桜田門外の変 — 大老・井伊直弼、江戸城門前で暗殺される — 検証記録

記事本文に戻る

検証サマリ

最終判定
合格
最終検証日
2026-09-28
検証ラウンド数
4
検証時点
b4d671d
検証者
執筆と別系統のAI

この記事は、執筆したのとは別系統のAIが、本文の主張を1件ずつ出典と突き合わせて検証しています。判定は上の「検証時点」のコミットにおける本文に対するものです。

中核となる主張と、その根拠

記事の骨格をなす主張について、確からしさの程度と、それを支える資料を示します。

安政7年3月3日(グレゴリオ暦換算1860年3月24日)早朝、水戸藩士17名・薩摩藩士1名、計18名が江戸城桜田門外で大老井伊直弼の行列を襲撃し、暗殺した。換算値は国立天文台暦計算室『日本の暦日データベース』への照会値による(年の干支=庚申・月の干支=庚辰・日の干支=丁卯)。

確からしさ: 確実

  • 国立天文台暦計算室『日本の暦日データベース』の照会結果。安政7年3月3日はグレゴリオ暦1860年3月24日に相当する(年の干支=庚申・月の干支=庚辰・日の干支=丁卯)。 — 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 安政7年3月3日の換算照会結果(公的機関の解説)
  • 1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件。18名は関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(実名列挙)と薩摩藩士1名(有村次左衛門)からなる。「斬奸趣意書」は井伊一派の斬戮による幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものでないことがわかる。白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり幕末期政局の一つの転機となった。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延1)3月、水戸浪士らが大老井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した事件。1858年の日米修好通商条約調印、戊午の密勅、安政の大獄、水戸藩内の鎮派・激派の政争、水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間で暗殺計画が練られていたこと、関を総指揮とする水戸藩士17人と有村が脱藩し江戸へ集結したこと、60年3月3日、上巳の嘉節の賀詞を述べるために登城する井伊の行列を桜田門外に待伏せし襲撃、有村が首級をあげたこと、「斬奸趣意書」に条約違勅調印と安政の大獄での弾圧が罪状として挙げられていたこと、幕府はしばらく井伊の死を秘したこと、事件後幕府政治は公武合体の方向へ転換したことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延元)3月3日,水戸・鹿児島両藩の浪士が大老井伊直弼を暗殺した事件。戊午の密勅・安政の大獄の経緯、60年3月3日早朝に愛宕山に集合した浪士18人が桜田門外で襲撃し大老の首級をあげたこと、浪士側の多くは討死・自刃、逃亡後捕らえられ死罪・追放となり2人が存命だったこと、大老の死は幕府権威を失墜させ幕末政情を転換させる契機となったことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政7年(1860)3月3日、勅許なく安政の仮条約に調印し、安政の大獄などで弾圧を行った大老井伊直弼が、水戸・薩摩の浪士らに桜田門外で暗殺された事件。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860(安政7)年の旧暦3月3日朝、条約調印を強行した江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門前で水戸、薩摩藩の浪士らに暗殺された事件。強引な条約調印や将軍の跡継ぎ決定、安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧したことなどが反発を呼んでいた。攘夷派志士による高官暗殺の端緒となり、幕府の威信低下を加速させた。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政7 (1860) 年3月3日、江戸幕府大老井伊直弼が暗殺された事件。T.ハリスらの圧力に屈して日米修好通商条約に調印した幕府が朝廷・諸雄藩の非難を受けたこと、将軍継嗣問題での紀州派・一橋派の対立、井伊が条約勅許を得るため老中間部詮勝を通じ朝廷に圧力をかける一方水戸派を退けたこと、安政の大獄で公家や志士を厳しく処罰したこと、これを怒った水戸浪士ら18名により登城途中の井伊が桜田門外で殺害されたことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 幕末,尊攘派志士による大老井伊直弼暗殺事件。井伊が将軍継嗣問題で徳川慶福(家茂)を継嗣に決定、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、反対派を安政の大獄で弾圧したことなどが原因となり、1860年3月、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名によって襲撃され殺害された。この事件により幕府の威信は失墜し公武合体運動が推進された。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 彦根城博物館の収蔵品「桜田事変絵巻」(紙本著色2巻、明治時代)は「安政7年(1860)3月3日の江戸城桜田門外における井伊直弼暗殺の始終を絵巻物とした作品」と解説される。内容から事件後年数を経ずに描かれたと推測されると記す。 — 主な収蔵品「桜田事変絵巻」(公的機関の解説)
  • 安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外において大老井伊直弼が水戸浪士、薩摩浪士らに襲撃され討たれた。その日は上巳の節句で在府の諸大名は登城し将軍に賀詞を述べる慣わしだった。総勢18名は指揮役の関鉄之助はじめ芝の愛宕神社に集合し桜田門へ向かった。午前9時、彦根藩邸から井伊大老の行列が現れ(大老の駕籠を20数名の徒士と40名の足軽が守る)、浪士の訴状を装った行動と短銃発砲を合図に斬り込んだ。結果、井伊直弼は討たれ、彦根藩の供廻り7人が闘死、11人が負傷。水戸浪士で闘死・自刃した者5人、自訴した者、後に捕らえられた者11人が処刑された。 — 桜田門外の変~井伊直弼と水戸浪士(編集部コラム・今日は何の日 安政7年3月3日)(事典・概説)
  • 安政7年(1860)3月3日、登城途中の大老井伊直弼(44歳)の行列を水戸浪士らが襲った。有村次左衛門(22歳)が井伊の首級をあげた。関鉄之介(37歳)が指揮。森五六郎が井伊家の供頭を斬り、黒沢忠三郎の短銃発砲が合図となり浪士たちが3方向から一斉に斬り込んだ。稲田重蔵は彦根藩の供目付・河西忠左衛門に斬られその場で絶命。有村・佐野が駕籠に刀を突き立て、有村が井伊を駕籠から引きずり出し首をあげた。闘いは数分。有村は井伊の首を掲げて去る途中、彦根藩の追っ手に後頭部を斬られ、広岡子之次郎とともに付近で自刃。佐野竹之助は老中脇坂邸に自訴したが夕刻に死亡した。 — 桜田門外の変・水戸浪士たちの刀(本誌関連記事)(事典・概説)
  • 安政5年(1858)、日米修好通商条約の勅許問題で朝廷工作に失敗、この直後大老に就任し勅許のないまま条約調印を行い将軍後継者を紀州の慶福に決定した。戊午の密勅を契機に安政の大獄を断行し多くの者を処分、特に水戸藩を厳しく処罰した。「翌年の安政7年(1860、3月18日に万延に改元)3月3日に江戸城に登城する途中、桜田門外で水戸浪士を中心とした者らに襲われ、暗殺された。享年46歳」。「幕府大老という重大事にあたり、幕府は彦根藩に大老の死を秘匿するよう指示し、直弼の病気と嫡男愛麿(後の直憲)の嫡子としての届出が出された。3月晦日に大老を免ぜられ、翌閏3月末に正式に直弼の死が発表された。このため、墓石には万延元年閏3月28日の銘が記されている」。 — デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)(公的機関の解説)
  • 1860年(安政7年)3月3日、大老井伊直弼が水戸藩出身の浪士達に襲われ命を落とした。計画に参加した18人は全員脱藩し江戸に潜伏した。決行当日、一行は愛宕神社で成功を祈願してから桜田門へ向かった。午前9時頃、井伊直弼の行列約60人が桜田門へ進むと浪士が訴状を手に飛び出し別の浪士が駕籠へ短銃を発砲、これを合図に18名が一斉に襲いかかった。井伊直弼は最初の銃撃で被弾し抵抗できる状態ではなかった。薩摩藩士有村次左衛門が駕籠から井伊直弼を引きずり出し一閃した。決行に参加した18名はほとんどが自刃するか捕縛の上斬首され、生き残ったのはわずか2名で、後に「十八烈士」と呼ばれた。 — 桜田門外の変古戦場:東京都(合戦・古戦場一覧)(事典・概説)

襲撃は江戸城桜田門外で発生した。井伊直弼は桜田門近くの彦根藩邸を出て登城する途中で襲われた。

確からしさ: 確実

  • 1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件。18名は関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(実名列挙)と薩摩藩士1名(有村次左衛門)からなる。「斬奸趣意書」は井伊一派の斬戮による幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものでないことがわかる。白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり幕末期政局の一つの転機となった。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延1)3月、水戸浪士らが大老井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した事件。1858年の日米修好通商条約調印、戊午の密勅、安政の大獄、水戸藩内の鎮派・激派の政争、水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間で暗殺計画が練られていたこと、関を総指揮とする水戸藩士17人と有村が脱藩し江戸へ集結したこと、60年3月3日、上巳の嘉節の賀詞を述べるために登城する井伊の行列を桜田門外に待伏せし襲撃、有村が首級をあげたこと、「斬奸趣意書」に条約違勅調印と安政の大獄での弾圧が罪状として挙げられていたこと、幕府はしばらく井伊の死を秘したこと、事件後幕府政治は公武合体の方向へ転換したことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 彦根城博物館の収蔵品「桜田事変絵巻」(紙本著色2巻、明治時代)は「安政7年(1860)3月3日の江戸城桜田門外における井伊直弼暗殺の始終を絵巻物とした作品」と解説される。内容から事件後年数を経ずに描かれたと推測されると記す。 — 主な収蔵品「桜田事変絵巻」(公的機関の解説)
  • 安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外において大老井伊直弼が水戸浪士、薩摩浪士らに襲撃され討たれた。その日は上巳の節句で在府の諸大名は登城し将軍に賀詞を述べる慣わしだった。総勢18名は指揮役の関鉄之助はじめ芝の愛宕神社に集合し桜田門へ向かった。午前9時、彦根藩邸から井伊大老の行列が現れ(大老の駕籠を20数名の徒士と40名の足軽が守る)、浪士の訴状を装った行動と短銃発砲を合図に斬り込んだ。結果、井伊直弼は討たれ、彦根藩の供廻り7人が闘死、11人が負傷。水戸浪士で闘死・自刃した者5人、自訴した者、後に捕らえられた者11人が処刑された。 — 桜田門外の変~井伊直弼と水戸浪士(編集部コラム・今日は何の日 安政7年3月3日)(事典・概説)
  • 安政7年(1860)3月3日、登城途中の大老井伊直弼(44歳)の行列を水戸浪士らが襲った。有村次左衛門(22歳)が井伊の首級をあげた。関鉄之介(37歳)が指揮。森五六郎が井伊家の供頭を斬り、黒沢忠三郎の短銃発砲が合図となり浪士たちが3方向から一斉に斬り込んだ。稲田重蔵は彦根藩の供目付・河西忠左衛門に斬られその場で絶命。有村・佐野が駕籠に刀を突き立て、有村が井伊を駕籠から引きずり出し首をあげた。闘いは数分。有村は井伊の首を掲げて去る途中、彦根藩の追っ手に後頭部を斬られ、広岡子之次郎とともに付近で自刃。佐野竹之助は老中脇坂邸に自訴したが夕刻に死亡した。 — 桜田門外の変・水戸浪士たちの刀(本誌関連記事)(事典・概説)

江戸幕府大老井伊直弼は、桜田門外の変で水戸藩・薩摩藩の浪士らに襲撃され、暗殺された。

確からしさ: 確実

  • 1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件。18名は関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(実名列挙)と薩摩藩士1名(有村次左衛門)からなる。「斬奸趣意書」は井伊一派の斬戮による幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものでないことがわかる。白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり幕末期政局の一つの転機となった。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延1)3月、水戸浪士らが大老井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した事件。1858年の日米修好通商条約調印、戊午の密勅、安政の大獄、水戸藩内の鎮派・激派の政争、水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間で暗殺計画が練られていたこと、関を総指揮とする水戸藩士17人と有村が脱藩し江戸へ集結したこと、60年3月3日、上巳の嘉節の賀詞を述べるために登城する井伊の行列を桜田門外に待伏せし襲撃、有村が首級をあげたこと、「斬奸趣意書」に条約違勅調印と安政の大獄での弾圧が罪状として挙げられていたこと、幕府はしばらく井伊の死を秘したこと、事件後幕府政治は公武合体の方向へ転換したことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延元)3月3日,水戸・鹿児島両藩の浪士が大老井伊直弼を暗殺した事件。戊午の密勅・安政の大獄の経緯、60年3月3日早朝に愛宕山に集合した浪士18人が桜田門外で襲撃し大老の首級をあげたこと、浪士側の多くは討死・自刃、逃亡後捕らえられ死罪・追放となり2人が存命だったこと、大老の死は幕府権威を失墜させ幕末政情を転換させる契機となったことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政7年(1860)3月3日、勅許なく安政の仮条約に調印し、安政の大獄などで弾圧を行った大老井伊直弼が、水戸・薩摩の浪士らに桜田門外で暗殺された事件。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年,大老井伊直弼が江戸城の桜田門外で尊王攘夷派の水戸・薩摩の脱藩浪士らに暗殺された事件。神奈川条約(日米修好通商条約)調印・安政の大獄が原因。大老が白昼江戸城の門前で暗殺されたことから幕威失墜の転機となり、事件後幕府は公武合体へ政策を転換した。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政7 (1860) 年3月3日、江戸幕府大老井伊直弼が暗殺された事件。T.ハリスらの圧力に屈して日米修好通商条約に調印した幕府が朝廷・諸雄藩の非難を受けたこと、将軍継嗣問題での紀州派・一橋派の対立、井伊が条約勅許を得るため老中間部詮勝を通じ朝廷に圧力をかける一方水戸派を退けたこと、安政の大獄で公家や志士を厳しく処罰したこと、これを怒った水戸浪士ら18名により登城途中の井伊が桜田門外で殺害されたことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 幕末,尊攘派志士による大老井伊直弼暗殺事件。井伊が将軍継嗣問題で徳川慶福(家茂)を継嗣に決定、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、反対派を安政の大獄で弾圧したことなどが原因となり、1860年3月、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名によって襲撃され殺害された。この事件により幕府の威信は失墜し公武合体運動が推進された。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 井伊直弼は文化12年(1815)10月29日、彦根藩主井伊直中の14男として彦根城内で生まれた。5歳で母を、天保2年(1831)17歳で父を亡くし、後継ぎとなる見込みがなかったため「埋木舎」で文武諸芸の修養に励んだ。兄直元の病死により弘化3年(1848)後継ぎとなり江戸に移り、嘉永3年(1850)直亮の死により藩主となった。ペリー来航時、開国を主張する直弼は水戸藩主徳川斉昭と対立し、将軍継嗣問題でも紀州徳川慶福を推して対立した。 — デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)(公的機関の解説)
  • 安政5年(1858)、日米修好通商条約の勅許問題で朝廷工作に失敗、この直後大老に就任し勅許のないまま条約調印を行い将軍後継者を紀州の慶福に決定した。戊午の密勅を契機に安政の大獄を断行し多くの者を処分、特に水戸藩を厳しく処罰した。「翌年の安政7年(1860、3月18日に万延に改元)3月3日に江戸城に登城する途中、桜田門外で水戸浪士を中心とした者らに襲われ、暗殺された。享年46歳」。「幕府大老という重大事にあたり、幕府は彦根藩に大老の死を秘匿するよう指示し、直弼の病気と嫡男愛麿(後の直憲)の嫡子としての届出が出された。3月晦日に大老を免ぜられ、翌閏3月末に正式に直弼の死が発表された。このため、墓石には万延元年閏3月28日の銘が記されている」。 — デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)(公的機関の解説)

水戸藩士関鉄之介は、桜田門外の変を実行した水戸藩士17名の総指揮者だった。

確からしさ: 確実

  • 1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件。18名は関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(実名列挙)と薩摩藩士1名(有村次左衛門)からなる。「斬奸趣意書」は井伊一派の斬戮による幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものでないことがわかる。白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり幕末期政局の一つの転機となった。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延1)3月、水戸浪士らが大老井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した事件。1858年の日米修好通商条約調印、戊午の密勅、安政の大獄、水戸藩内の鎮派・激派の政争、水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間で暗殺計画が練られていたこと、関を総指揮とする水戸藩士17人と有村が脱藩し江戸へ集結したこと、60年3月3日、上巳の嘉節の賀詞を述べるために登城する井伊の行列を桜田門外に待伏せし襲撃、有村が首級をあげたこと、「斬奸趣意書」に条約違勅調印と安政の大獄での弾圧が罪状として挙げられていたこと、幕府はしばらく井伊の死を秘したこと、事件後幕府政治は公武合体の方向へ転換したことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外において大老井伊直弼が水戸浪士、薩摩浪士らに襲撃され討たれた。その日は上巳の節句で在府の諸大名は登城し将軍に賀詞を述べる慣わしだった。総勢18名は指揮役の関鉄之助はじめ芝の愛宕神社に集合し桜田門へ向かった。午前9時、彦根藩邸から井伊大老の行列が現れ(大老の駕籠を20数名の徒士と40名の足軽が守る)、浪士の訴状を装った行動と短銃発砲を合図に斬り込んだ。結果、井伊直弼は討たれ、彦根藩の供廻り7人が闘死、11人が負傷。水戸浪士で闘死・自刃した者5人、自訴した者、後に捕らえられた者11人が処刑された。 — 桜田門外の変~井伊直弼と水戸浪士(編集部コラム・今日は何の日 安政7年3月3日)(事典・概説)
  • 安政7年(1860)3月3日、登城途中の大老井伊直弼(44歳)の行列を水戸浪士らが襲った。有村次左衛門(22歳)が井伊の首級をあげた。関鉄之介(37歳)が指揮。森五六郎が井伊家の供頭を斬り、黒沢忠三郎の短銃発砲が合図となり浪士たちが3方向から一斉に斬り込んだ。稲田重蔵は彦根藩の供目付・河西忠左衛門に斬られその場で絶命。有村・佐野が駕籠に刀を突き立て、有村が井伊を駕籠から引きずり出し首をあげた。闘いは数分。有村は井伊の首を掲げて去る途中、彦根藩の追っ手に後頭部を斬られ、広岡子之次郎とともに付近で自刃。佐野竹之助は老中脇坂邸に自訴したが夕刻に死亡した。 — 桜田門外の変・水戸浪士たちの刀(本誌関連記事)(事典・概説)

薩摩藩士有村次左衛門は、水戸浪士らの中に唯一人参加し、井伊直弼を駕籠から引きずり出し首級をあげたが、逃走中に彦根藩士の追撃を受け重傷を負い、まもなく付近で自刃した。

確からしさ: 確実

  • 1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件。18名は関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(実名列挙)と薩摩藩士1名(有村次左衛門)からなる。「斬奸趣意書」は井伊一派の斬戮による幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものでないことがわかる。白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり幕末期政局の一つの転機となった。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延1)3月、水戸浪士らが大老井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した事件。1858年の日米修好通商条約調印、戊午の密勅、安政の大獄、水戸藩内の鎮派・激派の政争、水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間で暗殺計画が練られていたこと、関を総指揮とする水戸藩士17人と有村が脱藩し江戸へ集結したこと、60年3月3日、上巳の嘉節の賀詞を述べるために登城する井伊の行列を桜田門外に待伏せし襲撃、有村が首級をあげたこと、「斬奸趣意書」に条約違勅調印と安政の大獄での弾圧が罪状として挙げられていたこと、幕府はしばらく井伊の死を秘したこと、事件後幕府政治は公武合体の方向へ転換したことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 有村次左衛門(江戸後期の薩摩藩士)は、水戸藩士高橋多一郎らと安政の大獄に反発して尊王攘夷の義兵を挙げようと謀り、その手初めに1860年3月3日大老井伊直弼を桜田門外に要撃してその首をあげたが、重傷のため自刃した。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政7年(1860)3月3日、登城途中の大老井伊直弼(44歳)の行列を水戸浪士らが襲った。有村次左衛門(22歳)が井伊の首級をあげた。関鉄之介(37歳)が指揮。森五六郎が井伊家の供頭を斬り、黒沢忠三郎の短銃発砲が合図となり浪士たちが3方向から一斉に斬り込んだ。稲田重蔵は彦根藩の供目付・河西忠左衛門に斬られその場で絶命。有村・佐野が駕籠に刀を突き立て、有村が井伊を駕籠から引きずり出し首をあげた。闘いは数分。有村は井伊の首を掲げて去る途中、彦根藩の追っ手に後頭部を斬られ、広岡子之次郎とともに付近で自刃。佐野竹之助は老中脇坂邸に自訴したが夕刻に死亡した。 — 桜田門外の変・水戸浪士たちの刀(本誌関連記事)(事典・概説)
  • 1860年(安政7年)3月3日、大老井伊直弼が水戸藩出身の浪士達に襲われ命を落とした。計画に参加した18人は全員脱藩し江戸に潜伏した。決行当日、一行は愛宕神社で成功を祈願してから桜田門へ向かった。午前9時頃、井伊直弼の行列約60人が桜田門へ進むと浪士が訴状を手に飛び出し別の浪士が駕籠へ短銃を発砲、これを合図に18名が一斉に襲いかかった。井伊直弼は最初の銃撃で被弾し抵抗できる状態ではなかった。薩摩藩士有村次左衛門が駕籠から井伊直弼を引きずり出し一閃した。決行に参加した18名はほとんどが自刃するか捕縛の上斬首され、生き残ったのはわずか2名で、後に「十八烈士」と呼ばれた。 — 桜田門外の変古戦場:東京都(合戦・古戦場一覧)(事典・概説)

桜田門外の変の実行者は、関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名と薩摩藩士有村次左衛門1名の計18名であり、いずれも脱藩したうえで参加したとされる。日本大百科全書は17名の実名を列挙する。

確からしさ: 確実

  • 1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件。18名は関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(実名列挙)と薩摩藩士1名(有村次左衛門)からなる。「斬奸趣意書」は井伊一派の斬戮による幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものでないことがわかる。白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり幕末期政局の一つの転機となった。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延1)3月、水戸浪士らが大老井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した事件。1858年の日米修好通商条約調印、戊午の密勅、安政の大獄、水戸藩内の鎮派・激派の政争、水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間で暗殺計画が練られていたこと、関を総指揮とする水戸藩士17人と有村が脱藩し江戸へ集結したこと、60年3月3日、上巳の嘉節の賀詞を述べるために登城する井伊の行列を桜田門外に待伏せし襲撃、有村が首級をあげたこと、「斬奸趣意書」に条約違勅調印と安政の大獄での弾圧が罪状として挙げられていたこと、幕府はしばらく井伊の死を秘したこと、事件後幕府政治は公武合体の方向へ転換したことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延元)3月3日,水戸・鹿児島両藩の浪士が大老井伊直弼を暗殺した事件。戊午の密勅・安政の大獄の経緯、60年3月3日早朝に愛宕山に集合した浪士18人が桜田門外で襲撃し大老の首級をあげたこと、浪士側の多くは討死・自刃、逃亡後捕らえられ死罪・追放となり2人が存命だったこと、大老の死は幕府権威を失墜させ幕末政情を転換させる契機となったことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 幕末,尊攘派志士による大老井伊直弼暗殺事件。井伊が将軍継嗣問題で徳川慶福(家茂)を継嗣に決定、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、反対派を安政の大獄で弾圧したことなどが原因となり、1860年3月、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名によって襲撃され殺害された。この事件により幕府の威信は失墜し公武合体運動が推進された。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(安政7年)3月3日、大老井伊直弼が水戸藩出身の浪士達に襲われ命を落とした。計画に参加した18人は全員脱藩し江戸に潜伏した。決行当日、一行は愛宕神社で成功を祈願してから桜田門へ向かった。午前9時頃、井伊直弼の行列約60人が桜田門へ進むと浪士が訴状を手に飛び出し別の浪士が駕籠へ短銃を発砲、これを合図に18名が一斉に襲いかかった。井伊直弼は最初の銃撃で被弾し抵抗できる状態ではなかった。薩摩藩士有村次左衛門が駕籠から井伊直弼を引きずり出し一閃した。決行に参加した18名はほとんどが自刃するか捕縛の上斬首され、生き残ったのはわずか2名で、後に「十八烈士」と呼ばれた。 — 桜田門外の変古戦場:東京都(合戦・古戦場一覧)(事典・概説)

井伊直弼は安政5年(1858)、大老に就任した直後、朝廷の勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した。

確からしさ: 確実

  • 1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件。18名は関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(実名列挙)と薩摩藩士1名(有村次左衛門)からなる。「斬奸趣意書」は井伊一派の斬戮による幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものでないことがわかる。白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり幕末期政局の一つの転機となった。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政7年(1860)3月3日、勅許なく安政の仮条約に調印し、安政の大獄などで弾圧を行った大老井伊直弼が、水戸・薩摩の浪士らに桜田門外で暗殺された事件。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年,大老井伊直弼が江戸城の桜田門外で尊王攘夷派の水戸・薩摩の脱藩浪士らに暗殺された事件。神奈川条約(日米修好通商条約)調印・安政の大獄が原因。大老が白昼江戸城の門前で暗殺されたことから幕威失墜の転機となり、事件後幕府は公武合体へ政策を転換した。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政7 (1860) 年3月3日、江戸幕府大老井伊直弼が暗殺された事件。T.ハリスらの圧力に屈して日米修好通商条約に調印した幕府が朝廷・諸雄藩の非難を受けたこと、将軍継嗣問題での紀州派・一橋派の対立、井伊が条約勅許を得るため老中間部詮勝を通じ朝廷に圧力をかける一方水戸派を退けたこと、安政の大獄で公家や志士を厳しく処罰したこと、これを怒った水戸浪士ら18名により登城途中の井伊が桜田門外で殺害されたことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 幕末,尊攘派志士による大老井伊直弼暗殺事件。井伊が将軍継嗣問題で徳川慶福(家茂)を継嗣に決定、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、反対派を安政の大獄で弾圧したことなどが原因となり、1860年3月、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名によって襲撃され殺害された。この事件により幕府の威信は失墜し公武合体運動が推進された。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 井伊直弼は文化12年(1815)10月29日、彦根藩主井伊直中の14男として彦根城内で生まれた。5歳で母を、天保2年(1831)17歳で父を亡くし、後継ぎとなる見込みがなかったため「埋木舎」で文武諸芸の修養に励んだ。兄直元の病死により弘化3年(1848)後継ぎとなり江戸に移り、嘉永3年(1850)直亮の死により藩主となった。ペリー来航時、開国を主張する直弼は水戸藩主徳川斉昭と対立し、将軍継嗣問題でも紀州徳川慶福を推して対立した。 — デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)(公的機関の解説)
  • 安政5年(1858)、日米修好通商条約の勅許問題で朝廷工作に失敗、この直後大老に就任し勅許のないまま条約調印を行い将軍後継者を紀州の慶福に決定した。戊午の密勅を契機に安政の大獄を断行し多くの者を処分、特に水戸藩を厳しく処罰した。「翌年の安政7年(1860、3月18日に万延に改元)3月3日に江戸城に登城する途中、桜田門外で水戸浪士を中心とした者らに襲われ、暗殺された。享年46歳」。「幕府大老という重大事にあたり、幕府は彦根藩に大老の死を秘匿するよう指示し、直弼の病気と嫡男愛麿(後の直憲)の嫡子としての届出が出された。3月晦日に大老を免ぜられ、翌閏3月末に正式に直弼の死が発表された。このため、墓石には万延元年閏3月28日の銘が記されている」。 — デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)(公的機関の解説)

井伊直弼は戊午の密勅を契機に安政の大獄を断行し、尊王攘夷派の公卿・志士・水戸藩士らを処罰した。特に水戸藩には厳しく処罰し密勅の返納を迫った。

確からしさ: 確実

  • 1860年(万延1)3月、水戸浪士らが大老井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した事件。1858年の日米修好通商条約調印、戊午の密勅、安政の大獄、水戸藩内の鎮派・激派の政争、水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間で暗殺計画が練られていたこと、関を総指揮とする水戸藩士17人と有村が脱藩し江戸へ集結したこと、60年3月3日、上巳の嘉節の賀詞を述べるために登城する井伊の行列を桜田門外に待伏せし襲撃、有村が首級をあげたこと、「斬奸趣意書」に条約違勅調印と安政の大獄での弾圧が罪状として挙げられていたこと、幕府はしばらく井伊の死を秘したこと、事件後幕府政治は公武合体の方向へ転換したことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政7年(1860)3月3日、勅許なく安政の仮条約に調印し、安政の大獄などで弾圧を行った大老井伊直弼が、水戸・薩摩の浪士らに桜田門外で暗殺された事件。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年,大老井伊直弼が江戸城の桜田門外で尊王攘夷派の水戸・薩摩の脱藩浪士らに暗殺された事件。神奈川条約(日米修好通商条約)調印・安政の大獄が原因。大老が白昼江戸城の門前で暗殺されたことから幕威失墜の転機となり、事件後幕府は公武合体へ政策を転換した。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 幕末,尊攘派志士による大老井伊直弼暗殺事件。井伊が将軍継嗣問題で徳川慶福(家茂)を継嗣に決定、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、反対派を安政の大獄で弾圧したことなどが原因となり、1860年3月、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名によって襲撃され殺害された。この事件により幕府の威信は失墜し公武合体運動が推進された。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政5年(1858)、日米修好通商条約の勅許問題で朝廷工作に失敗、この直後大老に就任し勅許のないまま条約調印を行い将軍後継者を紀州の慶福に決定した。戊午の密勅を契機に安政の大獄を断行し多くの者を処分、特に水戸藩を厳しく処罰した。「翌年の安政7年(1860、3月18日に万延に改元)3月3日に江戸城に登城する途中、桜田門外で水戸浪士を中心とした者らに襲われ、暗殺された。享年46歳」。「幕府大老という重大事にあたり、幕府は彦根藩に大老の死を秘匿するよう指示し、直弼の病気と嫡男愛麿(後の直憲)の嫡子としての届出が出された。3月晦日に大老を免ぜられ、翌閏3月末に正式に直弼の死が発表された。このため、墓石には万延元年閏3月28日の銘が記されている」。 — デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)(公的機関の解説)

実行者らが携えていた「斬奸趣意書」には、条約の違勅調印と安政の大獄での弾圧が井伊の罪状として挙げられており、井伊一派の排除による幕府の改革を企図したもので、倒幕を意図したものではなかったことがうかがえると日本大百科全書は記す。

確からしさ: 有力

  • 1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件。18名は関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(実名列挙)と薩摩藩士1名(有村次左衛門)からなる。「斬奸趣意書」は井伊一派の斬戮による幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものでないことがわかる。白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり幕末期政局の一つの転機となった。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)

幕府大老の死という重大事態を受け、幕府は彦根藩に直弼の死を秘匿するよう指示し、直弼の病気と嫡男愛麿(後の直憲)の嫡子としての届出が出された。事件発生の3月3日当日のうちに彦根側は幕府へ届(彦根藩士死傷者書上を含む)を提出し、幕府は即日警戒態勢を発令した。直弼は3月晦日に大老を免ぜられ、閏3月末(東京大学史料編纂所の紹介では閏3月30日、世田谷デジタルミュージアムは墓石銘に基づき閏3月28日)に正式な死去が発表された。

確からしさ: 確実

  • 井伊直弼は文化12年(1815)10月29日、彦根藩主井伊直中の14男として彦根城内で生まれた。5歳で母を、天保2年(1831)17歳で父を亡くし、後継ぎとなる見込みがなかったため「埋木舎」で文武諸芸の修養に励んだ。兄直元の病死により弘化3年(1848)後継ぎとなり江戸に移り、嘉永3年(1850)直亮の死により藩主となった。ペリー来航時、開国を主張する直弼は水戸藩主徳川斉昭と対立し、将軍継嗣問題でも紀州徳川慶福を推して対立した。 — デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)(公的機関の解説)
  • 安政5年(1858)、日米修好通商条約の勅許問題で朝廷工作に失敗、この直後大老に就任し勅許のないまま条約調印を行い将軍後継者を紀州の慶福に決定した。戊午の密勅を契機に安政の大獄を断行し多くの者を処分、特に水戸藩を厳しく処罰した。「翌年の安政7年(1860、3月18日に万延に改元)3月3日に江戸城に登城する途中、桜田門外で水戸浪士を中心とした者らに襲われ、暗殺された。享年46歳」。「幕府大老という重大事にあたり、幕府は彦根藩に大老の死を秘匿するよう指示し、直弼の病気と嫡男愛麿(後の直憲)の嫡子としての届出が出された。3月晦日に大老を免ぜられ、翌閏3月末に正式に直弼の死が発表された。このため、墓石には万延元年閏3月28日の銘が記されている」。 — デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)(公的機関の解説)
  • 本冊は三月三日、襲撃者齋藤一徳らが老中脇坂安宅に自首した際提出したとされる「斬奸趣意書」の写(一号)から始まる。二号は同日彦根側が幕府に出した届および別紙(彦根藩士死傷者書上)の草案である。即日幕府月番老中による警戒態勢が発令された(三〜五号)。 — 大日本維新史料 類纂之部『井伊家史料二十六』(史料集刊行紹介)(公的機関の解説)
  • 彦根藩は、閏三月三十日、直弼の喪を発した。四月七日幕府から香典の上使が派遣され、十日の葬儀には世田谷道筋・豪徳寺周辺で乱暴が起こらないよう警戒態勢を敷いた(九七号)。三月三十日には水戸藩主徳川慶篤に当分登城禁止の命が下される一方、同日直弼の大老退役が発表された。 — 大日本維新史料 類纂之部『井伊家史料二十六』(史料集刊行紹介)(公的機関の解説)

事件発生日の3月3日は、安政7年3月18日に行われた万延への改元より15日前であり、当該日に効力を持つ元号は安政である。登録出典のうち改訂新版世界大百科事典・山川日本史小辞典は、同じ日付を「1860年(万延1)」「1860年(万延元)」と、改元後の元号で年を通して表記する。これは異説ではなく、出典側が年単位で表記を統一する編集方針の相違である。

確からしさ: 確実

  • 1860年(万延1)3月、水戸浪士らが大老井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した事件。1858年の日米修好通商条約調印、戊午の密勅、安政の大獄、水戸藩内の鎮派・激派の政争、水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間で暗殺計画が練られていたこと、関を総指揮とする水戸藩士17人と有村が脱藩し江戸へ集結したこと、60年3月3日、上巳の嘉節の賀詞を述べるために登城する井伊の行列を桜田門外に待伏せし襲撃、有村が首級をあげたこと、「斬奸趣意書」に条約違勅調印と安政の大獄での弾圧が罪状として挙げられていたこと、幕府はしばらく井伊の死を秘したこと、事件後幕府政治は公武合体の方向へ転換したことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延元)3月3日,水戸・鹿児島両藩の浪士が大老井伊直弼を暗殺した事件。戊午の密勅・安政の大獄の経緯、60年3月3日早朝に愛宕山に集合した浪士18人が桜田門外で襲撃し大老の首級をあげたこと、浪士側の多くは討死・自刃、逃亡後捕らえられ死罪・追放となり2人が存命だったこと、大老の死は幕府権威を失墜させ幕末政情を転換させる契機となったことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 安政5年(1858)、日米修好通商条約の勅許問題で朝廷工作に失敗、この直後大老に就任し勅許のないまま条約調印を行い将軍後継者を紀州の慶福に決定した。戊午の密勅を契機に安政の大獄を断行し多くの者を処分、特に水戸藩を厳しく処罰した。「翌年の安政7年(1860、3月18日に万延に改元)3月3日に江戸城に登城する途中、桜田門外で水戸浪士を中心とした者らに襲われ、暗殺された。享年46歳」。「幕府大老という重大事にあたり、幕府は彦根藩に大老の死を秘匿するよう指示し、直弼の病気と嫡男愛麿(後の直憲)の嫡子としての届出が出された。3月晦日に大老を免ぜられ、翌閏3月末に正式に直弼の死が発表された。このため、墓石には万延元年閏3月28日の銘が記されている」。 — デジタルコレクション「井伊直弼」(せたがや文化財サポートセンター/世田谷デジタルミュージアム)(公的機関の解説)

白昼、幕府の最高責任者である大老が暗殺されたことで幕府の権威は大きく揺らぎ、事件後、幕府政治は公武合体の方向へ転換したと複数の出典は記す。

確からしさ: 確実

  • 1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された事件。18名は関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(実名列挙)と薩摩藩士1名(有村次左衛門)からなる。「斬奸趣意書」は井伊一派の斬戮による幕府の改革を企図したもので倒幕を意図したものでないことがわかる。白昼大老が暗殺されたことで幕府の衰退が公然となり幕末期政局の一つの転機となった。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年(万延1)3月、水戸浪士らが大老井伊直弼を桜田門外に襲い殺害した事件。1858年の日米修好通商条約調印、戊午の密勅、安政の大獄、水戸藩内の鎮派・激派の政争、水戸藩士金子孫二郎・高橋多一郎・関鉄之介らと薩摩藩士有村次左衛門との間で暗殺計画が練られていたこと、関を総指揮とする水戸藩士17人と有村が脱藩し江戸へ集結したこと、60年3月3日、上巳の嘉節の賀詞を述べるために登城する井伊の行列を桜田門外に待伏せし襲撃、有村が首級をあげたこと、「斬奸趣意書」に条約違勅調印と安政の大獄での弾圧が罪状として挙げられていたこと、幕府はしばらく井伊の死を秘したこと、事件後幕府政治は公武合体の方向へ転換したことを記す。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860(安政7)年の旧暦3月3日朝、条約調印を強行した江戸幕府の大老井伊直弼が桜田門前で水戸、薩摩藩の浪士らに暗殺された事件。強引な条約調印や将軍の跡継ぎ決定、安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧したことなどが反発を呼んでいた。攘夷派志士による高官暗殺の端緒となり、幕府の威信低下を加速させた。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 1860年,大老井伊直弼が江戸城の桜田門外で尊王攘夷派の水戸・薩摩の脱藩浪士らに暗殺された事件。神奈川条約(日米修好通商条約)調印・安政の大獄が原因。大老が白昼江戸城の門前で暗殺されたことから幕威失墜の転機となり、事件後幕府は公武合体へ政策を転換した。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)
  • 幕末,尊攘派志士による大老井伊直弼暗殺事件。井伊が将軍継嗣問題で徳川慶福(家茂)を継嗣に決定、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、反対派を安政の大獄で弾圧したことなどが原因となり、1860年3月、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名によって襲撃され殺害された。この事件により幕府の威信は失墜し公武合体運動が推進された。 — 桜田門外の変(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・世界大百科事典〔旧版〕の言及)(事典・概説)

この襲撃で彦根藩側は供廻り7人が闘死し11人が負傷したとWEB歴史街道は記す。

確からしさ: 有力

  • 安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城桜田門外において大老井伊直弼が水戸浪士、薩摩浪士らに襲撃され討たれた。その日は上巳の節句で在府の諸大名は登城し将軍に賀詞を述べる慣わしだった。総勢18名は指揮役の関鉄之助はじめ芝の愛宕神社に集合し桜田門へ向かった。午前9時、彦根藩邸から井伊大老の行列が現れ(大老の駕籠を20数名の徒士と40名の足軽が守る)、浪士の訴状を装った行動と短銃発砲を合図に斬り込んだ。結果、井伊直弼は討たれ、彦根藩の供廻り7人が闘死、11人が負傷。水戸浪士で闘死・自刃した者5人、自訴した者、後に捕らえられた者11人が処刑された。 — 桜田門外の変~井伊直弼と水戸浪士(編集部コラム・今日は何の日 安政7年3月3日)(事典・概説)

そのほかの記述の検証

中核以外の記述についても、106 件を出典と突き合わせ、103 件で一致を確認しました。また記事全体で 3 件は資料の間で記述が分かれるため、記事の異説欄に併記しています。

訂正の履歴

版日付事実主張への変更再fact-check
12026-09-19—要
22026-09-19不明要
32026-09-19あり済
42026-09-28なし済

訂正の方針は訂正ポリシーに、検証の進め方はこの記事ができるまでに記載しています。