ウルバヌス2世がクレルモン教会会議で十字軍を提唱したのは、1095年11月27日とされる——だが演説を伝える公式記録は残っていない

日付と暦

原典表記
1095年11月27日(ユリウス暦)
換算
1095-11-27(ユリウス暦)
掲載日
11月27日のページ

暦の注記: 教皇ウルバヌス2世がクレルモン教会会議で東方遠征を呼びかける演説を行ったのは、ユリウス暦の1095年11月27日とされる(ユリウス暦換算: 1095-11-27、実質的な暦計算を伴わない識別変換)[SRC-00819]。ただし、この日付を明示するのは到達した出典のうち1系統(World History Encyclopedia)にとどまり、会議の正式な議事録(acts)は現存しないため[SRC-00816][SRC-00817]、独立した2系統による確定には至っていない(詳細は異説・論争欄)。本サイトはこの日付主張を「確度: probable(単一系統による裏付け)」として扱ったうえで、11-27のページに掲載している。会議そのものの召集日(11月18日)についても、ブリタニカとWorld History Encyclopediaの双方が同じ日付を記すが、両者が共通の典拠に基づく可能性を排除できないため、本サイトはこちらも「probable」として扱う(詳細は下記の暦換算の注記)[SRC-00818][SRC-00819]。1095年は1582年のグレゴリオ暦導入に487年先立つため、当時この地域で用いられていた暦がユリウス暦であることはR-CAL-2の機械決定から必然的に導かれる(R-CAL-9)。

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概要

教皇ウルバヌス2世は1095年11月、フランス中部クレルモンで教会会議を開いた[SRC-00816][SRC-00818][SRC-00819]。会議は11月18日に招集され[SRC-00818]、World History Encyclopediaはこの日を会議の開幕日として11月28日までの日程を記す[SRC-00819]。その終盤、野外に集まった聴衆を前にウルバヌスは、東方のビザンツ帝国への支援とエルサレム(聖地)奪還を呼びかける演説を行った[SRC-00816][SRC-00819]。この演説は11月27日に行われたとされるが[SRC-00819]、会議の正式な議事録は現存せず[SRC-00816][SRC-00817]、演説の一言一句を伝える同時代の文書も、贖罪免除を記す教令の短い一文以外には見つかっていない[SRC-00817][SRC-00819]。聴衆は演説を「神はそれを望んでおられる」という叫びで迎えたと伝わるが、誰が最初にこの言葉を発したかについてすら、出典ごとに記述が異なる[SRC-00816][SRC-00818][SRC-00819]。

本文

クレルモンには13名の大司教・82名の司教・90名の修道院長が参集し、教皇自らが議長を務めた[SRC-00819]。9日間の教会内論件の審議(聖職者の婚姻禁止の再確認、姦通を理由とするフランス王フィリップ1世の破門など)を経て[SRC-00819]、最後(33番目)の教令として、東方への遠征に赴く者への贖罪免除が定められた[SRC-00819]——当時の写本の一つ(Liber Lamberti)は「名誉や金銭のためではなく、信心のみによってエルサレムの神の教会を解放するために出発する者は、それをもってあらゆる贖罪に代える」と記す[SRC-00817]。World History Encyclopediaも、これとほぼ同内容の教令文を引用している[SRC-00819]。ブリタニカも、この会議で神の平和(Peace of God)の再布告と、全免償の教令が定められたと記す[SRC-00818]。

この決定にいたる演説そのものの中身は、5人の年代記者が書き残した版によってしか伝わらない[SRC-00816]。フルシェール・ド・シャルトル版は、教会規律の話題から転じ、トルコ人・アラブ人に領土を奪われた東方のキリスト教徒への救援を訴え、「キリストがこれを命じる」と述べる[SRC-00816]。一方、ロベルトゥス・モナクス版・バルドリクス・ド・ドル版・ギベール・ド・ノジャン版は、いずれもエルサレム(聖地)の奪還をより強く前面に押し出す[SRC-00816]。ロベルトゥス版によれば、演説を聞いた参集者は声を揃えて「神はそれを望んでおられる」と叫び、ウルバヌスはこれを遠征の合言葉と定めた[SRC-00816]。教令の写本の一つ(モンテ・カッシーノ本)も、その場にいた全員がこの言葉を繰り返し唱えたと記す[SRC-00817]。ル・ピュイ司教アデマールは、その場で教皇から遠征の教皇代理・指導者としての委任を得た[SRC-00816]。World History Encyclopediaは、アデマールが群衆に先立って叫んだのち壇上に上がり十字の記章を受け取ったと記す——このうち登壇と受章については「ほぼ間違いなく事前に打ち合わされていた」ものだとする[SRC-00819]。

歴史的背景

背景には、ビザンツ帝国の窮状があった。1071年8月のマンジケルトの戦いでセルジューク朝トルコに大敗したビザンツは、1078年にはエデッサ・アンティオキアを奪われた[SRC-00819]。エルサレムについては、1087年にセルジューク朝がファーティマ朝(エジプト)から奪取したものであり、同市は7世紀以来ムスリムの支配下にあった(ビザンツからの喪失ではない)[SRC-00819]。ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスは1095年春、教皇ウルバヌスへ直接支援を要請した[SRC-00819]。ウルバヌス自身、1091年には既にドナウ北岸へ侵入したペチェネグ人と戦うビザンツへ軍を送っており[SRC-00819]、1054年の東西教会分裂以来隔たっていた東西の教会を自らのもとに統べたいという構想も抱いていたとされる[SRC-00819]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1071年8月(ユリウス暦) マンジケルトの戦いでビザンツ軍がセルジューク朝トルコに敗北 [SRC-00819]
1087年(ユリウス暦) セルジューク朝がファーティマ朝からエルサレムを占領 [SRC-00819]
1095年3月(ユリウス暦) ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスが教皇ウルバヌス2世へ支援を要請 [SRC-00819]
1095年11月18日(ユリウス暦・とされる) クレルモン教会会議が招集される(ブリタニカ)。World History Encyclopediaはこの日を会議の開幕日として11月28日までの日程を記す [SRC-00818][SRC-00819]
1095年11月27日(ユリウス暦・とされる) ウルバヌス2世が東方遠征を呼びかける演説を行う [SRC-00819]
1095年11月28日(ユリウス暦・World History Encyclopediaの日程表記による) 会議の開催期間はこの日までとされる [SRC-00819]
1095年12月(ユリウス暦) ウルバヌス2世が書簡で、アデマールを遠征の教皇代理・指導者として言及する [SRC-00816]
1096年8月15日(ユリウス暦) 遠征部隊の出発予定日。書簡は祝日名(聖母被昇天の日)のみを記し[SRC-00816]、World History Encyclopediaが同年8月15日と明記する(聖母被昇天の日=8月15日は本サイトによる接続) [SRC-00816][SRC-00819]
1099年7月15日(ユリウス暦) 遠征(第1回十字軍)がエルサレムを攻略したとされる [SRC-00819]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

この演説をめぐる最大の論点は、日付そのものの確度である。本サイトは11-27のページにこの記事を掲載しているが[SRC-00819]、これは到達した出典のうちWorld History Encyclopediaの1系統が明示する日付にすぎず、会議の正式な議事録は現存しないため、独立した2系統による裏付けはない[SRC-00816][SRC-00817][SRC-00819]。ブリタニカは会議の召集日(11月18日)を明記する一方、演説当日の日付そのものには言及せず[SRC-00818]、Fordham大学のInternet Medieval Sourcebookも、演説を伝える6件の原典(5つの年代記+ウルバヌス自身の書簡)のいずれについても、演説当日の月日を一度も明示しない——ただし6件目(ウルバヌス自身の書簡)は、ページの見出しで「1095年12月」の日付が示され、本文でも出発予定日を「聖母被昇天の日」と記している[SRC-00816]。本サイトはこの日付を有力な推定として扱い、確定した事実としては断定しない(本サイトの整理)。

演説を聞いた聴衆の反応として広く知られる「神はそれを望んでおられる」という叫びについても、誰が最初に発したかで出典が割れる(原語は出典・版によって異なり、ロベルトゥス・モナクス版は「It is the will of God」[SRC-00816]、モンテ・カッシーノ本・ブリタニカ・World History Encyclopediaは「God wills it」と記す[SRC-00817][SRC-00818][SRC-00819])。参集者一同が声を揃えて叫んだと伝えるロベルトゥス・モナクス版の記録は、独立した教令の写本伝承(モンテ・カッシーノ本)とも一致する[SRC-00816][SRC-00817]。一方でブリタニカは、教皇自身が演説の結びとしてこの言葉を述べたと記す[SRC-00818]。さらにWorld History Encyclopediaは、ル・ピュイ司教アデマールが先に叫び、聴衆がそれに続いたという整理を示す[SRC-00819]。

演説の力点にも版ごとの違いがある。ビザンツ支援と教会内平和の回復を中心に据えるフルシェール版に対し、他の3版(ロベルトゥス版・バルドリクス版・ギベール版)はエルサレム奪還をより強く打ち出す[SRC-00816]。もっとも、フルシェール版の教会規律に関する記述をめぐっては、コーネル大学ホスト(Somerville校訂研究の訳)が、その内容がアングロ=ノルマン系の決議集の条文(第1・7・16・17・18条・26条)と大きく重なり、フルシェールが決議集の文書版を入手してそれを演説の形に書き改めた可能性を指摘しており、出席者本人による直接の記録という位置づけそのものに疑義を呈する見解もある[SRC-00817]。World History Encyclopediaも、複数の年代記を比較検討したうえで「エルサレムが第一の目的であり、ビザンツ帝国の防衛は第二の目的だった」と整理する[SRC-00819]。もっとも、こうした年代記の多くは十字軍が実際にエルサレム攻略という劇的な結末を迎えたのちに書かれており(ロベルトゥス版の成立時期は演説の約25年後[SRC-00816]・1110年頃[SRC-00819]と出典間に幅がある)、その結末を知ったうえでの記述である可能性がある点には注意が必要である(本サイトの整理)。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
演説の正確な日付 11月27日(会議最終盤の野外集会) World History Encyclopedia 到達した出典中これを明示するのは1系統のみ。会議の公式議事録は現存せず、本サイトはこの日付を「confidence: probable」として扱う[SRC-00819]
(同上) 会議の召集日は明記するが演説当日には触れない/演説当日の月日には一度も触れない ブリタニカ(召集日=11月18日のみ明記)/Fordham大学Internet Medieval Sourcebook(見出しの月=1095年12月・出発予定日の祝日名は記すが、演説当日の月日は不明示) 演説当日の特定に踏み込まない立場[SRC-00816][SRC-00818]
「神はそれを望んでおられる」の発話者 参集者一同が声を揃えて叫んだ ロベルトゥス・モナクス版年代記/教令の増補写本(モンテ・カッシーノ本) 独立した2つの記録系統が一致(本サイトの整理)[SRC-00816][SRC-00817]
(同上) 教皇自身が演説の結びとして述べた ブリタニカ 単独系統[SRC-00818]
(同上) ル・ピュイ司教アデマールが先に叫び、聴衆が続いた World History Encyclopedia 単独系統[SRC-00819]
演説の力点 ビザンツ支援・教会内平和の回復を中心に据える フルシェール・ド・シャルトル版 会議に出席した年代記者本人による記録とされる[SRC-00816]。もっとも、コーネル大学ホスト(Somerville校訂研究の訳)は、この記述がアングロ=ノルマン系決議集の条文と重なり、フルシェールが文書版を演説の形へ書き改めた可能性を示す見解を伝えており、この位置づけには異論もある[SRC-00817]
(同上) エルサレム(聖地)奪還をより強く打ち出す ロベルトゥス・モナクス版/バルドリクス・ド・ドル版/ギベール・ド・ノジャン版。World History Encyclopediaも比較整理で同様の見立てを示す 後世に成立した年代記に共通する傾向(本サイトの整理。ロベルトゥス版の成立時期は演説の約25年後[SRC-00816]・1110年頃[SRC-00819]と出典間に幅があり、バルドリクス版は12世紀初頭の成立[SRC-00816])

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

クレルモンでの呼びかけは、第1回十字軍の起点となった[SRC-00816][SRC-00818][SRC-00819]。教皇が遠征参加者に贖罪免除を約束したこの枠組みは、以後の歴代教皇による遠征の呼びかけでも繰り返し用いられ、以後2世紀以上にわたる東西間の軍事的往来(十字軍)の出発点になったとされる[SRC-00819]。演説を機に始まった遠征は1099年7月15日にエルサレムを攻略して目的を達成したとされるが、ウルバヌス自身はその成功を知ることなく、同年7月29日に没したという[SRC-00819]。

現代の視点

「神はそれを望んでおられる」という言葉は、今日でも十字軍を象徴する台詞として広く知られている。しかし本記事で見たとおり、誰が最初にこの言葉を発したのかは出典によって記述が異なり、演説そのものの一言一句を伝える同時代の公式記録も存在しない[SRC-00816][SRC-00817][SRC-00818][SRC-00819]。現存する演説版の多くは、十字軍が実際に劇的な結末を迎えたのちに成立した記録であり(作者不詳のGesta Francorum版は1100〜1101年頃、バルドリクス版は12世紀初頭の成立[SRC-00816]。ロベルトゥス版の成立時期は演説の約25年後[SRC-00816]・1110年頃[SRC-00819]と出典間に幅がある)、その結末を知ったうえでの記述である可能性を念頭に置く必要がある(本サイトの整理)。よく知られた「歴史上の名台詞」ほど、その一次資料への遡及可能性を確かめる価値がある——本記事はその一例である。

出典一覧

  1. [SRC-00816] Medieval Sourcebook: Urban II (1088-1099): Speech at Council of Clermont, 1095 [Six Versions of the Speech]/Internet History Sourcebooks Project, Fordham University(編: Paul Halsall)(ランクA)(複数の資料を収載)
  2. [SRC-00817] Decrees of Pope Urban II at the Council of Clermont, 1095/コーネル大学ホスト(元プロジェクトページ。訳・注: Ernest Blake & Colin Morris)(ランクA)(複数の資料を収載)
  3. [SRC-00818] Council of Clermont | Description, History, Importance, & Facts/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  4. [SRC-00819] Council of Clermont/World History Encyclopedia(非営利法人。著者: Mark Cartwright)(ランクB)(複数の資料を収載)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-05
22026-09-05あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。