1429年世界 15世紀
1429年5月8日、オルレアンを包囲していたイギリス軍が撤退した——「オルレアンの解放」と呼ばれる、ジャンヌ・ダルクが加わった軍事行動の結末
日付と暦
- 原典表記
- 1429年5月8日(ユリウス暦)
- 換算
- 1429-05-08(ユリウス暦)
- 掲載日
- 5月8日のページ
暦の注記: この出来事はユリウス暦の1429年5月8日に起きた(ユリウス暦のまま換算: 1429-05-08)[SRC-02126][SRC-02129]。グレゴリオ暦の導入は1582年10月であり、この日付はそれより153年前にあたるため、換算先の暦種別もユリウス暦のままとなる(機械決定)。当時のフランスの一部地域には年始を復活祭(移動祝日)とする慣行があったが、本記事の対象日(5月8日)はユリウス暦における復活祭の可動範囲(3月22日〜4月25日)よりも後にあたるため、年始慣行の違いによって年表記が分かれることはない(本サイトの整理)。実際、典拠とした同時代ないし近接時代の史料も、1429年の昇天祭(復活祭の39日後)を、本記事対象日より前の5月5日と記録している[SRC-02129]。本サイトでは 05-08 のページに掲載している。換算は独自に行っておらず、原典の日付をそのまま転記したものである[SRC-02126][SRC-02129]。
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概要
1429年5月8日(ユリウス暦・日曜日)、フランス中部の都市オルレアンを包囲していたイギリス軍が、残る要塞から撤退して野戦の陣形を敷いたことが確認された[SRC-02126][SRC-02129]。これは、前日の5月7日にイギリス軍の中心的な拠点であったレ・トゥレル要塞が陥落した直後の出来事であり、1428年10月12日から続いていたオルレアンへの包囲は、これをもって終わりを迎えた[SRC-02126][SRC-02129]。フランス軍にはドンレミ出身の娘ジャンヌ・ダルクが加わっており、彼女は同年4月29日の入城以降、5月4日・6日・7日の戦闘に加わっていた[SRC-02126]。5月8日、オルレアン市民はイギリス軍を追撃しようとしたが、ジャンヌはこれを許さなかった[SRC-02126][SRC-02129]。この一連の出来事は「オルレアンの解放」と呼ばれている[SRC-02127][SRC-02128]。
本文
フランス中部、ロワール川沿いの都市オルレアンは、1428年10月12日からイギリス軍の包囲を受けていた[SRC-02126][SRC-02129]。イギリス軍はオルレアンの周囲に十前後の要塞(bastille)を築いており、その中心となっていたのがロワール川の橋のたもとに築かれたレ・トゥレル要塞であった[SRC-02129]。
1429年4月29日、フランス軍の指揮官の一人ラ・イールとともに、ジャンヌ・ダルクが物資を携えてオルレアンへ入城した[SRC-02126]。5月4日(水曜日)、ジャンヌは市街地の東にあったイギリス軍の要塞(聖ルー要塞)への攻撃に加わり、フランス軍はこの要塞を奪取した[SRC-02126][SRC-02127][SRC-02129]。5月5日は昇天祭の祝日にあたり、戦闘は行われなかった[SRC-02129]。5月6日(金曜日)、ジャンヌはロワール川の南岸へ渡り、別の要塞(オーギュスタン要塞)への攻撃に加わった。イギリス軍はいったんこの要塞から撤退してより強固な陣地を守ろうとしたが、ジャンヌとラ・イールはこれを攻めて奪取した[SRC-02126][SRC-02129]。
5月7日(土曜日)早朝、フランス軍はレ・トゥレル要塞への攻撃を開始した[SRC-02126][SRC-02129]。ジャンヌはこの戦闘で負傷したが、すぐに戦列へ戻り、フランス軍の指揮官たちはジャンヌの姿に励まされて攻撃を継続した結果、イギリス軍は降伏した[SRC-02126][SRC-02129]。
その翌日、5月8日(日曜日)の朝、レ・トゥレル以外に残っていたイギリス軍の要塞が軍議を開き、撤退して野戦の陣形を敷いた[SRC-02126][SRC-02129]。オルレアン市民はジャンヌとともに全軍で追撃に出ようとしたが、ジャンヌは「彼らを行かせよ」(原文: "on les laissast aller")と告げ、追撃を許さなかった[SRC-02129]。この日が日曜日であったことが、追撃を見合わせた理由として記録されている[SRC-02126]。市内では神への感謝が捧げられ、ミサが行われたと伝えられる[SRC-02129]。5月9日、ジャンヌはオルレアンを離れ、トゥールにいた王太子シャルルのもとへ向かった[SRC-02126]。
歴史的背景
ジャンヌ・ダルクは、ドンレミ村出身の農家の娘で、13歳の頃に神からの啓示を受けたと自ら述べていた人物である[SRC-02127]。1429年当時、フランスは百年戦争(1337年-1453年)の後半、ランカスター朝期のイギリスによる攻勢を受けており、王太子シャルル(後のシャルル7世)の勢力基盤はシノン周辺に限られていた[SRC-02127]。オルレアンは、フランス側の勢力圏と接する戦略上・象徴上の要衝であり、この都市が陥落すればフランス側が戦争に敗れる可能性が高いとみられていた(この評価は出典〔SRC-02127〕自身によるものである)[SRC-02127]。ジャンヌは王太子に自身の使命を認めさせたうえで、1429年4月下旬にブロワで編成された数百人規模のフランス軍とともにオルレアンへ向かった[SRC-02126]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1428年10月12日(ユリウス暦) | イギリス軍、オルレアンの包囲を開始する(本記事の前提事実) | [SRC-02126][SRC-02129] |
| 1429年4月29日(ユリウス暦) | ジャンヌ・ダルク、ラ・イールらとともにオルレアンへ入城する | [SRC-02126] |
| 1429年5月7日(ユリウス暦・土曜日) | レ・トゥレル要塞が陥落する(本記事の主題に先行する出来事) | [SRC-02126][SRC-02129] |
| 1429年5月8日(ユリウス暦・日曜日) | イギリス軍が残る要塞から撤退し、オルレアンの包囲が解かれる(本記事の主題) | [SRC-02126][SRC-02129] |
| 1429年5月9日(ユリウス暦) | ジャンヌ、オルレアンを離れトゥールの王太子シャルルのもとへ向かう | [SRC-02126] |
異説・論争定説のない論点があります
「解放(libération)」という語について: 本記事が主題とするイギリス軍の撤退そのものについて、Britannica(SRC-02126)は「撤退(retreating)」という軍事上の事実のみを記すにとどまる。一方、World History Encyclopedia(SRC-02127)は、ジャンヌと同時代の文人クリスティーヌ・ド・ピザンがこの出来事を「オルレアンの解放(the liberation of Orleans)」と呼んで讃える詩(ジャンヌの存命中に書かれた唯一の文学作品とされる)を著したことを紹介する。オルレアン市も、現在まで続く記念行事において、この出来事を「デリヴランス(Délivrance、解放)」と呼んでいる[SRC-02128]。本サイトは、イギリス軍が撤退し包囲が解かれたという軍事上の事実を本記事の中核的な主張とし、「解放」という呼称については、それが当時から現在まで使われてきた呼び方であることを示すにとどめ、本サイト自身の評価としては用いない。
同一出典内の記述割れ(撤退完了の日数): 本記事の典拠の一つである『オルレアン包囲日誌』[SRC-02129]には、主たる日誌本文のほかに、校訂者が「包囲解除当日に書かれた」(原文: "elle a été écrite le jour même de la délivrance de notre ville")と注記する、公証人ギヨーム・ジロー(Guillaume Girault)による覚書が収載されている。主たる日誌本文は、5月8日(日曜日)の朝に残る要塞が軍議を開き撤退したと記す一方、ジロー覚書は撤退を「続く日曜と月曜に」(原文: "Et les dimanche et lundy ensuivant,")と2日に跨がせて記している。本サイトは、イギリス軍が撤退し包囲が解かれたこと自体は両資料と矛盾しないと考えるが、撤退が完了するまでの経過について同一出典内で記述が割れていることをここに開示する[SRC-02129]。
論点: オルレアン包囲の解除において、ジャンヌ・ダルクの存在はどれほど決定的だったか。 この論点について、歴史家の間で見解が分かれていることが確認された(調査範囲: 本記事の登録出典4件)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| ジャンヌの存在は包囲解除の決定的要因だったか | 1429年5月に用いられた新戦術や、守備側(オルレアン市民)の姿勢の変化などの要因が働いた結果であり、ジャンヌ個人の役割は後世の伝説が過大に伝えているに過ぎないとする見方 | [SRC-02127] | 史学上の論争として紹介される一方の立場 |
| ジャンヌの存在は包囲解除の決定的要因だったか | ジャンヌの到来が預言の実現として受け止められたこと自体が、戦術の転換や勝利への期待の高まりを促したのであり、彼女の存在は実質的な影響を持ったとする見方 | [SRC-02127] | 同記事の著者自身が第1説への反論として示す立場 |
本サイトはいずれの立場にも決しない。
関連する出来事
オルレアンの包囲が解かれた後、フランス軍はロワール河谷ぞいの他のイギリス軍拠点の攻略に向かい、同年6月にはパテーの戦いで勝利した[SRC-02127]。ジャンヌはその後、王太子シャルルをランスへ導き、同年7月、シャルルは同地の大聖堂でシャルル7世として戴冠した[SRC-02127]。ジャンヌは1430年にブルゴーニュ軍の捕虜となり、翌1431年5月30日、ルーアンで異端の廉により処刑された[SRC-02126][SRC-02127]。
関連人物
- ジャンヌ・ダルク(じゃんぬ・だるく): フランスの軍事指導者。1429年4月29日のオルレアン入城以降、同年5月4日・6日・7日の戦闘に加わり、イギリス軍によるオルレアン包囲の解除に至る軍事行動を主導した本件の中心人物[SRC-02126][SRC-02127][SRC-02129]。
- ラ・イール(らいーる): フランス軍の指揮官の一人。ジャンヌとともにオルレアンに入城し、5月6日の戦闘でもジャンヌとともに別の要塞(オーギュスタン要塞)を攻めた[SRC-02126]。
歴史的意義
オルレアンの包囲解除は、それまでイギリス軍が優勢を保っていた百年戦争後半の戦局を転換させる契機となり、同年7月のシャルル7世の戴冠、ひいてはフランス側の勢力回復につながる一連の軍事行動の起点となったとされる[SRC-02127]。この出来事がどの程度ジャンヌ個人の働きによるものだったのかについては、歴史家の間で見解が分かれている(上記「異説・論争」参照)[SRC-02127]。
現代の視点
オルレアン市では、この出来事を記念する行事が現在まで続けられている。同市公式サイトは、2025年の記事で、5月8日の記念行事を「ジャンヌ・ダルク祭」と呼び、1429年の出来事から596年にわたって続けられてきたとしている[SRC-02128]。市はこの行事においてジャンヌを「解放者(Libératrice)」と呼んでいる[SRC-02128]。本記事が主題とする1429年5月8日の軍事上の出来事と、現代に続くこの記念行事とは、歴史上の出来事とその後世における記念という点で区別される別の事柄である(この整理は本サイトによるものである)。
なお、ジャンヌ・ダルクは1431年の処刑後、1920年にカトリック教会により聖人の列に加えられている[SRC-02126][SRC-02127]。本サイトは、この出来事の宗教的な意義については評価を行わず、列聖の事実のみを記録する。
出典一覧
- [SRC-02126] Joan of Arc | Biography, Painting, Death, Accomplishments, Trial, & Facts/Encyclopædia Britannica, Inc.(ランクB)
- [SRC-02127] Joan of Arc - World History Encyclopedia/World History Encyclopedia (World History Publishing Ltd)(ランクB)
- [SRC-02128] 8 mai : cœur à cœur avec Jeanne/Ville d'Orléans(ランクB)
- [SRC-02129] Journal du siège d'Orléans, 1428-1429, augmenté de plusieurs documents notamment des Comptes de Ville 1429-1431/Orléans: H. Herluison, libraire-éditeur(Bibliothèque nationale de France/Gallicaによるデジタル化。ARK: https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k102284m)(ランクS)(複数の資料を収載)
本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。
訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-10-03 | — |
| 2 | 2026-10-03 | あり |
| 3 | 2026-10-03 | あり |
| 4 | 2026-10-03 | なし |
訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。