1066年世界 11世紀
エドワード王が葬られたその日、ハロルドはイングランド王として戴冠した——正統性の物語は、伝える史料によって違っていた
日付と暦
- 原典表記
- 1066年1月6日(ユリウス暦)
- 換算
- 1066-01-06(ユリウス暦)
- 掲載日
- 1月6日のページ
暦の注記: この出来事はユリウス暦の1066年1月6日に起きた(ユリウス暦換算: 1066-01-06)[SRC-01136][SRC-01138]。当時の西欧はまだグレゴリオ暦改暦(1582年10月15日)以前であり、原典の日付とユリウス暦換算値は同一である(恒等変換)。本サイトでは 01-06 のページに掲載している。この日付は英国の史跡保護機関(English Heritage)と英国王室公式サイトの双方が独立に一致して記す日付である[SRC-01136][SRC-01138]。
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概要
1066年1月5日、イングランド王エドワード懺悔王がウェストミンスターで死去した[SRC-01136]。その翌日の1月6日、エドワードはウェストミンスター・アビーに埋葬され、同じ日、同じ教会で、ウェセックス伯ハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王ハロルド2世として戴冠したと複数の現代の解説機関は記す[SRC-01136][SRC-01138]。ハロルドの即位はイングランド貴族の会議(賢人会議)の承認を経たものだったが[SRC-01138]、エドワードの臨終の言葉をめぐる史料の性格づけと、ノルマンディー公ウィリアムへの王位継承の約束・誓約をめぐる史料は、系統によって異なる筋書きを伝える[SRC-01136][SRC-01140]。この即位の正統性をめぐる対立は、同年のノルマン人によるイングランド征服の背景として、複数の解説機関により位置づけられている[SRC-01136][SRC-01138]。
本文
ハロルド・ゴドウィンソンは、ウェセックス伯ゴドウィンの子として、1053年の父の死後にウェセックス伯位を継ぎ、以後エドワード懺悔王の治世下でイングランド随一の有力者となっていた[SRC-01137]。エドワードには実子がなく、後継者の座は長く不確定なままだった[SRC-01137]。1064年、ノルマン側の史料(バイユー・タペストリーが代表的とされる)によれば、ハロルドはノルマンディーへ渡航し、途上で難破してポンティユー伯に捕らえられたのち、ノルマンディー公ウィリアムに救出された[SRC-01137]。この滞在中、ハロルドはウィリアムへの忠誠と、ウィリアムのイングランド王位請求権を支持する誓いを立てたと、ノルマン側の史料は主張する[SRC-01136][SRC-01137]。
1066年1月5日、エドワードはウェストミンスターで死去した[SRC-01136]。エドワードの生涯を記した伝記『エドワード王の生涯(Vita Ædwardi Regis)』は、エドワードが臨終の床で、王妃エディスとイングランド王国をハロルドの守護に委ねる言葉を残したと伝える[SRC-01136]。一方、アングロサクソン年代記の写本間でも表現は一致せず、ある写本はエドワードが王国をハロルドに「与えた」と記す一方、別の写本は単に「託した」というより弱い表現を用いる[SRC-01136]。イングランドの貴族会議(賢人会議)はハロルドを王として承認し[SRC-01138]、エドワードの死の翌日である1月6日、ウェストミンスター・アビーでのエドワードの埋葬と同じ日に、ハロルドは戴冠したと複数の現代の解説機関は記す[SRC-01136][SRC-01138]。
ウェストミンスター・アビー自身の公式解説は、ハロルドがこの教会で戴冠した可能性が高いとしながらも、この式典を確証する同時代の記録は現存しないと明記する[SRC-01139]。同解説によれば、ウェストミンスター・アビーで文書上確認できる最初の戴冠式は、同年12月25日のウィリアム征服王のものである[SRC-01139]。
バイユー・タペストリーを所蔵するバイユー博物館の公式解説は異なる筋書きを伝える。同解説は、老王エドワードが死去すると、ハロルドはノルマンディー公の代わりに自ら戴冠したと記す[SRC-01140]。この記述は、タペストリーがノルマン側の視点で製作されたとされる史料であることを反映したものであり、ハロルドの即位を先立つ誓約への違背として描く文脈に位置づけられる[SRC-01140]。
歴史的背景
エドワード懺悔王は1042年に即位したが、その治世は1051年のゴドウィン家の反乱と追放、1052年のハロルドによる武力での父の地位回復など、ゴドウィン家との緊張のなかで推移した[SRC-01137]。この1051年の危機の際、エドワードはノルマンディー公ウィリアムを後継者に指名したとノルマン側の史料は主張する[SRC-01136]。エドワードには実子がなく、ハロルド・ゴドウィンソン、ノルマンディー公ウィリアム、ノルウェー王ハラール3世という複数の有力者が王位に関心を持つ状況が、1066年の危機の背景にあった[SRC-01137][SRC-01138]。
イースト・アングリア大学の歴史家トム・ライセンス氏の研究(学術会議録収録と報じられる)は、アングロサクソン年代記の1062年から1066年にかけての記述に、王位交代後の書き換えを疑わせる不自然な痕跡(空白の年条、エルフガー伯の死没記録の欠落等)があると指摘し、これらの改変がエドワードの実際の政治的孤立を覆い隠し、ハロルドの行為をエドワードの意志の継続であるかのように見せかけた可能性を論じていると報じられている[SRC-01141]。本サイトはこの学術的論点の存在を紹介するにとどめ、真偽の判定は行わない(本稿の整理)。
タイムライン
| 日付(ユリウス暦) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1051年 | ゴドウィン家がエドワードの命に背き反乱、一家は追放される。ノルマン側の史料によれば、この時エドワードはウィリアムを後継者に指名したとされる | [SRC-01136][SRC-01137] |
| 1052年 | ハロルド、武力により父ゴドウィンの地位をイングランドで回復させる | [SRC-01137] |
| 1053年 | 父ゴドウィンの死去に伴い、ハロルドがウェセックス伯位を継承 | [SRC-01137] |
| 1064年〜1065年 | ハロルド、ノルマンディーを訪問。ノルマン側の史料によれば、この間にウィリアムへ王位請求権を支持する誓いを立てたとされる | [SRC-01136][SRC-01137] |
| 1066年1月5日 | エドワード懺悔王、ウェストミンスターで死去 | [SRC-01136] |
| 1066年1月6日 | エドワード、ウェストミンスター・アビーに埋葬。同日、ハロルドが同教会でイングランド王として戴冠したと複数の現代の解説機関は記す | [SRC-01136][SRC-01138] |
| 1066年10月14日 | ヘイスティングズの戦いでハロルド戦死、ノルマンディー公ウィリアムが勝利 | [SRC-01136][SRC-01138] |
| 1066年12月25日 | ウィリアム、ウェストミンスター・アビーで戴冠(同アビーで文書上確認できる最初の戴冠式) | [SRC-01139] |
異説・論争定説のない論点があります
ハロルドの即位の正統性の根拠については、系統の異なる史料の間で筋書きが分かれる。エドワードの伝記『エドワード王の生涯』に連なる系統は、エドワードが臨終の床で王妃エディスと王国をハロルドの守護に委ねる言葉を残したと伝え、ハロルドとその支持者はこれを後継指名と解したとされる(王国を「与えた」とする年代記の表現もこれに近い)[SRC-01136]。これに対し、バイユー・タペストリーに代表されるノルマン側の史料は、ハロルドが先立つ誓約(ウィリアムの王位請求権を支持する誓い)を破って自ら戴冠したという筋書きを伝える[SRC-01136][SRC-01137][SRC-01140]。アングロサクソン年代記の諸写本間でも、王国を「与えた」とする表現と単に「託した」とするより弱い表現が併存し、後代のある年代記作者はハロルドが「巧妙なやり方で王国を奪い取った」と記している[SRC-01136]。本サイトはいずれの筋書きが史実として妥当かを判定しない。
対立は2説にとどまらない。英国の史跡保護機関自身は、この戴冠の性急さ("unusual haste")と、エドワードの臨終の指名をめぐる記述の曖昧さを指摘し、ハロルドが速やかに権力を固める必要に迫られていた可能性を示唆すると記す(節見出しは「Chosen successor or palace coup?(選ばれた後継者か、宮廷内クーデターか)」)[SRC-01136]。さらに同解説は、1080年代に書かれた大陸の年代記作者の記述として、ハロルドはエドワードに対しエドガー・アシリング(エドワード懺悔王の大甥で、1066年当時イングランド王位への血統上最有力の請求権を持っていたとされる人物)へ王位を譲るとの誓いを立てていたが、王位を奪う際にこの誓いを無視したという第3の筋書きも紹介している[SRC-01136]。本サイトはこうした評価的な性格づけを自らの記述には用いないが、Aランクの現代機関自身がこのように記していること、また対立が単純な2説対立にとどまらないことは、出典の記述として開示する。いずれの筋書きが史実として妥当かの判定は行わない。
この対立をさらに複雑にする論点として、アングロサクソン年代記そのものの記述が、王位交代後にハロルド側に有利になるよう改変された可能性を指摘する学術研究がある。イースト・アングリア大学のトム・ライセンス氏は、年代記写本の1062年から1066年にかけての記述に、王位交代前の記述と整合しない不自然な書き換えの痕跡があると論じているという(学術会議録収録と報じられる。本サイトは原論文を未確認であり、報道記事に基づき紹介する)[SRC-01141]。この研究が正しければ、「エドワードの意志の継続」を強調する年代記の記述自体が、事後的に整えられたものである可能性がある。本サイトはこの学術的論点の存在を紹介するにとどめ、判定は行わない。
ハロルドの戴冠がウェストミンスター・アビーで行われたことは、複数の現代の解説機関(英国の史跡保護機関、英国王室公式サイト)が一致して記す。しかし、戴冠式が行われた当のウェストミンスター・アビー自身の公式解説は、ハロルドがこの教会で戴冠した可能性が高いとしながらも、この式典を確証する同時代の記録は現存しないと明記しており、同年12月のウィリアムの戴冠(文書上確認できる同アビー最初の戴冠式)とは史料的な確実性の水準が異なる[SRC-01139]。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 即位の正統性の根拠 | エドワードが臨終の床で王国をハロルドの守護に委ね、ハロルドとその支持者はこれを後継指名と解した(王国を「与えた」とする年代記の表現もこれに近い) | [SRC-01136] | 『エドワード王の生涯』に連なる系統、アングロサクソン年代記の一部写本の表現 |
| 即位の正統性の根拠 | ハロルドは先立つ誓約を破り自ら戴冠した | [SRC-01136][SRC-01137][SRC-01140] | ノルマン側の史料(バイユー・タペストリー等)に連なる系統 |
| 即位の正統性の根拠 | ハロルドは戴冠の性急さから、速やかに権力を固める必要に迫られていた可能性がある | [SRC-01136] | 英国の史跡保護機関自身による性格づけ(節見出し「Chosen successor or palace coup?」) |
| 即位の正統性の根拠 | ハロルドはエドガー・アシリングへ王位を譲るとの先立つ誓いを、王位を奪う際に無視したとする筋書きがある | [SRC-01136] | 1080年代の大陸の年代記作者の記述(英国の史跡保護機関の解説経由) |
| アングロサクソン年代記の信頼性 | 年代記の1062〜1066年条は、王位交代後にハロルド側に有利な形へ改変された可能性がある | [SRC-01141] | イースト・アングリア大学トム・ライセンス氏の研究(学術会議録収録と報じられる。本サイト未確認) |
| 戴冠式の史料的確実性 | ウェストミンスター・アビーでの戴冠は通説だが、式典を確証する同時代の記録は現存しない | [SRC-01139] | 戴冠式が行われた当の史跡自身(ウェストミンスター・アビー)の公式見解 |
関連する出来事
- 1051年、ゴドウィン家の反乱と追放の際、ノルマン側の史料によればエドワードはノルマンディー公ウィリアムを後継者に指名したとされる(本記事「異説・論争」参照)[SRC-01136]。
- 1064年から1065年、ハロルドはノルマンディーを訪問し、ノルマン側の史料によればウィリアムへの誓いを立てたとされる(本記事タイムライン参照)[SRC-01136][SRC-01137]。
- 1066年10月14日、ヘイスティングズの戦いでハロルドは戦死し、ノルマンディー公ウィリアムが勝利した。複数の現代の解説機関は、ハロルドの即位とその正統性への異議を、この戦いとそれに続くノルマン征服の背景として位置づける[SRC-01136][SRC-01138]。
- 1066年12月25日、ウィリアムはウェストミンスター・アビーで戴冠しウィリアム1世となった。これは同アビーで文書上確認できる最初の戴冠式である[SRC-01139]。
関連人物
- ハロルド2世(ハロルド・ゴドウィンソン)(はろるど にせい): ウェセックス伯ゴドウィンの子。1066年1月6日にイングランド王として戴冠し、同年10月14日ヘイスティングズの戦いで戦死した最後のアングロサクソン系イングランド王[SRC-01136][SRC-01137][SRC-01138]。
- エドワード懺悔王(えどわーど ざんげおう): 1042年から1066年まで在位したイングランド王。1066年1月5日に死去し、翌日ウェストミンスター・アビーに埋葬された[SRC-01136]。
- ウィリアム(ノルマンディー公、後のウィリアム征服王)(うぃりあむ): ノルマンディー公。ノルマン側の史料によれば1051年および1064年の2度にわたりエドワード・ハロルド双方から王位継承を約束されたと主張し、1066年にイングランドへ侵攻してハロルドを破った[SRC-01136][SRC-01137]。
歴史的意義
ハロルドの戴冠から9か月余りの治世ののち、ウィリアムはヘイスティングズの戦いでハロルドの軍を破り、同年12月25日にウェストミンスター・アビーで戴冠した[SRC-01136][SRC-01138][SRC-01139]。英国の史跡保護機関は、ノルマン側の主張として、ウィリアムのハロルドへの挑戦を自らの「正当な王としての地位」を回復する行為だったと記す[SRC-01136]。この即位の正統性をめぐる対立、そして敗者ハロルドの戴冠を確証する同時代記録が乏しいという史料状況(ウェストミンスター・アビー自身の指摘)は、歴史叙述が勝者の側からより厚く伝えられがちであることを示す一例として、本サイトは位置づける(本サイトの整理)。
現代の視点
本記事の射程は、1066年1月6日前後の出来事(エドワードの死・埋葬、ハロルドの戴冠、正統性をめぐる史料間の対立の紹介)と、同年のヘイスティングズの戦いへの遡及的な位置づけの紹介にとどめる。ハロルドの即位の正統性そのものについて、本サイトは判定を行わない。現代のイングランド・ノルマンディーの国民意識や、現代の英欧関係をめぐる論争への接続は行わない(本サイトの整理)。
出典一覧
- [SRC-01136] A Restless Reign: Harold II in 1066/English Heritage(ランクA)
- [SRC-01137] Harold II | Biography, Death, & Facts/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
- [SRC-01138] Harold II (r. Jan - Oct 1066)/The Royal Household(ランクA)
- [SRC-01139] A history of coronations/Westminster Abbey(ランクA)
- [SRC-01140] What is the Bayeux Tapestry about? - The story of the Tapestry/Bayeux Museum (Musée de la Tapisserie de Bayeux)(ランクA)
- [SRC-01141] The Anglo-Saxon Chronicle Was Edited to Favour Harold, Study Finds/Medievalists.net(ランクB)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-07 | あり |
| 2 | 2026-09-15 | あり |
| 3 | 2026-09-15 | あり |
| 4 | 2026-09-28 | なし |
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