1615年江戸時代

大坂城本丸が落城 — 本多正純が7日後に記した、大坂夏の陣最後の一日

日付と暦

原典表記
慶長20年5月7日(和暦・太陰太陽暦)
換算
1615-06-03(グレゴリオ暦)
掲載日
5月7日のページ

暦の注記: この出来事は和暦(太陰太陽暦)の慶長20年5月7日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1615年6月3日)[SRC-02119]。この換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」への照会値による(年の干支は乙卯・月の干支は壬午・日の干支は癸丑)[SRC-02119]。改暦境界(1582年10月・明治5年12月〜6年1月)・元号境界(同年中の元和改元)のいずれにも該当しない。本サイトでは05-07のページに掲載している。

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概要

慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣の最後の決戦に敗れた豊臣方の大坂城本丸が落城した[SRC-02118][SRC-02120]。翌8日には豊臣秀頼と母の淀殿が自害し、大野治長をはじめとする家臣たちも切腹した[SRC-02118][SRC-02120]。本多正純は、合戦から7日後にあたる5月14日、近江国柏原にいた新庄直忠へ宛てた書状で、この経緯を伝えている[SRC-02118]。

本文

慶長20年(1615)5月14日、本多正純は、近江国柏原にいた新庄直忠へ筆を執った[SRC-02118]。7日前、大坂で何があったのかを伝えるためだった[SRC-02118]。

同年4月、前年の和議で堀を失っていた大坂方(豊臣方)は、城を出て迎え撃つ方針をとり、戦い(大坂夏の陣)が再開された[SRC-02120]。5月6日払暁、国分・道明寺および八尾・若江で合戦が行われ、後藤基次・木村重成の両将が討ち死にした[SRC-02120][SRC-02121]。

翌5月7日、最後の決戦が大坂城南の天王寺・岡山方面で行われ、豊臣方は敗れた[SRC-02120]。本多正純の書状は「去七日大坂表御取詰被成候處ニ、則御合戦ニ御討勝、敵不残討捕、其日ニ大坂本丸致落城」(読み下し〔語順は原典のまま〕: 去る七日、大坂表を御取詰め成され候処に、則ち御合戦に御討ち勝ち、敵残らず討ち捕り、其の日に大坂本丸致落城)と記し、その日のうちに本丸が落城したと伝えている[SRC-02118]。日本大百科全書も「城も火を発してこの日のうちに落ちた」と記す[SRC-02120]。

最後まで秀頼とともにあった大野治長は、千姫を城外へ脱出させたうえで秀頼母子の助命を嘆願させたが、聞き入れられなかった[SRC-02120]。本多正純の書状は、翌8日、秀頼が切腹し、母の淀殿が自害し、大野修理(治長)をはじめ家臣たちも残らず切腹したと伝えている[SRC-02118]。

歴史的背景

大坂冬の陣(慶長19年=1614)の和議の条件について、日本大百科全書は総構えの堀をつぶすことだったと記し、改訂新版世界大百科事典は外堀の一部を形だけ埋めることだったと記す[SRC-02120]。家康はこの約束を破り、総構えに加え、日本大百科全書は「内堀を除く」二の丸・三の丸の堀まで埋めたと記す一方、改訂新版世界大百科事典は「内堀までも」、百科事典マイペディアは「内堀までを」埋めたと記しており、内堀が埋められたか否かで記述が分かれる[SRC-02120]。堀を失った大坂方は、その後の国替え要求を拒んで再び兵を挙げ、慶長20年4月、戦い(大坂夏の陣)が再開された[SRC-02120]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
和暦・慶長20年4月 大坂夏の陣、戦闘が再開される [SRC-02120]
和暦・慶長20年5月6日(グレゴリオ暦換算1615年6月2日) 国分・道明寺、八尾・若江で合戦。後藤基次・木村重成ら討ち死に [SRC-02120][SRC-02121]
和暦・慶長20年5月7日(グレゴリオ暦換算1615年6月3日) 天王寺・岡山方面で決戦。大坂城本丸が落城 [SRC-02118][SRC-02120]
和暦・慶長20年5月8日(グレゴリオ暦換算1615年6月4日) 豊臣秀頼・淀殿が自害。大野治長ら家臣も切腹 [SRC-02118][SRC-02120]
和暦・慶長20年5月14日(グレゴリオ暦換算1615年6月10日) 本多正純、落城の次第を記した書状を新庄直忠へ送る [SRC-02118]
異説・論争定説のない論点があります

調査範囲は本記事が挙げた4件の出典(国立国会図書館デジタルコレクション収載『大日本史料』・国立天文台暦計算室・コトバンク収載8事典〔大坂の陣〕・コトバンク収載4事典〔大坂夏の陣〕)に限る。

論点 説 根拠・出典 本サイトの記述方針
本丸落城と秀頼・淀殿自害の日付 本丸落城=5月7日、秀頼・淀殿の自害=翌5月8日(日をまたぐ二分構成) 本多正純書状(5月14日付の同時代書状)・日本大百科全書・山川日本史小辞典改訂新版 事件に最も近い時期に書かれた一次書状を含む3系統が一致する。本サイトはこの系統に沿って記述した
同上 本丸落城と秀頼母子の自害は、ともに5月7日の出来事 改訂新版世界大百科事典 少数系統。他系統との優劣は本サイトは判定しない
同上 大坂城の落城と秀頼・淀殿の自害は、ともに5月8日の出来事 ブリタニカ国際大百科事典小項目事典 少数系統。他系統との優劣は本サイトは判定しない
5月7日時点の大坂城(本丸)の状態の表現 本多正純書状は「本丸」が致落城(落城)したと記し、日本大百科全書は「城」が火を発して落ちたと記す(対象指定が本丸/城で異なる) 本多正純書状・日本大百科全書 本サイトは対象指定(本丸/城)の相違を判定せず、本文では本多正純書状の表現(本丸の落城)に沿って記述した
同上 山川日本史小辞典は、二の丸が「陥落」し、本丸は「炎上」したと記す(当該記述箇所では「落城」の語を用いない) 山川日本史小辞典改訂新版 本サイトは「炎上」と「落城」のいずれの表現がより正確かを判定しない

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

大坂城の落城と豊臣秀頼・淀殿の死により、豊臣氏は滅亡した[SRC-02120]。これ以降、徳川の治世のもとで大名間の大規模な戦争は長く途絶え、後世にはこれを「元和偃武」と呼ぶ[SRC-02120]。本サイトは、落城の当事者(徳川方・豊臣方)のいずれについても、行動の正当性を判定する立場をとらない。

現代の視点

本多正純が新庄直忠へ送った書状は、東京大学史料編纂所が編纂した『大日本史料』第十二編之二十に翻刻収載され、国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されている[SRC-02118]。合戦からわずか7日後に書かれた同時代の史料が、現在も誰でも参照できる形で保存され、公開されている(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-02118] 大日本史料 第十二編之二十(東京大学史料編纂所編・東京大学・大正7年=1918)— 本多正純書状(慶長20年5月14日付、新庄直忠宛)/東京大学(東京大学史料編纂所編。国立国会図書館デジタルコレクション収載)(ランクS)
  2. [SRC-02119] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 慶長20年5月6日・7日・8日・14日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
  3. [SRC-02120] 大坂の陣(コトバンク収載: デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・精選版日本国語大辞典・日本大百科全書〔ニッポニカ〕・改訂新版世界大百科事典・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典小項目事典・山川日本史小辞典改訂新版)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
  4. [SRC-02121] 大坂夏の陣(コトバンク収載: デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典小項目事典〔「大坂の陣」参照〕・世界大百科事典〔旧版〕内の言及)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-10-03あり
22026-10-03不明
32026-10-03不明
42026-10-03なし

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