1430年世界 15世紀
1430年5月23日、ジャンヌ・ダルクはコンピエーニュ郊外でブルゴーニュ軍の捕虜となった——退却する部隊の最後尾を守っていた末に馬から引き落とされ、再び戦場に立つことはなかった
日付と暦
- 原典表記
- 1430年5月23日(ユリウス暦)
- 換算
- 1430-05-23(ユリウス暦)
- 掲載日
- 5月23日のページ
暦の注記: この出来事はユリウス暦の1430年5月23日に起きた(ユリウス暦のまま換算: 1430-05-23)[SRC-02250][SRC-02251]。この日付は、捕縛の当日にブルゴーニュ公自身が発信した書簡が「本日5月23日」の出来事として記録していることでも確認できる[SRC-02253]。グレゴリオ暦の導入は1582年10月であり、この日付はそれより152年前にあたるため、換算先の暦種別もユリウス暦のままとなる(機械決定)。当時のフランスの一部地域には年始を復活祭(移動祝日)とする慣行があったが、本記事の対象日(5月23日)はユリウス暦における復活祭の可動範囲(3月22日〜4月25日)よりも後にあたるため、年始慣行の違いによって年表記が分かれることはない(本サイトの整理)。本サイトでは 05-23 のページに掲載している。換算は独自に行っておらず、原典の日付をそのまま転記したものである[SRC-02250][SRC-02251]。
この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る
概要
1430年5月23日(ユリウス暦)午後、フランス北部の町コンピエーニュを包囲していたブルゴーニュ軍に対し、ジャンヌ・ダルクは出撃を率いて二度これを撃退した[SRC-02250]。しかし、イギリス軍の増援が到着したことで戦況は一変し、フランス軍は退却を余儀なくされた[SRC-02250][SRC-02251]。ジャンヌは退却する部隊の最後尾を守って最後まで踏みとどまったが、馬から引き落とされて乗り直すことができず、自ら投降してブルゴーニュ側の捕虜となった[SRC-02250][SRC-02252]。前年、1429年5月8日にオルレアン包囲が解かれた後[SRC-02126]、この日を境に、ジャンヌが戦場に立つことは二度となかった[SRC-02250][SRC-02251]。
本文
ジャンヌは、この町を自ら救おうとして、1430年5月23日、300ないし400人の兵とともにコンピエーニュへ入った[SRC-02251]。別の出典は、ジャンヌがコンピエーニュへ戻る途上でブルゴーニュ軍の一隊を率いるジャン・ド・リュクサンブールが同市を包囲したことを知り、夜陰のうちに入城したと記す[SRC-02250]。
その日の午後(出典により「同日夜」ともされる)、ジャンヌは兵を率いてコンピエーニュから出撃し、マルニー付近にあったブルゴーニュ軍の陣地を攻撃した[SRC-02250][SRC-02251][SRC-02252]。モンストルレ年代記の1810年英訳は、この出撃がジャン・ド・リュクサンブール自身が居合わせた陣地付近で行われたことを記す[SRC-02252]。しかし、ヴネットの草地に野営していたイギリス軍およびジャン・ド・リュクサンブール麾下の増援が駆けつけたことで、フランス軍は数の上で圧倒され、コンピエーニュへ向けて退却を始めた[SRC-02250][SRC-02251][SRC-02252]。
退却の間、ジャンヌは部隊の最後尾を守り、できるだけ損害なく兵を引き戻そうとして最後まで踏みとどまった[SRC-02250][SRC-02252]。だが、増援を得て勢いを増したブルゴーニュ軍はこれを追撃し、平地で突撃をかけた[SRC-02252]。ジャンヌは馬から引き落とされ、再び乗ることができなかった[SRC-02250]。モンストルレ年代記の1810年英訳は、彼女を馬から引き落とした「一人の弓兵」の近くにいた人物を「バタール・ド・ヴァンドーム」と記し、ジャンヌはその人物に投降して忠誠を誓ったとする[SRC-02252]。一方、別の事典は、彼女を捕らえた弓兵自身を「ピカルディ出身で、ブルゴーニュ側騎士『バタール・ド・ワンドンヌ』に仕える者」と記しており、人物の呼称が出典間で異なる(下記「異説・論争」参照)[SRC-02251]。ジャンヌは直ちにマルニーへ連行され、厳重な監視下に置かれた[SRC-02250][SRC-02251][SRC-02252]。
フランス軍は、とりわけジャンヌの捕縛を嘆きながらコンピエーニュへ戻った。一方、イギリス軍はこれまで最も恐れていた指揮官を捕らえたとして喜んだと、同時代の年代記は記す[SRC-02252]。ブルゴーニュ公自身がコンピエーニュ前の草地に軍を整列させてこれを祝い、その後ジャンヌが監禁されている宿舎を訪れて言葉をかけたと、この場に同席していた年代記の著者は記録している[SRC-02252]。
歴史的背景
ジャンヌ・ダルクは、前年1429年4月から5月にかけて、オルレアン包囲解除の戦いに加わった人物である[SRC-02126]。1430年4月、ジャンヌは忠実な守備隊への支援として、ムラン・ラニー・サンリスでの奇襲に加わったが、ソワソンの降伏を阻むことはできなかった[SRC-02251]。コンピエーニュの守備隊長ギヨーム・ド・フラヴィは、1429年8月28日の休戦にもかかわらず、同市をブルゴーニュ公へ引き渡すことを拒んでいた[SRC-02251]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1429年8月28日(ユリウス暦) | 休戦が成立する(本記事の前提事実) | [SRC-02251] |
| 1430年4月(ユリウス暦) | ジャンヌ、ムラン・ラニー・サンリスでの奇襲に加わるが、ソワソンの降伏は阻めない | [SRC-02251] |
| 1430年5月23日(ユリウス暦) | ジャンヌ、兵とともにコンピエーニュへ入り、ブルゴーニュ軍への出撃を率いるが、イギリス軍増援により退却を余儀なくされ、馬から引き落とされて捕虜となる(本記事の主題) | [SRC-02250][SRC-02251][SRC-02252] |
| 1430年5月25日(ユリウス暦) | ジャンヌ捕縛の報がパリへ達する | [SRC-02250] |
| 1430年5月26日(ユリウス暦) | パリ大学神学部、ジャンヌの身柄引き渡しをブルゴーニュ公に要求する | [SRC-02250][SRC-02251] |
| 1431年1月3日まで(ユリウス暦) | ジャンヌの身柄が、ボーヴェ司教ピエール・コーションの手に引き渡される | [SRC-02250] |
異説・論争定説のない論点があります
捕縛者の呼称: ジャンヌを馬から引き落とした人物の呼称は、出典間で異なる。モンストルレ年代記の1810年英訳は「一人の弓兵」が彼女を引き落とし、その近くにいた「バタール・ド・ヴァンドーム(the bastard de Vendôme)」に彼女が投降したと記す[SRC-02252]。一方、Larousse百科事典は、彼女を直接捕らえた弓兵自身を「ピカルディ出身で、ブルゴーニュ側騎士『バタール・ド・ワンドンヌ(le bâtard de Wandonne)』に仕える者」と記す[SRC-02251]。両者が同一人物を指しているのかどうか、本サイトの登録出典からは判別できない。本サイトはいずれの表記が正しいかを独自に判定せず、両方の表記を出典名とともに併記する。
捕縛場所の地名表記: ジャンヌが連行された地点の表記も出典間で異なる。Britannicaは「マルニー(Margny)」と記す[SRC-02250]のに対し、モンストルレ年代記の英訳は「マリニー(Marigny)」と記す[SRC-02252]。本サイトは両方の表記を併記し、いずれかを本サイト自身の判断で採用していない。
出撃・捕縛の時刻と入城の経緯: Britannicaは、ジャンヌがコンピエーニュへ戻る途上でブルゴーニュ軍の包囲を知り、夜陰のうちに入城し、「翌日の午後(the next afternoon)」に出撃したと記す[SRC-02250]。これに対しLarousse百科事典は、ジャンヌが5月23日に300〜400人とともに入城し、「その日の夜(le soir même)」に出撃し、午後6時頃に捕らえられたと記す[SRC-02251]。同時代のブルゴーニュ側年代記(モンストルレ)は、出撃の時刻を「昇天祭の前日の午後5時頃」と記す[SRC-02252]。本サイトの調査範囲では、入城と出撃が同一日か前日かという点、および出撃・捕縛の時刻(午後か夕刻か)について、出典間で記述に細かな相違がある。モンストルレの「昇天祭の前日」という表現は移動祝日である昇天祭を基準とした相対的な言い回しであり、本サイトはこれを独自に換算して5月23日と等しいかどうかを判定しておらず、両者の表現を単純に並記するにとどめる。なお、捕縛の当日にブルゴーニュ公自身が発信した書簡は、出撃を「本日5月23日、午後6時ごろ」の出来事として記録している[SRC-02253]。
身柄引き渡しの対価: イギリス側がジャン・ド・リュクサンブールにジャンヌの身柄引き渡しを求めた際の対価も、出典間で表記が異なる。Britannicaは「1万フラン(10,000 francs)」とし、ボーヴェ司教ピエール・コーションが自身とイギリス国王の名においてこの対価と引き渡しをブルゴーニュ公に求めたと記すが、支払いの主体は明記していない[SRC-02250]。一方、Larousse百科事典は「1万エキュ(10 000 écus)」とし、イギリスのベッドフォード公がジャン・ド・リュクサンブールへ支払ったと記す[SRC-02251]。対価の通貨単位・支払いの主体のいずれも出典間で一致しないため、本サイトはいずれか一方を本文の断定的な記述には用いず、両方を出典名とともに併記する。
確認された異説(学界的な位置づけの明示): なし(調査範囲: 本記事の登録出典5件〔Britannica2頁分・Larousse百科事典・モンストルレ年代記・ブルゴーニュ公書簡〕)。 捕縛という出来事そのものの発生および大筋の経緯について、学説上の対立は確認されなかった(出撃・捕縛の時刻の細部については上記のとおり、出典間で表現に相違がある)。
関連する出来事
この捕縛の前年、1429年5月8日にはオルレアンの包囲が解かれていた[SRC-02126]。本記事が主題とする捕縛の後、ジャンヌは複数の城を転々としながら監視下に置かれ、1431年1月3日までにイギリス側の司教の手に引き渡された[SRC-02250]。裁判はルーアンで行われることとなり[SRC-02250]、ジャンヌは1431年5月30日、同地で処刑された[SRC-02126]。
関連人物
- ジャンヌ・ダルク(じゃんぬ・だるく): フランスの軍事指導者。前年のオルレアン包囲解除の戦いに加わった後、1430年5月23日、コンピエーニュ救援の出撃において退却する部隊の最後尾を守り、馬から引き落とされて捕虜となった[SRC-02250][SRC-02251][SRC-02252]。
- ジャン・ド・リュクサンブール(じゃん・ど・りゅくさんぶーる): ブルゴーニュ公側の貴族・軍人。コンピエーニュ包囲戦を指揮し、捕らえられたジャンヌの身柄を確保して監視下に置いた[SRC-02250][SRC-02251][SRC-02252]。
歴史的意義
この捕縛は、ジャンヌ・ダルクの軍事指導者としての活動に終止符を打つ出来事となった。Larousse百科事典は、この「最後の犠牲」によってコンピエーニュは救われ、ブルゴーニュ公が同年10月25日に同市の包囲を解くことになったと評する——これは本サイト自身の評価ではなく、出典自身による評価である[SRC-02251]。他方、ジャンヌの捕縛は、イギリス側が彼女を異端として裁く道を開くことにもなり、翌1431年のルーアンでの裁判、そして処刑へとつながった[SRC-02250][SRC-02251]。
現代の視点
本サイトの登録出典の調査範囲では、この捕縛そのものに対する現代の記念行事等を直接裏付ける非Wikipedia出典は確保できなかった(調査の限界として記録する)。確認できる範囲で言えるのは、オルレアン解放の翌年にあたるこの日を境に、ジャンヌが再び戦場に立つことはなく、以後の生涯は捕虜として、そして被告として過ごされたという事実である[SRC-02250][SRC-02251]。
出典一覧
- [SRC-02126] Joan of Arc | Biography, Painting, Death, Accomplishments, Trial, & Facts/Encyclopædia Britannica, Inc.(ランクB)
- [SRC-02250] St. Joan of Arc - French Heroine, Martyr, Trial | Capture, trial, and execution/Encyclopædia Britannica, Inc.(ランクB)
- [SRC-02251] Jeanne d'Arc, dite la Pucelle d'Orléans/Éditions Larousse(ランクB)
- [SRC-02252] The Chronicles of Enguerrand de Monstrelet, Vol. 6 (of 13) — Chap. LXXXVII. The Maid Is Taken Prisoner by the Burgundians Before Compiègne./Enguerrand de Monstrelet(15世紀ブルゴーニュ側同時代年代記作者)著/Thomas Johnes訳(1810年刊 The Chronicles of Enguerrand de Monstrelet 英訳版)/電子化: Project Gutenberg #64948(ランクB)
- [SRC-02253] Lettre du duc de Bourgogne aux habitants de Saint-Quentin sur la prise de la Pucelle (23 mai 1430), in: J. Quicherat (éd.), Procès de condamnation et de réhabilitation de Jeanne d'Arc, dite la Pucelle, tome V/原本: ブルゴーニュ公フィリップ善良公の尚書局(サン=カンタン文書館蔵の紙原本)。収載版: Jules Quicherat(éd.), Procès de condamnation et de réhabilitation de Jeanne d'Arc, dite la Pucelle, tome V(Société de l'Histoire de France、Jules Renouard刊、1849年)。Internet Archive(アップロード元: University of Toronto Robarts Library)がOCRテキスト付きで公開。(ランクA)(複数の資料を収載)
本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。
訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-10-07 | — |
| 2 | 2026-10-07 | 不明 |
| 3 | 2026-10-07 | 不明 |
| 4 | 2026-10-07 | なし |
訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。