1775年世界 18世紀

レキシントン・コンコードの戦いが1775年4月19日に勃発——最初に発砲したのは英軍か民兵か、今も特定されていない

日付と暦

原典表記
1775年4月19日(グレゴリオ暦)
換算
1775-04-19(グレゴリオ暦)
掲載日
4月19日のページ

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概要

1775年4月19日、マサチューセッツ植民地のレキシントンとコンコードで、英軍とマサチューセッツの植民地民兵が衝突し、アメリカ独立戦争最初の武力衝突となった[SRC-01965]。英軍はマサチューセッツ総督トマス・ゲイジ将軍の命令により、コンコードに集積された軍需物資の接収・破壊を目的に出兵した[SRC-01965]。レキシントン・グリーンでの最初の交戦では、双方がにらみ合う混乱の中で発砲が起き、国立公園局(NPS)はこの最初の発砲者を「unknown source」(不明)と記している[SRC-01965]。この戦いは後年、詩人ラルフ・ウォルド・エマソンによって「世界に響いた銃声(the shot heard round the world)」と詠まれたことでも知られる[SRC-01969]。また、この日の前夜に行われたポール・リビアの警告の騎行は、後世ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの詩によって単独行動として広く知られるようになったが、史実ではリビアは単独ではなく、ウィリアム・ドーズ、後にサミュエル・プレスコットとともに複数人で警告に当たっていた[SRC-01965][SRC-01966][SRC-01967]。

本文

1774年から1775年にかけて、マサチューセッツ植民地ではイギリス本国との緊張が高まっていた。マサチューセッツ統治法の実施を委ねられたゲイジ総督は、植民地の選挙で選ばれた議会(グレート・アンド・ジェネラル・コート)を解散させた。10月にはパトリオット(愛国派)指導者たちがマサチューセッツ植民地議会を招集し、民兵組織の統制や武器・弾薬の備蓄を進めていた[SRC-01965]。ボストンに孤立していたゲイジ総督は、本国からの助言を受け、1775年4月18日夜、フランシス・スミス中佐に対し、ボストンの北西18マイルにあるコンコードへ約700名の兵を率いて向かい、同地に集積された軍需物資を接収・破壊するよう命じた。命令書は「住民を略奪したり、私有財産を傷つけたりしないよう注意すること」と明記しており、政治指導者の逮捕には言及していなかった[SRC-01965]。

英軍の動きを察知したジョセフ・ウォレン医師は、ポール・リビアとウィリアム・ドーズの2名を、それぞれ別ルートでレキシントンへ派遣した[SRC-01965][SRC-01966]。リビアは事前の取り決めどおりオールドノース教会の尖塔に信号灯を掲げるよう手配したうえでチャールズ川を舟で渡り、対岸で馬を借り、レキシントンへ向かった[SRC-01966][SRC-01967]。レキシントンでハンコック・アダムズの警護に当たっていたマンロー軍曹から静かにするよう求められたリビアは、「You'll have noise enough before long! The Regulars are coming!」(じきに嫌というほど騒がしくなる。英軍が出動するぞ)と応じたと記録されている[SRC-01965]。Paul Revere Houseも同様に、リビアの発した言葉を「“Noise!” cried Revere, “You’ll have noise enough before long. The regulars are coming out!”」と記しており[SRC-01967]、後世広く知られる「The British are coming」(英国人が来るぞ)という言い回しは、本記事が参照した両出典には、当時のリビア自身の言葉として見当たらない。12:30amごろレキシントンでドーズと合流したリビアは、共にコンコードへ向かう途中でサミュエル・プレスコット医師とも合流し、3人で沿道の住民に警告を伝えた[SRC-01965][SRC-01966][SRC-01967]。その後、3人は英軍のパトロール隊に阻止され、プレスコットとドーズは逃走に成功し、うちプレスコットが単独でコンコードへ警告を伝えた。リビアは拘束され尋問を受けた末、馬を没収された上で解放され、徒歩でレキシントンへ戻った[SRC-01965][SRC-01967]。

19日未明、レキシントンでは民兵指揮官ジョン・パーカー大尉が仲間を集め、町の共有地であるレキシントン・グリーンに整列させた[SRC-01965]。英軍先遣隊がレキシントンに接近する中、英軍サザーランド中尉は道端の人物が自分に向けて銃を構える動作(火皿に着火したが不発)をしたのを見て周囲に注意を促し、その旨がただちにピトケアン少佐へ伝えられた、と後の書簡に記している[SRC-01965]。午前5時ごろ、英軍先遣隊がレキシントン・グリーンに整列するパーカー大尉配下の民兵77名と対峙した。国立公園局によれば、複数の英軍騎馬士官が民兵の解散を求めて接近し、サザーランド中尉の記録によれば馬を乗り入れる混乱の中、「a gunshot rang out from an unknown source」(出所不明の銃声が1発鳴った)状態となり、直後に英軍が民兵へ向けて一斉射撃した[SRC-01965]。戦闘は3分足らずで終わったが、民兵8名が死亡、10名が負傷した[SRC-01965]。パーカー大尉は同年4月25日付の宣誓供述書で、自分は民兵に解散し発砲しないよう命じていたが、英軍は突然接近して猛然と発砲し、「without receiving any provocation therefore from us」(我々の側から何の挑発も受けることなく)8名を殺害したと証言した[SRC-01965]。この最初の一発を英軍・民兵のどちらが放ったのかは、国立公園局自身も特定しておらず、本記事もこの点を断定しない。

英軍はその後コンコードへ進み、午前9時半ごろ、北橋を守っていた英軍3個中隊(約96名)へ約400名の民兵が接近した[SRC-01965]。混乱した命令の中、英軍側がまず3発を川へ撃ち込んだが(いずれも川面に落ちた)、その後命令のないまま民兵へ向けて発砲し、フィフ奏者ルーサー・ブランチャードが負傷、アボナー・ホズマーとアイザック・デイビス大尉が死亡した[SRC-01965]。これを受けてジョン・バトリック少佐が「Fire, for god’s sake fire!」(撃て、頼むから撃て)と命じ、民兵が応射して英兵3名が死亡または致命傷を負い、9名が負傷した[SRC-01965]。北橋での戦闘は、英軍が先に、しかも命令のないまま発砲したことが記録されている[SRC-01965]。本記事の整理では、この経緯はレキシントンの場合よりも明確である。

正午ごろ、英軍はコンコードからの撤退を開始した。撤退路の各所(メリアムズ・コーナー、エルム・ブルック・ヒル、パーカーズ・リベンジ、ブラディ・ブラフ、フィスク・ヒル)で、周辺の町から集まった民兵が繰り返し攻撃し、レキシントンでは英軍増援部隊(ヒュー・アール・パーシー准将指揮)と合流した英軍が、メノトミーやケンブリッジを経て、午後7時半ごろチャールズタウン・ネック経由でチャールズタウンの高地(安全圏)に達した[SRC-01965]。負傷者らは夜を徹して船でボストンへ移送され、残りの部隊も翌4月20日午後4時までにボストンへ戻った[SRC-01965]。戦闘は総延長16マイルに及び、英軍は死者73名・負傷者174名・行方不明26名の計273名、植民地側は死者49名・負傷者41名・行方不明5名の計95名の死傷者を出した[SRC-01965]。

歴史的背景

英軍がコンコードへ向かった直接の目的は、パトリオット側が集積していた武器・弾薬・大砲等の軍需物資の接収・破壊だった[SRC-01965]。Paul Revere Houseによれば、ウォレン医師はリビアに、英軍がハンコック・アダムズの逮捕も計画していると伝えたが、実際のゲイジの命令書にそうした逮捕の指示は含まれておらず、この点についてのウォレンの情報は不正確だった[SRC-01967]。パトリオット側は、こうした英軍の動きに備え、複数のルートで警告を伝達する体制(教会尖塔への信号灯、複数の騎行者の派遣)をあらかじめ整えていた[SRC-01965][SRC-01966]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1775-04-18(グレゴリオ暦)22:00頃 英軍の擲弾兵・軽歩兵がボストン・コモンに集結し出兵準備 [SRC-01965]
1775-04-18(グレゴリオ暦)夜 ゲイジ将軍、スミス中佐にコンコードの軍需物資接収・破壊を命令 [SRC-01965]
1775-04-18(グレゴリオ暦)22:30頃 リビアがチャールズ川を渡りチャールズタウンへ上陸、馬を借りて出発 [SRC-01965][SRC-01966]
1775-04-19(グレゴリオ暦)0:30頃 リビアとドーズがレキシントンで合流し、ハンコック・アダムズに警告 [SRC-01965]
1775-04-19(グレゴリオ暦)1:00頃 リビアが英軍パトロールに拘束される(プレスコット・ドーズは逃走に成功) [SRC-01965]
1775-04-19(グレゴリオ暦)2:30頃 リビア、馬を没収された上で解放され徒歩でレキシントンへ [SRC-01965]
1775-04-19(グレゴリオ暦)5:00頃 レキシントン・グリーンで英軍と民兵が対峙、発砲が起き民兵8名死亡 [SRC-01965]
1775-04-19(グレゴリオ暦)9:30頃 コンコード北橋で戦闘、英軍3名・民兵2名が死亡 [SRC-01965]
1775-04-19(グレゴリオ暦)12:00頃 英軍がコンコードからボストンへ向け撤退を開始 [SRC-01965]
1775-04-19(グレゴリオ暦)19:30頃 英軍、チャールズタウン・ネック経由でチャールズタウンの高地(安全圏)に到達 [SRC-01965]
異説・論争定説のない論点があります

最初の発砲者について: レキシントン・グリーンでの最初の一発を英軍・民兵のどちらが放ったのかは、当事者の証言が対立しており、国立公園局も特定していない。植民地側の指揮官ジョン・パーカー大尉は1775年4月25日の宣誓供述書で、民兵は解散し発砲しないよう命じられていたにもかかわらず、英軍が挑発なく発砲したと証言した[SRC-01965]。一方、英軍サザーランド中尉は、レキシントンへの接近中に道端の人物が銃を構える動作をしたのを見て周囲に注意を促し、その旨がただちにピトケアン少佐へ伝えられたと記しており、少なくとも英軍側にはその時点で警戒を要する動きと映る出来事があったことをうかがわせる[SRC-01965]。国立公園局自身は、当時の複数の証言を踏まえた上で「a gunshot rang out from an unknown source」(出所不明の銃声が鳴った)と記し、発砲者を特定していない[SRC-01965]。本記事もこの点を断定せず、双方の証言を併記するにとどめる。なお、コンコード北橋での戦闘については、英軍がまず3発を川へ撃ち込んだ後、命令のないまま民兵へ発砲したことが記録されている[SRC-01965]。本記事の整理では、この経緯はレキシントンの場合よりも明確である。

ポール・リビアの騎行をめぐる通俗的なイメージについて: ロングフェローの詩『ポール・リビアの騎行』は、リビアを終始単独の主人公として描き、ウィリアム・ドーズやサミュエル・プレスコットには一切言及しない[SRC-01968][SRC-01970]。この詩は広く読まれ、「リビアが単独で騎行し、ボストンから沿道の町々へ警告を伝えた」という通俗的なイメージの形成に寄与したが、国立公園局・マサチューセッツ歴史協会・Paul Revere Houseのいずれの記録も、リビアはドーズ、後にプレスコットと合流した複数人での警告活動の一員だったと記しており、この点で詩と史実は異なる[SRC-01965][SRC-01966][SRC-01967]。同様に、リビアが実際に発した警告の言葉についても、国立公園局は「The Regulars are coming!」、Paul Revere Houseは「The regulars are coming out!」と、いずれも英軍出動を告げる趣旨の発言として記録しており、後世広く知られる「The British are coming」という言い回しは、当時のリビア自身の言葉としては両出典に見当たらない[SRC-01965][SRC-01967]。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
レキシントン・グリーンの最初の発砲者 特定不能(英軍・民兵双方の証言が対立) 民兵側証言=[SRC-01965](パーカー供述書引用)、英軍側証言=[SRC-01965](サザーランド書簡引用) 国立公園局自身が「出所不明」と記す。本記事もこれに従い断定しない
リビアの騎行の描かれ方 詩(ロングフェロー)では単独行動、史実ではドーズ・プレスコットとの複数人行動 詩=[SRC-01968][SRC-01970]、史実=[SRC-01965][SRC-01966][SRC-01967] 国立公園局・マサチューセッツ歴史協会・Paul Revere Houseの3つの解説が一致するが、いずれもリビア本人の複数の証言に遡る。詩による単独行動のイメージが通俗的に広まっている点が異なる

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

レキシントン・コンコードの戦いは、アメリカ独立戦争最初の武力衝突として位置づけられている[SRC-01965]。この戦いをめぐっては、最初の発砲者について国立公園局の現行の解説も特定していないという点、そしてポール・リビアの騎行という広く知られたエピソードが、実際には後世の詩による脚色を経て通俗化したものであるという点の両方が、史実の記録の残り方として注目に値する。とりわけPaul Revere Houseは、寄付($10)の特典として頒布する解説PDF文書を、詩の内容を「史実と虚構を分ける(helps separate fact from fiction)」ための資料の一つと位置づけており[SRC-01968]、国立公園局・マサチューセッツ歴史協会の解説も、当事者の証言・書簡に基づく記述で経緯を裏付けている[SRC-01965][SRC-01966]。本記事もこれに倣い、英軍・植民地側いずれの立場にも偏らない形で経緯を記した。

現代の視点

「世界に響いた銃声」という表現は、事件そのものの言葉ではなく、後年エマソンが詩『コンコード讃歌』で詠んだことに由来するとみられる後世の呼び名である[SRC-01969]。同様に、「The British are coming」というポール・リビアの台詞として広く知られる言い回しも、本記事が参照した両出典には見当たらない[SRC-01965][SRC-01967]。歴史的な出来事が、後世の文学作品によってどのように語り直され、広く知られる物語として定着していくかを示す事例として、この戦いは今日も参照される。

出典一覧

  1. [SRC-01965] April 19, 1775/Minute Man National Historical Park (U.S. National Park Service)(ランクS)
  2. [SRC-01966] Letter from Paul Revere to Jeremy Belknap, circa 1798/Massachusetts Historical Society(ランクS)
  3. [SRC-01967] The Real Story of Paul Revere's Ride/Paul Revere Memorial Association (Paul Revere House)(ランクA)
  4. [SRC-01968] Longfellow's Poem/Paul Revere Memorial Association (Paul Revere House)(ランクA)
  5. [SRC-01969] Concord Hymn/Academy of American Poets (poets.org)(ランクB)
  6. [SRC-01970] Paul Revere's Ride/Academy of American Poets (poets.org)(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-29あり
22026-09-29あり
32026-09-29あり

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