1536年世界 16世紀

アン・ブーリンは1536年5月2日、不義密通などの容疑でロンドン塔に送られた——有罪だったのか冤罪だったのかは、今も歴史家の間で論争が続く

日付と暦

原典表記
1536年5月2日(ユリウス暦)
換算
1536-05-02(ユリウス暦)
掲載日
5月2日のページ

暦の注記: この出来事はユリウス暦の1536年5月2日に起きた(ユリウス暦のまま換算: 1536-05-02)[SRC-02072]。グレゴリオ暦の導入は1582年10月であり、この日付はそれより46年前にあたるため、換算先の暦種別もユリウス暦のままとなる(機械決定。1582年10月という改暦の年月そのものは本サイトの換算方針が定める定数規則であり、外部出典を要する事実主張ではない)。当時のイングランドは新年を3月25日に開始する慣行(旧方式)を用いていたが、この日付(5月2日)は3月25日より後にあたるため、旧方式・現代方式のいずれで数えても年表記は1536年のまま変わらない[SRC-00044]。本サイトでは 05-02 のページに掲載している。換算は独自に行っておらず、原典の日付をそのまま転記したものである[SRC-02070][SRC-02071][SRC-02072]。

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

1536年5月2日、イングランド王妃アン・ブーリンは、複数の男性との不義密通および兄ジョージ・ブーリンとの近親相姦[SRC-02070]、そして国王ヘンリー8世の生命を謀ったとする共謀[SRC-02071]の容疑により、ロンドン塔に収容された。アンはヘンリー8世の2番目の王妃であり、後の女王エリザベス1世の母である[SRC-02070]。逮捕からわずか17日後の5月19日、アンは貴族による裁判で有罪とされた末、ロンドン塔内のタワー・グリーンで斬首された[SRC-02070][SRC-02071]。だが、これらの容疑が実際に真実だったのか、それとも宮廷内の権力闘争とヘンリーの意向による冤罪だったのかについては、歴史家の間で見解が分かれており、今も論争が続いている[SRC-02070][SRC-02071]。

本文

1536年初頭、アンと国王ヘンリー8世の関係は悪化していた[SRC-02070]。アンは1534年に流産し、1536年1月には死産の男児を出産していた[SRC-02070](この経緯の医学的・政治的な原因について、本サイトは出典が確認できた範囲を超えて踏み込まない)。同じ頃、ヘンリーはアン自身の侍女のひとりであったジェーン・シーモアに心を寄せるようになっていた[SRC-02071]。

1536年5月2日、アンは逮捕され、ロンドン塔へ移送された[SRC-02070][SRC-02071][SRC-02072]。この日の日付でシャピュイ(神聖ローマ皇帝カール5世へ報告を送った人物)が送った書簡は、アンが白昼のうちにグリニッジからロンドン塔へ、ノーフォーク公と2名の侍従長(王国の侍従長と内室の侍従長)に護送されて移送されたと記している[SRC-02072]。Historic Royal Palaces(独立のチャリティ団体)は、アンがバージ船でロンドン塔まで運ばれ、裏門(現在のバイワード・タワー)に到着したと記す[SRC-02071]。

かけられた容疑は、複数の男性との不義密通および兄ジョージ・ブーリンとの近親相姦[SRC-02070]、そして国王の生命を謀ったとする共謀[SRC-02071]だったとされる。シャピュイの書簡は、同じ朝、アンの侍従中の楽師(スピネット奏者)がすでにロンドン塔に収容されていたこと、ノリス氏も「事実を明かさなかった」として収容されたことを記す[SRC-02072]。アンの兄ジョージ・ブーリン(ロッチフォード卿)も、他の者より6時間以上後、アンより3〜4時間前にロンドン塔へ収容された[SRC-02072][SRC-02071]。

サー・ウィリアム・キングストンが記録した入塔直後のアンの様子によれば、アンは「キングストン殿、私は地下牢に入れられるのですか」と尋ね、キングストンは「いいえ、陛下。あなたが戴冠式の際に泊まった部屋に入られます」と答えたという[SRC-02072]。アンはひざまずいて泣き、やがて笑い出したと記録されている[SRC-02072]。同書簡はアンが不義密通の容疑を否定したことも記録しているが、当該箇所は写本の損傷により一部が編者による推定復元であるため、本サイトは直接の逐語引用を避け、この要約にとどめる[SRC-02072]。Historic Royal Palacesは、ヘンリー8世が王妃の無実の訴えを無視し、アンの敵で固められた「名ばかりの裁判(sham trial)」が彼女を有罪としたと記している[SRC-02071]。

アンは貴族による裁判で全員一致で有罪とされ、5月19日、ロンドン塔内のタワー・グリーンで斬首された[SRC-02070][SRC-02071]。最後まで無実を訴えたが、最終的に残された言葉は、法により死を命じられた者として死に臨み、国王の安寧を神に祈るという穏当なものだったと伝えられる[SRC-02071]。アンの遺体はロンドン塔内の聖ペテロ・アド・ヴィンキュラ礼拝堂に埋葬された[SRC-02071]。ヘンリーは5月30日、ジェーン・シーモアと結婚した[SRC-02070]。

歴史的背景

アンに対する訴追の背景には、トマス・クロムウェルが主導的な役割を果たしたとされる[SRC-02071]。Historic Royal Palacesは「1536年、クロムウェルはアンに対して決定的な動きに出た」と記している[SRC-02071]。Encyclopaedia Britannicaも、アンが起訴されたとおりに有罪であった可能性は低く、クロムウェルに支持された一時的な宮廷内派閥の犠牲者だったようだと評している[SRC-02070]。Historic Royal Palacesはまた、アンがかつての盟友だったクロムウェルと、修道院財産の売却収益の帰属をめぐって対立していたこと、そしてヘンリーとクロムウェルがこの処刑をロンドン塔内で周到に取り計らったことを記している[SRC-02071]。もっとも、クロムウェルがヘンリー自身の意向とどこまで独立して訴追を主導したのか、これを超える力関係の配分までは、本サイトが確認した出典の範囲では明らかにされていない(この限定は本サイトの整理である)。

ヘンリーの最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚の無効宣言をめぐる一連の経緯、およびアンとの結婚は、ヘンリーをローマ・カトリック教会との決別に導き、イングランドの宗教改革をもたらした[SRC-02070]。1533年1月25日頃、ヘンリーとアンは秘密に結婚し、同年のイースターにこの結婚が公表された[SRC-02070]。同年5月23日、ヘンリーはカンタベリー大司教トマス・クランマーに、先妻キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を無効と宣言させた[SRC-02070]。同年9月、アンは娘(後のエリザベス1世)を出産した[SRC-02070]。その宗教改革の詳細は本記事の主題(1536年の逮捕)の射程外とする。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1536年5月2日(ユリウス暦) アン、グリニッジからロンドン塔へ移送され収容される(本記事の主題) [SRC-02070][SRC-02071][SRC-02072]
1536年5月2日(同日・ユリウス暦) アンの侍従の楽師(スピネット奏者)、ノリス氏がロンドン塔に収容される [SRC-02072]
1536年5月2日(アンより3〜4時間前・ユリウス暦) ジョージ・ブーリン(ロッチフォード卿、アンの兄)がロンドン塔に収容される [SRC-02072][SRC-02071]
1536年5月19日(ユリウス暦) アン、タワー・グリーンで斬首される(本記事の主題に続く後続事実) [SRC-02070][SRC-02071]
1536年5月30日(ユリウス暦) ヘンリー8世、ジェーン・シーモアと結婚 [SRC-02070]
異説・論争定説のない論点があります

論点: アンは実際に有罪だったのか、それとも冤罪だったのか。 この論点は本記事の中心的な論争であり、本サイトはいずれの立場も断定しない。

Encyclopaedia Britannicaは、本文末尾の評価として「アンが起訴されたとおりに有罪であった可能性は低く、トマス・クロムウェルに支持された一時的な宮廷内派閥の犠牲者だったようだ」と明記している[SRC-02070]。この見解は、容疑の実在性そのものに強い疑いを示すものである。

一方、Historic Royal Palacesは、より留保的な立場をとる。同機関は、アンの支持者が彼女を「宮廷内派閥とヘンリー8世の猜疑心・王朝的野心の無実の犠牲者」として称えてきたことを紹介する一方、アンの反対者が彼女を「道徳的に堕落し、肉体的にも奇形」とみなし後世にさまざまな悪評を広めたことにも触れている[SRC-02071]。同機関の学芸員(curators)の見解として、「アンは自分自身の声をほとんど残していない。彼女の生涯についてのすべての歴史は、書き手の偏見や想像力豊かな飛躍によって色づけられている……我々は本当のところは決して分からないだろう。歴史家たちは今日もアン・ブーリンの評価をめぐって論争を続けている」と記されている[SRC-02071]。本サイトが確認した範囲では、この論争に決着はついていない。

なお、アンの生年についても登録出典の間で記述が割れている。Encyclopaedia Britannicaは「1507年?」と記す一方[SRC-02070]、Historic Royal Palacesは同じ記事内でリード文に「c.1500」と記しつつ[SRC-02071]、別の節では「歴史家はおおむね1501年頃の生まれとみている」とも記しており[SRC-02071]、出典間だけでなく同一出典内でも年次の表記が一致していない。本サイトはいずれの年次にも決しない。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
アンは実際に有罪だったか 起訴されたとおりに有罪だった可能性は低く、クロムウェルに支持された一時的な宮廷内派閥の犠牲者だったと見る説 [SRC-02070] 定評ある百科事典の編集部による評価
アンは実際に有罪だったか 有罪か無実かは決着しておらず、歴史家は今日もアンの評価をめぐって論争を続けているとする見方 [SRC-02071] 独立のチャリティ団体の学芸員(curators)による見解(学説の決着を明言しない立場)

関連する出来事

アンとヘンリー8世の結婚(1533年1月)は、ヘンリーの先妻キャサリン・オブ・アラゴンとの結婚の無効宣言(同年5月23日)と、後の宗教改革に連なる経緯の一部だった[SRC-02070]。アンとヘンリーの間に生まれた娘エリザベスは、後にイングランド女王エリザベス1世となった[SRC-02070]。アンの兄ジョージ・ブーリン(ロッチフォード卿)は、アンに先立って処刑された[SRC-02071]。

関連人物

歴史的意義

アンとヘンリーの間に生まれた娘エリザベスは、後にイングランド女王エリザベス1世となった[SRC-02070]。アンの評価については、Historic Royal Palaces自身が「歴史家は今日もアン・ブーリンの評価をめぐって論争を続けている」と記しているとおり、単純な断罪や顕彰のいずれにも決着していない[SRC-02071]。

現代の視点

Historic Royal Palacesは、アンとヘンリー8世の恋愛関係とその後のロンドン塔での処刑に至る経緯が「数十冊の書籍と映画に着想を与えてきた」と記している[SRC-02071]。同機関はまた、アンの支持者による「悲劇の犠牲者」像(ミニ・ドキュメンタリーの紹介文における表現[SRC-02071])と、反対者による否定的な人物像の両方が後世に形成されてきたことを紹介しており、いずれも史料そのものではなく後世の解釈であることを示している[SRC-02071](この整理は同機関自身の解説に基づく)。本サイトは、こうした後世の評価のいずれにも立たず、出典が直接示す範囲の事実と、現在も続く学術的な論争の存在を併せて示すにとどめる。

出典一覧

  1. [SRC-02070] Anne Boleyn | Biography, Children, Facts, & Death/Encyclopædia Britannica, Inc.(ランクB)
  2. [SRC-02071] Anne Boleyn | Tower of London | History and stories/Historic Royal Palaces(ランクB)
  3. [SRC-02072] Henry VIII: May 1536, 1-10 — Letters and Papers, Foreign and Domestic, Henry VIII, Volume 10, January-June 1536/British History Online(Institute of Historical Research, University of London 運営)(ランクA)(複数の資料を収載)
  4. [SRC-00044] Calendar (New Style) Act 1750 (24 Geo 2 c.23) — 英国政府公式法令データベース/legislation.gov.uk(The National Archives、英国政府)(ランクS)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-10-02—
22026-10-02あり
32026-10-02あり
42026-10-03なし

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。