。

異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

討幕の密勅の真偽をめぐって: コトバンク収載の複数事典は、討幕派(薩摩・長州)が同じ10月14日に得たとされる「討幕の密勅」について、天皇の直筆がなく、勅旨伝宣の奏者として名を連ねた中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之の花押もないなど形式上の異例を指摘し、複数の資料が偽勅(正式な手続きを経ない偽造の勅書)とする見方を示す[SRC-00420]。デジタル大辞泉は「天皇の直筆がないことなどにより偽勅とする説もある」とし、日本大百科全書は「天皇の直筆もなければ、勅旨伝宣の奏者として名を連ねた中山忠能(ただやす)、正親町三条実愛、中御門経之(なかみかどつねゆき)の花押(かおう)もない」としたうえで「偽勅説もあり、学界への原本の公開は昭和に入ってからである」と記す[SRC-00420]。山川日本史小辞典改訂新版はさらに踏み込み、「現在では岩倉具視(ともみ)と薩長藩士数人が…作為した偽勅と解されている」とする[SRC-00420]。旺文社日本史事典三訂版も「この密勅は形式が異例のため偽勅説もある」と記す[SRC-00420]。一方、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典は偽勅かどうかには触れず、「この日,江戸幕府が大政を奉還したので,計画は挫折し,この密勅は取消しとなった」と結果のみを記す[SRC-00420]。

幕末政治史を専門とする佐々木克(奈良大学文学部教授・京都大学名誉教授)は、討幕の密勅について「簡単に触れておきます」と前置きしたうえで、これらの事典の留保的な書き方よりさらに踏み込み(本サイトの整理)、「はっきり言ってこれは「偽勅」、偽物であります」と評価する[SRC-00421]。佐々木は、密勅が正親町三条実愛・中御門経之・中山忠能の3名連名によるものであり、「討幕の密勅」という呼称自体、明治になってから付けられたもので当時この言葉はなかったと指摘する[SRC-00421]。さらに、密勅が挙げる慶喜の「罪」(無勅許での条約調印・世論を無視した第二次長州征討)は、いずれも孝明天皇自身が勅許していたものであり、慶喜だけの罪とすることは事実上無理だとも論じている[SRC-00421]。

密勅とされる文書の日付についても、収載資料間で記述に相違がある。日本大百科全書は、島津久光(薩摩)父子あての文書は10月13日付、毛利敬親(長州)父子あての文書は10月14日付と、両藩で文書の日付が異なると明記する[SRC-00420]。山川日本史小辞典改訂新版も「鹿児島藩と萩藩の藩主父子にあてて」10月13日と14日にそれぞれ下された命令と記し、藩名を挙げて同旨を示す[SRC-00420]。一方、デジタル大辞泉・ブリタニカ・旺文社日本史事典はいずれも「10月14日」とのみ記し、この日付の相違には触れない[SRC-00420]。本記事は、両藩への手交(伝達)が10月14日であったことと、文書自体の日付は薩摩あて13日・長州あて14日と伝えられていることを区別して扱った(本サイトの整理)。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
討幕の密勅の真偽 天皇の直筆がなく、勅旨伝宣の奏者3名(中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之)の花押もないなど形式に異例があり、偽勅とする説が有力 コトバンク収載6事典中4件(デジタル大辞泉・日本大百科全書・山川日本史小辞典改訂新版・旺文社日本史事典。ブリタニカ国際大百科事典・防府市歴史用語集は触れない) [SRC-00420] デジタル大辞泉は「偽勅とする説もある」と留保する記述。日本大百科全書は詳述のうえ留保。山川日本史小辞典改訂新版は「解されている」とさらに踏み込む。旺文社日本史事典三訂版は「偽勅説もある」と留保する記述
同上 「はっきり言ってこれは「偽勅」、偽物であります」と評価 佐々木克(幕末政治史研究者) [SRC-00421] 事典群より踏み込んだ(本サイトの整理)、著者個人の学術的評価として明示される
同上(結果のみ) 偽勅かどうかには触れず、大政奉還により密勅は「取消しとなった」とのみ記す ブリタニカ国際大百科事典小項目事典 [SRC-00420] 真偽の判定を留保
密勅文書の日付 島津久光父子あて=10月13日付、毛利敬親父子あて=10月14日付と両藩で異なる(日本大百科全書は人名で、山川日本史小辞典改訂新版は藩名で同旨を記す) 日本大百科全書・山川日本史小辞典改訂新版 [SRC-00420] デジタル大辞泉・ブリタニカ・旺文社は「10月14日」とのみ記し相違に触れない

大政奉還の意図をめぐる評価: 大政奉還の実施日・上表という事実自体に争いはないが、慶喜の意図についての評価は資料によって幅がある[SRC-00419]。改訂新版世界大百科事典は、当時すでにこれを「権略」とみる見方があったとし、大政奉還は「いったん政権が返上されても朝廷はこれをもてあまし,ふたたび政権は徳川慶喜に委任されるだろうという見込みのうえになされた」もので、慶喜の側近西周が構想していた「大君」制国家(慶喜を行政府の長として強い権限を持たせる構想)への見通しがあったからこそなされたとみてよいと評価する[SRC-00419]。日本大百科全書も同様に、「大政をいったん朝廷に返しても、いずれ政局収拾の主導権は慶喜の手中に収まり…「大君」制国家を創出しうるとみていた」と記す[SRC-00419]。ブリタニカ国際大百科事典小項目事典は「慶喜は必ずしも政権の全面的放棄を考えていたのではなく,新政体のもとであらためて実権を掌握する構想を秘めていた」とし、旺文社日本史事典三訂版は「雄藩連合政権下での徳川氏の存続や土佐藩の発言権増大をねらったものであった」と記す[SRC-00419]。これらはいずれも出典・論拠を明示しない見解であり、学界の定説として一枚岩ではない(本サイトの整理)。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

大政奉還は、鎌倉幕府以来(あるいは江戸幕府成立以来)続いてきた武家政治の形式上の終わりを意味した(本サイトの整理)[SRC-00419]。しかし政権は朝廷にすぐには移らず、朝廷は諸大名が上京するまで当分政務を幕府に委任する対応をとったと佐々木克は記す[SRC-00421]。政治の実権をめぐる主導権争いは収まらず、同年12月9日の王政復古の政変を経て、翌年の戊辰戦争へと展開していくことになる[SRC-00419]。

現代の視点

「大政奉還で江戸幕府が終わった」という説明がよくなされるが、この出来事の当日、討幕派が武力による決着を見込んだ「討幕の密勅」を得ていたという事実は、政権交代が平和的な手続きだけで完結しなかったことを示している(本サイトの整理)[SRC-00420]。また、大政奉還の意図をめぐって、慶喜が新政体のもとでの実権掌握を見込んでいたとする評価が複数の資料にあることも、単純な「権力の放棄」という理解に留保を促す(本サイトの整理)[SRC-00419]。

出典一覧

  1. [SRC-00418] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 慶応3年10月14日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
  2. [SRC-00419] 大政奉還(コトバンク収載)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
  3. [SRC-00420] 討幕の密勅(コトバンク収載)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
  4. [SRC-00421] 佐々木克「松平春嶽と明治維新」(福井県文書館講演)『福井県文書館研究紀要』第8号/福井県文書館(J-STAGE収載)(ランクA)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-03
22026-09-03あり
32026-09-03あり

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