吉田松陰は老中間部詮勝の暗殺計画を血盟し、安政6年10月27日、伝馬町の獄で処刑された
日付と暦
- 原典表記
- 安政6年10月27日(和暦・太陰太陽暦)
- 換算
- 1859-11-21(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 10月27日のページ
暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の安政6年10月27日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1859年11月21日)[SRC-00507][SRC-00508]。本サイトでは 10-27 のページに掲載している。換算値は国立天文台「日本の暦日データベース」による [SRC-00507]。
この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る
概要
長州藩士吉田松陰は、将軍継嗣問題・条約勅許問題をめぐる領主階級内部の政争のなか[SRC-00509]、老中間部詮勝の要撃(暗殺)計画を同志17名と血盟した[SRC-00508]。この計画を藩府に示したところ、藩は松陰を危険人物とみなして野山獄へ再収容し、さらに幕府も別途松陰に疑いをもち、江戸への送致を命じた[SRC-00508]。江戸に送られた松陰は伝馬町の獄に入れられ、取り調べの中で老中暗殺計画が明らかになったことが死罪の直接の契機になったとされる[SRC-00508]。安政6年(1859年)10月27日、伝馬町の獄で死罪に処せられた[SRC-00507][SRC-00508][SRC-00509]。
本文
松陰は、安政5年(1858年)、幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印すると、急速に反幕府的な言動を強めた[SRC-00508]。将軍継嗣問題での違勅調印を理由に一橋派が井伊直弼を攻撃するなか[SRC-00509]、松陰は安政の大獄を未然に防止しようと、老中間部詮勝の要撃策を企図し、同志17名と血盟した[SRC-00508]。目的達成のため、この計画を藩府要人に示して後援を求めたが、藩府は松陰を危険人物とみなし、借牢の願いを出させて安政5年末、野山獄へ再収容した[SRC-00508]。松陰は獄中でもこの計画を推進しようと門人を動かしたが、門人たちも投獄されてこの策は失敗に終わった[SRC-00508]。
一方、安政の大獄を進めていた幕府は、別途松陰への疑いをもち、安政6年(1859年)、藩府に松陰の江戸送致を命じた[SRC-00508][SRC-00509]。改訂新版世界大百科事典は、この送致が長州藩自身の手によるものだったと記す[SRC-00509]。江戸に着いた松陰は伝馬町の獄に入れられ、取り調べを受けた[SRC-00508]。改訂新版世界大百科事典は「訊問中に老中暗殺計画が現れて10月27日死刑に処せられた」と記し、取り調べの中で計画が明らかになったことを死罪の直接の契機として描く[SRC-00508]。安政6年10月27日、松陰は伝馬町の獄で死罪に処せられた。時に30歳であった[SRC-00507][SRC-00508]。
歴史的背景
安政の大獄の背景には、13代将軍徳川家定の継嗣をめぐる将軍継嗣問題と、日米修好通商条約の調印をめぐる条約勅許問題があった[SRC-00509]。大老井伊直弼は、勅許を得ないまま条約に調印し、将軍継嗣に紀州藩主徳川慶福(家茂)を決定した[SRC-00509]。継嗣問題に敗れた一橋派はこれに反発し、尊王攘夷派の志士や公卿もこれに同調した[SRC-00509]。井伊直弼は反対派の弾圧に踏み切り、これが安政の大獄と呼ばれる[SRC-00509]。改訂新版世界大百科事典によれば、安政6年10月には飯泉喜内・橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰の4名が死罪となった[SRC-00509]。安政の大獄は、桜田門外の変(万延元年〔1860年〕3月3日・和暦)で井伊直弼が暗殺されたことにより終了した[SRC-00509]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 安政5年(1858年)6月19日(和暦) | 幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、松陰が反幕府的言動を強めた | [SRC-00508][SRC-00509] |
| 安政5年(和暦、時期不詳) | 老中間部詮勝の要撃策を同志17名と血盟し、藩府へ計画を示した | [SRC-00508] |
| 安政5年末(和暦) | 藩府が松陰を危険人物視し、野山獄へ再収容した | [SRC-00508] |
| 安政6年(和暦、時期不詳) | 幕府の命により長州藩が松陰を江戸へ送致した | [SRC-00508][SRC-00509] |
| 安政6年10月27日(和暦・グレゴリオ暦換算1859年11月21日) | 取り調べの中で老中暗殺計画が明らかになったことが死罪の契機になったとされ、伝馬町の獄で死罪に処せられた | [SRC-00507][SRC-00508] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
安政の大獄における死罪者数について、コトバンク収載事典の記述が割れている。デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典の4事典は「8名」(または「8人」)と記す一方[SRC-00509]、改訂新版世界大百科事典は「7人」と記す[SRC-00398]。本サイトはいずれが正しいかを裁定しない(調査範囲: コトバンク収載事典の範囲にとどまる)。
また、江戸での取り調べにおいて何が死罪の決め手として描かれるかについても、事典間で力点が異なる。改訂新版世界大百科事典は「訊問中に老中暗殺計画が現れて10月27日死刑に処せられた」と記し、計画そのものの発覚を死罪の契機とする[SRC-00508]。一方、山川日本史小辞典は、老中要撃の計画は江戸送致以前の藩への提起で既に問題化していたとし、江戸での訊問では「ペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判し」たことを処刑に結びつけて記す[SRC-00508]。両者は明確に矛盾するとまでは言えないが、取り調べで何が直接の契機として描かれるかの力点は異なる。本記事では改訂新版世界大百科事典の記述に沿って本文を構成しつつ、この力点の相違を明記する。
なお、取り調べが行われた具体的な機関(評定所であるか等)について、本セッションで到達した非Wikipedia出典はいずれも明記していない。橋本左内の事例では評定所・五手掛の詳細が確認できているが、これはその点を主題とする専用の史料批判論文に基づくものであり、吉田松陰について同種の裏付けには本セッションでは到達していない(調査範囲: コトバンク収載事典)。このため本記事では取り調べの場所を特定せず「取り調べ」と記すにとどめる。
このほか、吉田松陰の生家をめぐり、日本大百科全書・改訂新版世界大百科事典・山川日本史小辞典・デジタル版日本人名大辞典+Plusは父を「杉百合之助」とする一方、精選版日本国語大辞典・百科事典マイペディアは「杉常道」と記し、同一コトバンクページ内で表記が割れている[SRC-00508]。本サイトはいずれが正しいかを断定しない。
さらに、桜田門外の変が起きた年の元号表記も事典間で割れている。日本大百科全書は本文で「1860年(万延1)」、同項の図版キャプションは「1860年(安政7)」と記し[SRC-00398]、山川日本史小辞典も「60年(万延元)」と記す一方[SRC-00509]、デジタル版日本人名大辞典+Plusは「安政7年3月3日」、ブリタニカ国際大百科事典は生没年欄で「安政7」と記す[SRC-00398]。西暦(1860年)はいずれも一致するため本記事の記述に影響しないが、本サイトはいずれの元号表記が優先されるかを断定しない。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 安政の大獄の死罪者数 | 8名(8人) | デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典 | [SRC-00509] |
| 同上 | 7人 | 改訂新版世界大百科事典 | [SRC-00398] |
| 死罪の直接の契機 | 取り調べで老中暗殺計画そのものが明らかになったこと | 改訂新版世界大百科事典 | [SRC-00508] |
| 同上 | 取り調べでの幕府政策批判 | 山川日本史小辞典 | [SRC-00508] |
| 桜田門外の変の元号表記 | 安政7年 | デジタル版日本人名大辞典+Plus・ブリタニカ国際大百科事典 | [SRC-00398] |
| 同上 | 万延元年(1860年) | 山川日本史小辞典・日本大百科全書(本文) | [SRC-00509][SRC-00398] |
関連する出来事
- 橋本左内の処刑: 同じ安政の大獄で、安政6年10月、吉田松陰・頼三樹三郎・飯泉喜内とともに死罪となった[SRC-00509]
- 桜田門外の変(安政7年〔1860年〕3月3日・和暦): 安政の大獄を主導した大老井伊直弼が、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士らに暗殺された[SRC-00398]
関連人物
- 吉田松陰(よしだしょういん) — 長州藩士。号は二十一回猛士。老中間部詮勝の要撃(暗殺)計画を同志17名と血盟し、安政6年10月27日、死罪に処せられた[SRC-00508]
- 間部詮勝(まなべあきかつ) — 江戸幕府老中。安政5年6月に登用され、京都所司代を指揮して尊攘派の逮捕を進めた。吉田松陰が要撃を計画した対象人物[SRC-00509]
- 井伊直弼(いいなおすけ) — 江戸幕府大老。彦根藩主。将軍継嗣問題で徳川慶福(家茂)を推し、反対派を処罰する安政の大獄を進めた[SRC-00509]
歴史的意義
松下村塾で松陰に学んだ門人からは、高杉晋作・伊藤博文・山県有朋・木戸孝允ら、明治維新期に活躍した人材が多数輩出された[SRC-00508]。松陰自身は30歳で刑死したが、その教育は門人を通じて明治維新以後にまで影響を及ぼした[SRC-00508]。安政の大獄における水戸藩への強い弾圧と、水戸藩への勅諚返上命令が水戸浪士らの反感を招き、翌1860年3月、大老井伊直弼は桜田門外の変で命を落とした[SRC-00398][SRC-00509]。
現代の視点
松下村塾は、2015年、「明治日本の産業革命遺産」の一部として世界文化遺産に登録された[SRC-00508]。ブリタニカ国際大百科事典は、松陰の著書として『講孟余話』『幽囚録』とともに『留魂録』(1859年)を挙げる[SRC-00508]。デジタル版日本人名大辞典+Plusは、松陰の辞世として「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」を記す[SRC-00508]。(本サイトの整理: 本記事では『留魂録』の内容そのものには立ち入らず、著書としての存在の紹介にとどめる。逐語の引用は、確認できた出典の範囲〔辞世の句・書名の列挙〕を超えないようにした)
出典一覧
- [SRC-00398] 井伊直弼(イイナオスケ)とは? 意味や使い方(コトバンク収載9事典)/コトバンク(Business Architect Inc.運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00507] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 安政6年10月27日の換算・干支照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
- [SRC-00508] 吉田松陰(ヨシダショウイン)とは? 意味や使い方(コトバンク収載9事典)/コトバンク(Business Architect Inc.運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00509] 安政の大獄(アンセイノタイゴク)とは? 意味や使い方(コトバンク収載8事典)/コトバンク(Business Architect Inc.運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-03 | — |
| 2 | 2026-09-03 | 不明 |
| 3 | 2026-09-03 | 不明 |
| 4 | 2026-09-04 | 不明 |
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