1860年江戸時代

桜田門外の変 — 大老・井伊直弼、江戸城門前で暗殺される

日付と暦

原典表記
安政7年3月3日(和暦・太陰太陽暦)
換算
1860-03-24(グレゴリオ暦)
掲載日
3月3日のページ

暦の注記: この出来事は和暦(太陰太陽暦)の安政7年3月3日早朝に起きた(グレゴリオ暦換算: 1860年3月24日)[SRC-01585]。この換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」への照会値による(年の干支は庚申・月の干支は庚辰・日の干支は丁卯)[SRC-01585]。安政7年3月18日に万延へ改元されており、事件発生日はその15日前、改元前の安政年間にあたる[SRC-01590]。本サイトでは事件発生日の原典日付である 03-03 のページに掲載している。なお、登録出典のうち一部(改訂新版世界大百科事典・山川日本史小辞典)は同じ日付を「1860年(万延1)」などと改元後の元号で年を通して表記しており、これは異説ではなく出典側の編集上の慣行の相違である[SRC-01586](異説・論争欄参照)。

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概要

安政7年3月3日(グレゴリオ暦換算1860年3月24日)朝、江戸幕府の大老井伊直弼は、江戸城への登城の途中、桜田門外で水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩の脱藩浪士1名、計18名の待ち伏せを受け、暗殺された[SRC-01586][SRC-01588]。井伊は安政5年(1858)、朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、これに反対する尊王攘夷派を安政の大獄で弾圧しており、これらへの反発が襲撃の背景にあったと複数の出典は記す[SRC-01586][SRC-01590]。指揮者の関鉄之介のもと、薩摩藩士有村次左衛門が井伊の首級をあげたとされる[SRC-01586][SRC-01589]。幕府はしばらく直弼の死を秘し、病気・嫡子届出の形をとったのち閏3月末に正式に発表したと記す[SRC-01590][SRC-01591]。この事件は幕府の権威を大きく揺るがし、政治路線が公武合体へ転換する契機になったとされる[SRC-01586]。

本文

井伊直弼は文化12年(1815)、彦根藩主井伊直中の14男として彦根城内に生まれた[SRC-01590]。多くの兄がいたため藩主となる見込みはなく、青年期を「埋木舎」と名づけた屋敷で文武の修養に費やしたが、後継ぎだった兄たちが相次いで没したことで藩主となり、嘉永3年(1850)に彦根藩主を継いだと記す[SRC-01590]。ペリー来航後の外交方針や将軍継嗣問題をめぐり、一橋慶喜を推す水戸藩主徳川斉昭と対立し、安政5年(1858)に大老に就任すると、勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印し、将軍継嗣を紀州の徳川慶福(家茂)に決定したと記す[SRC-01590][SRC-01586]。これに対し朝廷は水戸藩へ、幕府の条約調印を遺憾とする勅諚(戊午の密勅)を下し、井伊はこれを受けて尊王攘夷派の公卿・志士・水戸藩士らを処罰する安政の大獄を断行し、水戸藩には密勅の返納を迫ったと改訂新版世界大百科事典は記す[SRC-01586]。

水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間では、安政の大獄が始まったころから井伊暗殺の計画が練られていたと同事典は記す[SRC-01586]。安政7年3月3日は上巳の節句(桃の節句)で、在府の諸大名が登城し将軍へ賀詞を述べる慣わしだったため、水戸浪士らは大名行列の見物を装って井伊の登城を待ったとWEB歴史街道は記す[SRC-01588]。季節外れの大雪が降るなか、関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名と薩摩藩士有村次左衛門の計18名が、芝の愛宕神社に集合したのち桜田門へ向かったと記す[SRC-01586][SRC-01588]。

午前9時頃、桜田門近くの彦根藩邸を出た井伊の行列が桜田門へ進んだ。行列の規模について、WEB歴史街道は供廻りを「20数名の徒士と40名の足軽」が守っていたと記し、刀剣ワールドは行列約60人と記す[SRC-01588][SRC-01592]。浪士の一人が訴状を装って行列の供頭に近づきこれを斬りつけ、これを合図に別の浪士が駕籠へ向けて短銃を発砲、この銃声を機に浪士たちが行列に斬り込んだと複数の出典は記す[SRC-01588][SRC-01589][SRC-01592]。降雪のため護衛の供侍たちは刀の柄に柄袋をかけており、とっさに抜刀できなかったと記す[SRC-01588][SRC-01592]。最初の銃撃で井伊は被弾し抵抗できる状態ではなかったと刀剣ワールドは記す[SRC-01592]。水戸藩士稲田重蔵は駕籠へ体当たりするように迫ったが、彦根藩の供目付河西忠左衛門に斬られその場で絶命し、有村次左衛門が駕籠から井伊を引きずり出し首級をあげたとWEB歴史街道は記す[SRC-01589]。襲撃はわずか数分の出来事だったとされる[SRC-01589]。

首級を持って現場を離れようとした有村は彦根藩士の追撃を受けて重傷を負い、まもなく付近で自刃したと記す[SRC-01589]。この襲撃で彦根藩側は供廻り7人が闘死し11人が負傷したとWEB歴史街道は記す[SRC-01588]。水戸浪士側は闘死・自刃した者が5人、自訴した者があり、後に捕らえられた者11人が処刑され、生き残ったのはわずか2名だったと記す[SRC-01586][SRC-01588][SRC-01592]。彼らが携えていた「斬奸趣意書」には、条約の違勅調印と安政の大獄での弾圧が井伊の罪状として挙げられており、井伊一派を排除することによる幕府の改革を企図したもので、倒幕を意図したものではなかったことがうかがえると日本大百科全書は記す[SRC-01586]。

幕府大老の死という重大事態を受け、幕府は彦根藩に直弼の死を秘匿するよう指示し、直弼の病気と嫡男愛麿(後の直憲)の嫡子としての届出が出されたと世田谷デジタルミュージアムは記す[SRC-01590]。事件発生の3月3日当日のうちに、彦根側は幕府へ届(彦根藩士死傷者書上を含む)を提出し、幕府は即日警戒態勢を発令したと東京大学史料編纂所は記す[SRC-01591]。直弼は3月晦日に大老を免ぜられ、閏3月末(東京大学史料編纂所の紹介では閏3月30日)に正式な死去(発喪)が発表されたと記す[SRC-01590][SRC-01591]。世田谷デジタルミュージアムは、直弼の墓石には万延元年閏3月28日の銘が記されていると記す[SRC-01590]。

歴史的背景

桜田門外の変の背景には、開国か攘夷かをめぐる幕末政局の対立があった[SRC-01590][SRC-01586]。嘉永6年(1853)のペリー来航以降、開国を進める井伊直弼と、攘夷を主張する水戸藩主徳川斉昭ら親藩・尊王攘夷派との対立が先鋭化したと世田谷デジタルミュージアムは記す[SRC-01590]。安政5年(1858)、井伊は朝廷の勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印し、将軍継嗣も紀州徳川慶福に決定したことで、尊王攘夷派の反発を招いたと記す[SRC-01590][SRC-01586]。朝廷が幕府の条約調印を遺憾とする勅諚(戊午の密勅)を水戸藩へ直接下したことは、幕府の頭越しに天皇が政治介入した前例のない事態であり、幕藩権力の解体の危機を感じた井伊が安政の大獄という厳しい弾圧に踏み切る契機になったと改訂新版世界大百科事典は記す[SRC-01586]。水戸藩は徳川斉昭・徳川慶篤の謹慎や家老の切腹など厳罰を科されたと刀剣ワールドは記す[SRC-01592]。藩内では密勅を朝廷へ返上すべきとする鎮派と反対する激派との政争が起きたが、最終的に鎮派の主張が通ったことで、激派の一部が実力行使に踏み切ったと改訂新版世界大百科事典は記す[SRC-01586]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
和暦・安政5年(1858)6月 井伊直弼、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印 [SRC-01590][SRC-01586]
和暦・安政5年8月 朝廷、幕府の条約調印を遺憾とする勅諚(戊午の密勅)を水戸藩へ下す [SRC-01586]
和暦・安政5年9月〜安政6年 井伊直弼、安政の大獄を断行。尊王攘夷派の公卿・志士・水戸藩士らを処罰 [SRC-01590][SRC-01586]
和暦・安政7年3月3日 早朝(グレゴリオ暦換算1860年3月24日) 水戸藩士17名・薩摩藩士1名、計18名が江戸城桜田門外で井伊直弼の行列を襲撃。有村次左衛門が首級をあげる [SRC-01585][SRC-01586][SRC-01588][SRC-01589]
同日 彦根藩、幕府へ届(彦根藩士死傷者書上を含む)を提出。幕府、即日警戒態勢を発令 [SRC-01591]
和暦・安政7年3月18日 万延に改元(事件発生日はこの15日前で改元前にあたる) [SRC-01590]
同年3月晦日 井伊直弼、大老を免ぜられる [SRC-01590][SRC-01591]
同年閏3月末(東京大学史料編纂所の紹介では閏3月30日、世田谷デジタルミュージアムは墓石銘に基づき閏3月28日) 彦根藩、直弼の死を正式に発表(発喪) [SRC-01590][SRC-01591]
異説・論争定説のない論点があります

調査範囲は本記事が挙げた8件の出典(国立天文台暦計算室・コトバンク収載9系統・彦根城博物館・WEB歴史街道2本・世田谷デジタルミュージアム・東京大学史料編纂所・刀剣ワールド)に限る。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
事件発生年の元号表記 「安政7年」(事件発生日〔3月3日〕時点で効力を持つ元号) NAO照会・彦根城博物館・世田谷デジタルミュージアム・日本大百科全書・デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・ブリタニカ国際大百科事典・旺文社日本史事典・WEB歴史街道2本・刀剣ワールド 本サイトの暦運用規則(当該日に効力を持つ元号で書く)に従いこちらを採用。多数系統が一致
事件発生年の元号表記 「1860年(万延1)」「1860年(万延元)」(改元〔3月18日〕後の元号で年を通して表記) 改訂新版世界大百科事典・山川日本史小辞典(いずれもコトバンク収載) 異説ではなく出典側の編集方針の相違として扱う。日単位では改元前であることに変わりはない
彦根藩側の死傷者数 供廻り7人が闘死、11人が負傷 WEB歴史街道(登録出典中この1系統のみが具体的数値を記す) 東京大学史料編纂所の史料紹介は「彦根藩士死傷者書上」という文書の存在を記すが具体的な人数までは記さない。本サイトはこの数値をWEB歴史街道への帰属を明示して示す
直弼の発喪(死去の正式発表)日 閏3月30日 東京大学史料編纂所(井伊家史料の紹介) 東京大学史料編纂所は発喪日を閏3月30日と記し、世田谷デジタルミュージアムは発喪を「閏3月末」とのみ記したうえで墓石銘を閏3月28日と記す(両者は同種の日付ではない)
直弼の発喪(死去の正式発表)日 閏3月末(墓石銘は閏3月28日) 世田谷デジタルミュージアム 同上
井伊直弼の享年(死去時の年齢) 46歳 世田谷デジタルミュージアム(「享年46歳」) 数え年による表記の可能性があるが、出典自身はその旨を明記していない
井伊直弼の享年(死去時の年齢) 44歳 WEB歴史街道「桜田門外の変・水戸浪士たちの刀」(年齢の数え方は本文に明記なし) 同上。本サイトは原因を断定せず両方の数値を出典付きで併記する
事件後の評価・呼称 後世、実行者18名は「十八烈士」と呼ばれることがある 刀剣ワールド 顕彰的な呼称の一例として紹介する立場
事件後の評価・呼称 浪士側の多くは討死・自刃、あるいは逃亡後に捕らえられて死罪・追放となり、2人が存命したと山川日本史小辞典は記す/後に捕らえられた者11人が処刑されたとWEB歴史街道は記す 山川日本史小辞典・WEB歴史街道(「後に捕らえられた者11人が処刑され」) 幕府・彦根藩側の当時の処遇を伝える。本サイトはいずれの評価(顕彰的な呼称/幕府側の処遇)が正しいかを判定せず、出典に記された呼称・処遇をそのまま併記する

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

桜田門外の変は、江戸城のすぐそばで白昼、幕府の最高責任者である大老が殺害されたという点で、同時代・後世を通じて衝撃をもって受け止められたと複数の出典は記す[SRC-01586][SRC-01590]。共同通信ニュース用語解説は、この事件が「攘夷派志士による高官暗殺の端緒となり、幕府の威信低下を加速させた」と記す[SRC-01586]。改訂新版世界大百科事典・百科事典マイペディア・旺文社日本史事典は、事件後、幕府政治が公武合体の方向へ転換したと記す[SRC-01586]。日本大百科全書は、「斬奸趣意書」が幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものではなかったことがうかがえると記す一方、白昼の大老暗殺という事実そのものが幕府の衰退を公然のものとし、幕末期政局の一つの転機になったと記す[SRC-01586]。本サイトは、事件の当事者(水戸藩・薩摩藩の浪士たちと、討たれた井伊直弼およびこれを護った彦根藩士たち)のいずれについても、行動の正当性を判定する立場をとらない。

現代の視点

事件を題材にした吉村昭の歴史小説『桜田門外ノ変』(平成2年〔1990〕刊行)は、実行隊長・関鉄之介を主人公に事件の全貌を描いた作品としてコトバンクのデジタル大辞泉に紹介されている[SRC-01586]。2010年には同名の映画も公開されたとデジタル大辞泉プラスは記す[SRC-01586]。事件の舞台となった桜田門は現在も江戸城(皇居)の遺構として東京都千代田区に現存し、彦根城博物館は事件の様子を描いた「桜田事変絵巻」(明治時代作、常時展示ではない)を収蔵すると同館は記す[SRC-01587]。これらは本サイトの見立てであり、出典が直接「現代的意義」として述べるものではない。

出典一覧

  1. [SRC-01585] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 安政7年3月3日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
  2. [SRC-01586] 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)/コトバンク(株式会社DIGITALIO運営/朝日新聞社・VOYAGE MARKETING等)(ランクB)(複数の資料を収載)
  3. [SRC-01587] 主な収蔵品「桜田事変絵巻」/彦根城博物館(滋賀県彦根市)(ランクA)
  4. [SRC-01588] 桜田門外の変~井伊直弼と水戸浪士(編集部コラム・今日は何の日 安政7年3月3日)/WEB歴史街道(PHP研究所)(ランクB)
  5. [SRC-01589] 桜田門外の変・水戸浪士たちの刀(本誌関連記事)/WEB歴史街道(PHP研究所)(ランクB)
  6. [SRC-01590] デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)/世田谷区(世田谷デジタルミュージアム/世田谷区立郷土資料館)(ランクA)
  7. [SRC-01591] 大日本維新史料 類纂之部『井伊家史料二十六』(史料集刊行紹介)/東京大学史料編纂所(『東京大学史料編纂所報』第45号)(ランクA)
  8. [SRC-01592] 桜田門外の変古戦場:東京都(合戦・古戦場一覧)/刀剣ワールド(東建コーポレーション株式会社・一般財団法人刀剣ワールド財団)(ランクC)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-19—
22026-09-19不明
32026-09-19あり
42026-09-28なし

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