1775年世界 18世紀
バンカーヒルの戦いが1775年6月17日に勃発——名前の由来となった丘ではなく、隣のブリーズヒルが主戦場だった
日付と暦
- 原典表記
- 1775年6月17日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1775-06-17(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 6月17日のページ
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概要
1775年6月17日、ボストン近郊のチャールズタウン半島で、英軍とニューイングランドの民兵が衝突した[SRC-02464]。前夜、ウィリアム・プレスコット大佐・イズラエル・パトナム将軍らの指揮下で植民地側がブリーズヒルに要塞を築いたのに対し、英軍はウィリアム・ハウ将軍の指揮でチャールズ川を渡って攻撃を仕掛けた[SRC-02464]。この戦いは半島で最も標高の高いバンカーヒルにちなんで名付けられたが、国立公園局によれば、実際に要塞が築かれ激戦となったのは隣接するブリーズヒルだった[SRC-02464][SRC-02465]。英軍は2度の攻撃を撃退された末、3度目の突撃で要塞を奪取したが、死傷者1,054人は植民地側の推定450人の2倍以上に上った[SRC-02464][SRC-02469]。
本文
1760年代から1770年代初頭にかけて、英本国とマサチューセッツ植民地との間で課税をめぐる緊張が高まっていた[SRC-02464]。植民地の新総督トマス・ゲイジ将軍は民兵の武装を抑えようとしたが、各地の民兵はコンコードなどへの武器・弾薬の備蓄を続けた[SRC-02464]。1775年4月、ゲイジがコンコードへ部隊を派遣したことからレキシントン・コンコードの戦いが起こり、独立戦争の発端となった[SRC-02464]。
その後、ニューイングランド各地から推計2万人の民兵がボストン周辺に集結し、ボストンに籠る英軍を包囲した[SRC-02464]。5月末に英軍の増援が到着し、ボストン南方のドーチェスター高地と北方のチャールズタウン高地(バンカーヒルを含む)の制圧を計画していることを察知した民兵側は、1775年6月16日夜、プレスコット大佐・パトナム将軍・リチャード・グリッドリー大佐の指揮下で、バンカーヒルより南東に位置するブリーズヒルに土塁の要塞を築いた[SRC-02464]。プレスコット大佐の連隊に属したピーター・ブラウンは、戦闘8日後に母へ宛てた書簡で、チャールズタウンヒルで塹壕を掘り砦を築いたこと、夜明けに自分たちの陣地が露見し、艦船や町全体の備えに囲まれていることに気づいて「all Boston fortified against us」(ボストン全体が自分たちに向けて要塞化されていた)と感じたことを記している[SRC-02466]。
朝、要塞を発見したゲイジは部下と協議し、ハウ将軍にチャールズ川を渡っての攻撃を指示した[SRC-02464]。英艦船がチャールズタウン沖から2時間にわたり砲撃したが、潮位の関係で正午頃まで約2,400名の兵を渡河させられなかった[SRC-02464]。午後3時半頃、ハウの部隊が要塞・土塁・柵(レール・フェンス)へ向けて進撃を開始した[SRC-02464]。英海兵隊副官ジョン・ウォラーは、要塞そのものが「render'd more formidable, by the difficult Access to it」(困難なアクセスによっていっそう手強いものにされていた)と書簡に記している[SRC-02467]。前進は柵・石垣・生垣に阻まれ、越える際に死傷者を出した[SRC-02465]。
銃撃が有効射程に入ると、英軍は大きな損害を受けて2度にわたり撃退された[SRC-02464][SRC-02469]。プレスコットは一時発射中止を命じたが、英軍が再接近すると植民地側は再び一斉射撃した[SRC-02464]。この間、英軍の砲手はチャールズタウンの建物に着火弾を撃ち込み、町を炎上させた[SRC-02464]。ハウは増援を得て部隊を再編成し、今度は要塞の反対側(左翼)から攻撃をかけた[SRC-02464]。この接近の際、英軍は要塞からの激しい銃撃を受けて一時足止めされ、この地点で英軍海兵隊少佐ジョン・ピトケアンが「the irreparable loss」(取り返しのつかない損失)と書簡に記されるほどの戦死を遂げた[SRC-02467][SRC-02469]。要塞内の植民地側は疲弊し弾薬も尽きかけており、英兵が銃剣を手に塁壁を越えて突入すると、植民地側は要塞を放棄してバンカーヒルの方向へ退却した[SRC-02464]。塁壁への突入の際、ウォラーの友人キャンベル大尉らが戦死した[SRC-02467]。英軍はバンカーヒルの方向まで追撃したが、その後双方とも再攻撃は仕掛けなかった[SRC-02464]。
歴史的背景
この戦いは、1775年4月のレキシントン・コンコードの戦い以来続いていたボストン包囲戦の一局面である[SRC-02464]。民兵側が急遽要塞化したのは、英軍によるチャールズタウン高地・ドーチェスター高地の制圧計画を事前に察知したためであり、本来戦いの名の由来となったバンカーヒルではなく、より川に近いブリーズヒルを要塞の場所に選んだ理由について、本記事が参照した公式記録に明示的な説明はなく、American Battlefield Trustも「No one knows why」(誰も知らない)と留保している[SRC-02464][SRC-02469]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1775-06-15(グレゴリオ暦) | 大陸会議がジョージ・ワシントンを大陸軍総司令官に選出 | [SRC-02470][SRC-02464] |
| 1775-06-16(グレゴリオ暦)夜 | プレスコット・パトナム・グリッドリーの指揮下、植民地側がブリーズヒルに要塞を築く | [SRC-02464][SRC-02466] |
| 1775-06-17(グレゴリオ暦)夜明け〜午前9時頃 | 英軍が夜明けに要塞を発見、午前9時頃の協議でゲイジがハウに攻撃を指示 | [SRC-02464] |
| 1775-06-17(グレゴリオ暦)午後3時半頃 | ハウの部隊が進撃を開始 | [SRC-02464] |
| 1775-06-17(グレゴリオ暦) | 英軍の2度の突撃が撃退される | [SRC-02464][SRC-02469] |
| 1775-06-17(グレゴリオ暦) | 英軍が3度目の突撃で要塞を突破、植民地側が退却 | [SRC-02464][SRC-02467][SRC-02469] |
| 1775年7月初旬 | ワシントンがケンブリッジに到着し指揮を開始 | [SRC-02464][SRC-02468] |
| 1776-03-17(グレゴリオ暦) | 英軍がボストンから撤退 | [SRC-02464] |
異説・論争定説のない論点があります
戦いの名称と実際の戦場について: この戦いはチャールズタウン半島で最も標高の高いバンカーヒルにちなんで名付けられているが、国立公園局は、実際に植民地側が要塞を築き激戦となったのはチャールズ川に近い隣接のブリーズヒルだったと明記している[SRC-02464]。国立公園局の別の解説記事も、英海兵隊副官ウォラーの書簡を引用しつつ、要塞がブリーズヒルにあったことを裏付けている[SRC-02465]。American Battlefield Trustは、プレスコット大佐への命令は本来バンカーヒルを要塞化することだったが実際にはブリーズヒルが選ばれたこと、さらに英軍のペイジ中尉が作成した戦場図が両丘の名を取り違えていたことも、呼称の混乱を深めた要因として挙げている[SRC-02469]。
死傷者数と戦いの評価について: 国立公園局とAmerican Battlefield Trustはいずれも、英軍側の死傷者を1,054人、植民地側の死傷者を推定450人と記す(出典間で一致する数値)[SRC-02464][SRC-02469]。他方、この結果をどう評価するかは記録によって重みが異なる。英軍側のヘンリー・クリントン将軍は、この戦いを「a dear bought victory」(高価な代償を払った勝利)と評したと伝えられる[SRC-02469]。国立公園局は、英軍が要塞を奪取したことには触れつつ、この戦いの報が13植民地の結束を促したと記す[SRC-02464]。マウントバーノン(ワシントンの邸宅を運営する史跡保存団体)は、この戦いを植民地側にとっての「early defeat」(早期の敗北)と位置づける[SRC-02468]。本記事はこれらいずれの評価にも立たず、記録を並記する。なお、ピーター・ブラウンが記した「37名戦死・4〜5名捕虜・約47名負傷」という数値は、彼の属したプレスコット連隊のみの被害であり、戦闘全体の死傷者数ではない[SRC-02466]。
「敵の目の白いところが見えるまで撃つな」という逸話について: American Battlefield Trustは、プレスコットが接近する英軍に「don't fire until you see the whites of their eyes」(敵の目の白いところが見えるまで撃つな)と命じたという逸話を、「Legend has it」(言い伝えによれば)という留保を明示したうえで紹介している[SRC-02469]。本記事が参照した国立公園局の記録、および戦闘直後に書かれたピーター・ブラウン・ジョン・ウォラーそれぞれの同時代書簡には、この発言は見当たらない[SRC-02464][SRC-02466][SRC-02467]。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 戦いの名称と実際の戦場 | バンカーヒルにちなんで名付けられたが、要塞と激戦地は隣接するブリーズヒルだった | [SRC-02464][SRC-02465][SRC-02469] | 国立公園局が公式に明記する整理であり、本記事もこれに従う |
| 戦闘後の評価の重み | 英軍側クリントン将軍の「高価な代償を払った勝利」という評と、国立公園局・マウントバーノンそれぞれが記す「結束の促進」/「早期の敗北」という評価が記録に残る | [SRC-02464][SRC-02468][SRC-02469] | 死傷者の総数自体は出典間で一致するが、結果の意味づけは記録によって異なる。本記事はいずれにも立たない |
| 「目の白いところが見えるまで撃つな」の逸話 | プレスコットの命令として「言い伝え」の形で伝わるが、本記事が参照した記録・同時代書簡には見当たらない | 言い伝え=[SRC-02469]、不在=[SRC-02464][SRC-02466][SRC-02467] | American Battlefield Trust自身が「Legend has it」と留保しており、史実として確定した発言ではない |
関連する出来事
- この戦いの発端となったレキシントン・コンコードの戦い(1775年4月19日)は、英軍によるコンコードへの部隊派遣から始まった、独立戦争最初の武力衝突である(本記事の主題の前段に位置する出来事)[SRC-02464]。
- 大陸会議は1775年6月15日、大陸軍総司令官にジョージ・ワシントンを任命した。これはバンカーヒルの戦い(6月17日)より前の出来事である[SRC-02470][SRC-02464]。ワシントンは7月初旬にケンブリッジへ到着して指揮を開始しており、これは戦いより後の出来事であり、ワシントン自身はこの戦いの指揮官ではない[SRC-02464][SRC-02468]。
- ボストン包囲戦は、この戦いの後も継続し、1776年3月、ワシントン率いる大陸軍の圧力により英軍がボストンから撤退した[SRC-02464]。
関連人物
- ウィリアム・プレスコット(うぃりあむ・ぷれすこっと) — 植民地側の大佐。パトナム・グリッドリーとともにブリーズヒルの要塞構築を指揮し、戦闘中は発射中止・再斉射の指揮を執った[SRC-02464]。
- イズラエル・パトナム(いずらえる・ぱとなむ) — 植民地側の将軍。プレスコット・グリッドリーとともに要塞構築を指揮した[SRC-02464]。
- ウィリアム・ハウ(うぃりあむ・はう) — 英軍の将軍。ゲイジの指示を受け、チャールズ川を渡っての攻撃部隊を指揮し、3度目の突撃で要塞を突破した[SRC-02464][SRC-02469]。
- ジョン・ウォラー(じょん・うぉらー) — 英海兵隊第1大隊付副官。戦闘4日後の書簡で、上陸から要塞突破までの経過とピトケアン少佐の戦死を記録した[SRC-02467]。
- ピーター・ブラウン(ぴーたー・ぶらうん) — プレスコット連隊所属の植民地兵。戦闘8日後の書簡で、要塞構築から退却までの体験と自身の連隊の死傷者数を記録した[SRC-02466]。
- ジョン・ピトケアン(じょん・ぴとけあん) — 英軍海兵隊少佐。最終突撃で要塞に突入する前、要塞からの銃撃で足止めされた地点で戦死した[SRC-02467][SRC-02469]。
- ヘンリー・クリントン(へんりー・くりんとん) — 英軍の将軍。この戦いを「高価な代償を払った勝利」と評したと伝えられる[SRC-02469]。
歴史的意義
バンカーヒルの戦いは、英軍が戦術的に要塞を奪取した一方で、死傷者1,054人という大きな代償を払った戦闘として記録されている[SRC-02464][SRC-02469]。国立公園局は、この戦いの報が13植民地の結束を促したと記している[SRC-02464]。また、戦いの名称がバンカーヒルに由来する一方、実際の激戦地が隣接するブリーズヒルだったという事実は、戦場の呼称と実際の地理的位置が必ずしも一致しない事例として、今日でも解説記事の主題になっている[SRC-02464][SRC-02465]。
現代の視点
プレスコットが「敵の目の白いところが見えるまで撃つな」と命じたという逸話は、American Battlefield Trust自身が「言い伝え(legend)」と位置づけるとおり、史実として確定した発言ではない[SRC-02469]。本記事が参照した公式記録・同時代書簡のいずれにもこの発言は見当たらず、事実(戦闘の経過・死傷者数)と、後世に広まった逸話とを区別して読むことが必要である。
出典一覧
- [SRC-02464] The Battle of Bunker Hill/National Park Service(ランクS)
- [SRC-02465] Fields of Deception: The Bunker Hill Battlefield/Boston National Historical Park (U.S. National Park Service)(ランクA)
- [SRC-02466] Letter from Peter Brown to Sarah Brown, 25 June 1775/Massachusetts Historical Society(ランクS)
- [SRC-02467] Letter from J. Waller to unidentified recipient, 21 June 1775/Massachusetts Historical Society(ランクS)
- [SRC-02468] Siege of Boston/George Washington's Mount Vernon(ランクA)
- [SRC-02469] Bunker Hill/American Battlefield Trust(ランクB)
- [SRC-02470] Journals of the Continental Congress, 1774-1789, Volume II (May 10 - September 20, 1775)/United States Government Printing Office(編者: Worthington Chauncey Ford, Chief, Division of Manuscripts, Library of Congress)(ランクS)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-10-09 | — |
| 2 | 2026-10-09 | あり |
| 3 | 2026-10-09 | あり |
| 4 | 2026-10-09 | あり |
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