325年世界 4世紀
第1ニカイア公会議は、ソクラテス『教会史』によれば325年5月20日に召集され、信条は同年6月19日に提示されたとされる——会議の開始日については、NPNF訳者注が6月14日ごろとする一方、ソクラテスの召集記事・Fourth-Century Christianityの要覧は5月20日とする
日付と暦
- 原典表記
- 325年6月19日(信条起草日。匿名教会史は『7月のカレンダエの13日前』と記す)(ユリウス暦)
- 換算
- 0325-06-19(ユリウス暦)
- 掲載日
- 6月19日のページ
暦の注記: ニカイア信条は、匿名教会史によればユリウス暦の325年6月19日に提示されたとされる(ユリウス暦換算: 0325-06-19。暦種別の換算そのものは発生しない識別変換である)[SRC-02485]。会議の召集自体は、ソクラテス・スコラスティコス『教会史』によれば同年5月20日であったと記録文書の日付記載から確認されており[SRC-02480]、両日付の間には約1か月の差がある。本サイトでは、信条が提示された日付(6月19日)を 06-19 のページに掲載している。一方、会議がいつ始まったかについては、ソクラテスの召集記事[SRC-02480]とFourth-Century Christianityの要覧[SRC-02484]が5月20日とする記述と、NPNF訳者注[SRC-02481]が「6月14日ごろ」とする記述との間に相違があり、本サイトはいずれが正しいかを裁定しない。
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概要
325年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、キリスト教会全体を代表する会議をビチニアのニカイアに招集した[SRC-02480][SRC-02481]。この会議は、キリストが父(神)と同一の実体を持つかどうかをめぐるアレクサンドリアの長老アリウスの教説(アリウス主義)の論争を主な議題とし、最終的に「ホモウシオス(同一の実体)」の語を用いた信仰表明——ニカイア信条——を採択した[SRC-02480][SRC-02482][SRC-02483]。アリウスの教説は異端として排斥され、本人は追放された[SRC-02482]。ソクラテス・スコラスティコス『教会史』は、会議が記録文書の日付記載から325年5月20日に召集されたと記し[SRC-02480]、匿名教会史はニカイア信条が同年6月19日に提示されたと記録している[SRC-02485]。ただし、会議がいつ始まったかについては、ソクラテス『教会史』の召集記事・Fourth-Century Christianityの要覧が5月20日とする一方、NPNF訳者注は「6月14日ごろ」と記し、出典間で記述が分かれている[SRC-02480][SRC-02481][SRC-02484]。会議は、聖職者の独身制を義務づける規定については一部の反対により採択しなかったが、復活祭の統一的な日取りについては出典によって記述が分かれている(ブリタニカは「取り決めに失敗した」と記す一方、シノド自身の書簡は合意に達したと記す)[SRC-02483][SRC-02480]。
本文
アレクサンドリア主教アレクサンドロスは、320年または321年ごろ、100名を超える主教を集めてアリウスを異端として排斥する会議をアレクサンドリアで開いた。アリウスはその後も自身の教会で説教を続け信奉者を得たが、最終的に追放され、パレスチナを経てニコメディアへ移ったとされる[SRC-02482]。コンスタンティヌス帝はリキニウスを破り単独皇帝となった後、宗教的平和の回復を企図し、宗教顧問であったコルドバ主教ホシウスをアレクサンドリアへ派遣して調停を試みたが、この調停は失敗した[SRC-02482]。これを受け、皇帝は全教会を代表する会議の招集を決断し、各地の主教に招請の書簡を送るとともに、公的な交通手段を提供した[SRC-02480][SRC-02481]。
ソクラテス『教会史』は、この会議の召集について「このシノドは、シノドの記録に付された日付の記載から判明したとおり、パウリヌスとユリアヌスが執政官であった年の5月20日に召集された」と記す[SRC-02480]。一方、匿名教会史(2.27.1)は、ニカイア信条が「神を愛する皇帝コンスタンティヌスのもとでニカイアの公会議により……6月19日、7月のカレンダエの13日前に、提示された」と記録している[SRC-02485]。New Advent(カトリック百科事典)は、ソクラテスが示す手がかりと、カルケドン公会議の記録議事が示す手がかりとを整合させ、「召集は5月20日だが、皇帝が不在のうちは非公式な会合が6月14日まで続き、皇帝到着後の正式な会期で信条が6月19日に起草された」という経過を想定しうるとする説を示す[SRC-02482]。もっとも、この経過全体は後代の学術的整理であり、ソクラテス自身・匿名教会史自身がこの経過全体を明記しているわけではない。会議がいつ始まったかについては、ソクラテスの召集記事・Fourth-Century Christianityの要覧が5月20日とする記述と、NPNF訳者注が「6月14日ごろ」とする記述との間で一致がない[SRC-02480][SRC-02481][SRC-02484]。
会議にはヨーロッパ・アフリカ・アジアの各地から主教が参集し、シリア・キリキア・フェニキア・アラビア・パレスチナ・エジプト・リビア・メソポタミア・ペルシア・スキタイ・ポントス・ガラティア・パンフィリア・カッパドキア・アシア・フリュギア・トラキア・マケドニア・アカイア・エピロスなど広範な地域からの出席者がいたとされる[SRC-02480][SRC-02481]。出席した主教の数については、エウセビオス自身が「250人を超えた」と記し[SRC-02481]、ソクラテスはエウセビオスの文言を引用する形で「300人を超えた」と記す一方、自身の地の文では318人としている[SRC-02480]。アタナシオスに帰せられる書簡も「318人」という数字を明示し、この数字がのちに広く採用されたが[SRC-02482]、テオドレトスは270人、アラビア語の写本は2000人(明らかな誇張とされる)を記すなど、出典によって数字は大きく異なる[SRC-02481][SRC-02482]。近代における署名者名簿の校訂研究(Gelzer・Hilgenfeld・Contzおよび Turnerによる)からは220名または218名の名簿が確認され、他の資料と合わせて232名または237名の、出席が知られる教父の一覧として再構成できるとされる[SRC-02482]。
皇帝は紫衣に金と宝石で装って入堂し、主教たちが着座を促すまで起立していたとされ、ラテン語で和平を訴える演説を行った[SRC-02481][SRC-02482]。皇帝は開会式の名誉議長を務め、その後の会合にも出席したが、神学的な議論そのものの指導は教会の指導者たちに委ねられており、実質的な議長はホシウスであったとされる[SRC-02482]。アリウスの教説——子は無から造られた存在であり、子が存在しなかった時があった、という主張——は会議で審議され、ほぼ全会一致で異端として排斥された[SRC-02480][SRC-02482]。New Advent(カトリック百科事典)によれば、最終的に信条への署名を拒んだのはマルマリカのテオナスとプトレマイスのセクンドゥスの2名のみで、両名はアリウスとともに排斥・追放された[SRC-02482]。一方、ソクラテス『教会史』は、この2名に加えニコメディアのエウセビオスとニケアのテオグニス・カルケドンのマリスを含む5名が署名を拒んだと記し、アリウスとともにニコメディアのエウセビオスとテオグニスも追放されたと記している[SRC-02480]。アリウスの著作は焼却の上、本人はイリュリクムへ追放されたとされる[SRC-02482]。
採択された信条の文言は、カエサレアのエウセビオスの書簡・アタナシオス・ソクラテス・匿名教会史の間で重要な相違なく保存されている[SRC-02485]。信条は「我らは唯一の神、全能の父、見えるもの見えざるものすべての造り主を信じる。また唯一の主イエス・キリスト、神の子、父より生まれし独り子、すなわち父の実体[ousias]より生まれ、神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、造られたのではなく生まれた者、父と同一の実体[homoousion to patri]を持つ者……を信じる」と定式化し、「子が存在しなかった時があった」等と主張する者を異端として排斥する文言で終わる[SRC-02480][SRC-02482]。
歴史的背景
会議を招集した当時のコンスタンティヌス帝は、教会内の対立を自らが癒すべき務めと考えていたとされ、アリウス派の論争を「あまりに暇のある学者間の些末な意見の相違」と当初は軽視していたが、ニカイアで容易に解決できるという皇帝の見立ては誤りであった、とブリタニカは評する[SRC-02483]。教皇シルウェステル1世は高齢のため会議に出席せず[SRC-02481]、2名のローマ司祭(ヴィクトルとヴィンケンティウス)が使節として代理したとされる[SRC-02482][SRC-02483]。
アリウス派の論争に加え、復活祭の日取りをめぐる論争(東方の一部地域がユダヤの慣行に合わせて祝っていた問題)も当時教会を悩ませていた懸案であり、会議はこの問題も扱った。シノド自身の書簡は、この問題について合意に達したと記す[SRC-02480]。一方、ブリタニカは、会議が復活祭の統一的な日取りの取り決めに失敗したと記す[SRC-02483]。聖職者の独身制についても、ソクラテスは、会議がこれを義務づける規定を設けることを審議していたが、パフヌティオス主教の説得により議論が打ち切られ、新たな規定は設けられなかったと記録している[SRC-02480]。ブリタニカも、一部の反対により独身制の方針を採択しなかったと記す[SRC-02483]。
タイムライン
| 日付(ユリウス暦) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 320年または321年ごろ | アレクサンドリア主教アレクサンドロスが、アリウスを異端として排斥する会議をアレクサンドリアで開く | [SRC-02482] |
| 325年5月20日 | ソクラテス『教会史』が記す、ニカイア公会議の召集日(シノドの記録文書の日付記載による) | [SRC-02480] |
| 325年6月14日ごろ | NPNF訳者注は、会議がこの日ごろに始まったとみられると記す。New Advent(カトリック百科事典)も、皇帝到着後の正式な会期がこの日ごろに始まったとする学説を示す | [SRC-02481][SRC-02482] |
| 325年6月19日(本サイトの掲載日) | 匿名教会史が記す、ニカイア信条が提示された日 | [SRC-02485] |
| 325年8月25日(New Advent・NPNF訳者注)または7月25日(Fourth-Century Christianity要覧表) | 会議の終了日。出典間に相違がある | [SRC-02481][SRC-02482][SRC-02484] |
| 381年 | 第1コンスタンティノープル公会議が、三位一体の教義を宣言し、アリウス主義を公式に退ける | [SRC-02483] |
異説・論争定説のない論点があります
論点1: 会議はいつ始まったか。 会議の開始日について、出典の記述は一致していない。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 開始日 | 5月20日(召集の日) | ソクラテス『教会史』第1巻第13章末尾[SRC-02480]。Fourth-Century Christianityの要覧表も会期を同日からと記す[SRC-02484] | シノドの記録文書の日付記載に基づく、ソクラテス自身の近接時代の記述 |
| 開始日 | 6月14日ごろ | NPNF(エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』第3巻)訳者注が、会議の正確な日付には議論があるが、おそらくこの日ごろに始まったとみられると記す[SRC-02481] | 19世紀の編者による学術的整理。New Advent(カトリック百科事典)も、皇帝到着後の正式な会期がこの日ごろに始まったとする学説を示す[SRC-02482] |
本サイトは、いずれが会議の開始日であるかを裁定しない。
論点2: 出席した主教の数は何人か。 本記事が確認した出典の間では、出席した主教の数について複数の異なる値が伝えられている。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 出席主教数 | 250人超(エウセビオス自身の証言) | エウセビオス『コンスタンティヌスの生涯』第3巻第8章[SRC-02481] | 会議出席者本人による同時代の証言。最小限の下限を示す数字 |
| 出席主教数 | 300人超(ソクラテスが引くエウセビオスの文の数) | ソクラテス『教会史』第1巻第8章[SRC-02480] | ソクラテスが引用するエウセビオスの文中の数字。ソクラテス自身の地の文は318人とする |
| 出席主教数 | 318人(アタナシオスに帰せられる書簡「アフリカの主教たちへ」の数字) | New Advent[SRC-02482]。NPNF訳者注も同数字に言及する[SRC-02480][SRC-02481] | この数字がのちに広く採用された。近代の署名者名簿研究は、220名または218名の名簿を確認し、他の資料と合わせて232名または237名程度を実在確認数として再構成する |
| 出席主教数 | 270人(テオドレトスの証言)、2000人(アラビア語写本。明らかな誇張とされる) | NPNF訳者注[SRC-02481]。アラビア語写本の言及と「明らかな誇張」の評はNew Advent[SRC-02482]にもある | 270人はテオドレトスの証言。2000人については、資料自体が「明らかな誇張」と評される |
論点3: 会議はいつ終了したか。 New Advent・NPNF訳者注は8月25日とするが、Fourth-Century Christianityの要覧表は7月25日とする。本サイトはこの相違を単一値に統一せず、両論を開示する[SRC-02481][SRC-02482][SRC-02484]。
関連する出来事
- 320年または321年ごろ、アレクサンドリア主教アレクサンドロスが、アリウスを異端として排斥する会議をアレクサンドリアで開いた(本記事「本文」参照)[SRC-02482]。
- 381年、第1コンスタンティノープル公会議が三位一体の教義を宣言した[SRC-02483]。ニカイア信条は、この381年の会議で拡張された版へと発展したとされる[SRC-02485]。アリウス主義は、それまでの間、東ローマ帝国における正統教義でありつづけたとされる[SRC-02483]。
関連人物
- コンスタンティヌス1世(こんすたんてぃぬす いっせい): ローマ皇帝。宗教的平和の回復を目的として会議を招集し、開会式の名誉議長を務めたが、神学的議論の指導は教会指導者に委ねたとされる[SRC-02481][SRC-02482]。
- アリウス(ありうす): アレクサンドリアの長老。子は父と同一の実体ではなく造られた存在であるとする教説を唱え、会議で異端として排斥・追放された[SRC-02480][SRC-02482]。
- カエサレアのエウセビオス(かえされあの えうせびおす): カエサレア主教。会議に出席し、その記録(『コンスタンティヌスの生涯』)がソクラテスに引用されている[SRC-02481][SRC-02480]。
- アタナシオス(あたなしおす): 当時はアレクサンドリア主教アレクサンドロスに仕える助祭。出席主教数を318人と記したとされる書簡の著者に帰せられる[SRC-02482]。
歴史的意義
ブリタニカは、ニカイア公会議がキリスト教会全体を対象とすることを意図した史上初の公会議であったと位置づける[SRC-02483]。もっとも、会議の決定は論争を直ちに終わらせたわけではなく、アリウス主義の影響は会議後も教会内で持続し、381年の第1コンスタンティノープル公会議まで東ローマ帝国における正統教義でありつづけたと記録されている[SRC-02483]。本記事の射程は、325年の会議そのものと、その開会日・出席者数をめぐる史料上の相違の整理に限定し、381年以降の教義史の展開(三位一体論の確立過程等)については、本記事の主題外として扱う(本サイトの整理)。
現代の視点
会議がいつ始まったかについて、ソクラテスの召集記事は5月20日の召集を記し、Fourth-Century Christianityの要覧は会期を5月20日からとする一方、NPNF訳者注は6月14日ごろに始まったとみられると記す。この相違は、著名な歴史的出来事であっても、その開始日が史料批判の対象になり得ることを示す一例である。本サイトは、召集(5月20日)・信条提示(6月19日)という2つの文書事実と、会議の開始日についての出典間の記述の相違とを分けて提示し、いずれの日付が会議の開始日であるかを断定しない立場を取る(本サイトの整理)。
出典一覧
- [SRC-02480] The Ecclesiastical History of Socrates Scholasticus (Nicene and Post-Nicene Fathers, Second Series, Vol. 2)/Christian Classics Ethereal Library (CCEL)(ランクA)
- [SRC-02481] Eusebius, Life of Constantine (Nicene and Post-Nicene Fathers, Second Series, Vol. 1), Book III/Christian Classics Ethereal Library (CCEL)(ランクA)
- [SRC-02482] The First Council of Nicaea(The Catholic Encyclopedia, Vol. 11)/New Advent(Catholic Encyclopedia, 1911, 執筆: Henri Leclercq)(ランクB)
- [SRC-02483] First Council of Nicaea | Christianity, Arianism, Ecumenical, History, Significance, & Facts/Encyclopaedia Britannica, Inc.(ランクB)
- [SRC-02484] Council of Nicaea (AD 325)(Fourth-Century Christianity)/Fourth-Century Christianity(Wisconsin Lutheran College)(ランクA)
- [SRC-02485] Creed of the Council of Nicaea — Urkunde 24(Fourth-Century Christianity)/Fourth-Century Christianity(Wisconsin Lutheran College)(ランクA)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-10-09 | あり |
| 2 | 2026-10-09 | あり |
| 3 | 2026-10-09 | あり |
| 4 | 2026-10-09 | あり |
| 5 | 2026-10-09 | なし |
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