1789年世界 18世紀
フレッチャー・クリスチャンは1789年4月28日、バウンティ号で反乱を起こしブライ艦長ら19人を小型ボートで漂流させた——ブライは3618海里の航海の末、6月14日にティモール島へ生還した
日付と暦
- 原典表記
- 1789年4月28日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1789-04-28(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 4月28日のページ
この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る
概要
1789年4月28日未明、南太平洋のフレンドリー諸島、Tofoa島近海で、英海軍船バウンティ号のマスターズ・メイト、フレッチャー・クリスチャンらが、まだ眠っていた艦長ウィリアム・ブライの船室に押し入り、拘束した[SRC-02038]。艦はタヒチを出航して23日目、タヒチから約1300マイル離れた海域にあった[SRC-02039]。クリスチャンらはブライと、忠実な乗組員18人(計19人)を小型ボート(ランチ)に乗せて海上へ出し、艦にはクリスチャンを含む25人が残った[SRC-02038]。流血はなかった[SRC-02039]。漂流させられたブライらは、まずTofoa島で物資を求めたのち、3618海里を航海してティモール島に到達した[SRC-02038][SRC-02039]。そのうえで1789年6月14日、ティモール島の行政拠点クーパンへ到達して生還した[SRC-02038]。反乱の原因について、当事者であるブライ自身は同時代の記録でタヒチでの生活や現地女性との関係への未練を主な要因に挙げ、海兵隊が同乗していれば防げたかもしれないとも記した[SRC-02038]。英国立海事博物館を含む複合機関ロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジ(RMG)は、艦の過密・海兵隊不在(ブライ自身も同時代の記録で言及している)・長期のタヒチ滞在後の規律の乱れ・ブライとクリスチャンの摩擦の悪化という複数の状況的要因を挙げており、本記事が確認した出典はいずれが決定的だったかを明示的に判定していない[SRC-02038][SRC-02039]。
本文
バウンティ号は1787年、タヒチのパンノキを、西インド諸島のプランテーションで働く奴隷労働力のための食料として移送する任務でイングランドを出航した[SRC-02040]。イングランド出航から10か月後にタヒチへ到達したが、パンノキの採取に適した季節ではなかったため、同島に5か月間滞在することになった[SRC-02039]。乗組員は上陸して生活し、温暖な気候を楽しみ、多くの者が一時的なタヒチ人の「妻」を得たとRMGは記す[SRC-02039]。1789年4月4日、バウンティ号はタヒチを出航した[SRC-02038]。
出航から23日目の4月27日正午、艦はTofoa島とコトゥ島の間の海域にあった[SRC-02038][SRC-02039]。その夜の当直のうち、最初の直・中直に続く朝の直をクリスチャンが務めていた[SRC-02038]。翌28日、日の出前、ブライがまだ眠っている間に、クリスチャン、武器長、砲手の助手、水夫トーマス・バーキットの4人が船室に押し入り、ブライを後ろ手に縄で縛り、声を出せば即座に殺すと脅した[SRC-02038]。ブライは大声を上げて助けを求めたが、クリスチャン側の一味ではない士官はすでに自室の扉を見張られていた[SRC-02038]。ブライはシャツ姿のまま甲板へ連れ出され、後甲板でクリスチャンらに監視されたまま拘束され続けた[SRC-02038]。クリスチャン以下の武装した一味は銃剣を突きつけ、士官・乗組員を順次ボート(ランチ)へ移した[SRC-02038][SRC-02039]。最終的にクリスチャンは「さあ、ブライ艦長、あなたの士官と部下はもうボートにいる。あなたも一緒に行かねばならない。少しでも抵抗すればただちに殺される」と告げ、縄を解いたブライを海上へ出した[SRC-02038]。ブライが過去の厚誼への裏切りではないかと問うと、クリスチャンは動揺し「艦長、それだ。私は地獄にいる、地獄にいるのだ」と答えたとブライは記している[SRC-02038]。
ランチに乗せられたのは、航海長ジョン・フライヤー、代理外科医トーマス・レッドワード、植物学者デイヴィッド・ネルソン、砲手ウィリアム・ペックオーバー、掌帆長ウィリアム・コール、大工ウィリアム・パーセル以下の18人と、ブライ自身を合わせた計19人だった[SRC-02038]。艦には、クリスチャンのほか、士官候補生ピーター・ヘイウッド、エドワード・ヤング、ジョージ・スチュワート、武器長チャールズ・チャーチル、一般水夫14人などを含む計25人が残った[SRC-02038]。RMGは、ブライとクリスチャンを除く42人のうち18人が反乱に積極的に加担し、2人は消極的、22人がブライに忠実だった(うち4人は意に反して艦に残留した)と記している[SRC-02039]。本記事が確認した範囲では、この内訳はブライ自身の名簿の人数(ランチに19人、艦に25人)と矛盾しない[SRC-02038][SRC-02039]。ランチには、帆布・綱・水を入れた28ガロンの樽、パン150ポンド、豚肉16切れ、ラム酒6クォート、ワイン6本、四分儀とコンパスが積まれたが、海図・暦表・天体観測書・六分儀・時辰儀(クロノメーター)・ブライの測量図は反乱者らにより持ち出しを禁じられた[SRC-02038]。
ブライらはいったんTofoa島への上陸を試みたが、原住民との衝突で乗組員1人を失い、その後は上陸を断念して西へ向かった[SRC-02038]。ブライは、残された四分儀とコンパスを頼りに航路を計算し続け、Tofoa島を出てから3618マイル(海里)を航海してティモール島の海岸に至り、1789年6月14日、オランダ領東インドの行政拠点クーパンへ到達した[SRC-02038]。所要日数について、ブライ自身の航海日誌はTofoa島出航からティモール島の海岸を視認するまでを41日間と記録しているが、RMGはTofoa島からティモール島までを47日間とし、両出典の数値は一致しない(詳細は異説・論争欄を参照)[SRC-02038][SRC-02039]。ブライはその後、乗組員とともにイギリスへ帰還し、1790年3月14日に反乱を報告した[SRC-02040]。ブライはバウンティ号喪失の責を問う審理にかけられたが無罪となり、昇進した[SRC-02040]。
歴史的背景
ブライは、キャプテン・ジェームズ・クックの最後の太平洋航海(レゾリューション号)で航海長を務めた経験を持つ熟練の航海者だった[SRC-02040]。バウンティ号の航海では、海兵隊が同乗せず、艦長の権威を武力で担保する仕組みがなかったとRMGは指摘する[SRC-02039]。ブライ自身も同時代の記録で、海兵隊が同乗し自室の扉に見張りがいれば反乱を防げたかもしれないと記しており、この点は両系統に共通する言及である[SRC-02038][SRC-02039]。イングランド出航からタヒチ到着までに10か月、タヒチでの5か月の滞在を経て、乗組員は艦上生活の規律から離れた期間を過ごしており、再び海へ出た際にその規律への復帰がうまくいかなかったとRMGは記す[SRC-02039]。RMGはまた、イングランド出航時から続いていたブライとクリスチャンの間の摩擦が、出航後に悪化したとも記している[SRC-02039]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1787年(グレゴリオ暦) | バウンティ号、パンノキ移送の任務でイングランドを出航 | [SRC-02039][SRC-02040] |
| 1788年(グレゴリオ暦・出航10か月後) | タヒチ到着。採取の季節ではなく5か月間滞在 | [SRC-02038][SRC-02039] |
| 1789年4月4日(グレゴリオ暦) | バウンティ号、タヒチを出航 | [SRC-02038] |
| 1789年4月28日(グレゴリオ暦) | 反乱発生。ブライら19人がランチで漂流させられる | [SRC-02038][SRC-02039] |
| 1789年6月14日(グレゴリオ暦) | ブライら、ティモール島のクーパンへ到達(Tofoa島出航後の航程は3618海里) | [SRC-02038] |
| 1790年3月14日(グレゴリオ暦) | ブライ、イギリスへ帰還し反乱を報告 | [SRC-02040] |
異説・論争定説のない論点があります
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 反乱の原因 | 当事者であるブライ自身は、同時代の記録で、反乱者らがイギリスでの生活よりタヒチでの生活の方が幸福だと思い込み、これに現地女性との関係が結びついたことが主たる原因だったろうと推測している。自身への不満を示す兆候には気づかなかったとも記す | [SRC-02038] | 反乱を裁く立場にはなかった当事者(被害者とされる側)自身による同時代の説明。反乱の原因をめぐっては近年の学術的な再検討が存在することを認識しているが、当該文献の原典の探索は実施しておらず、本記事はこれを出典として採用していない |
| 反乱の原因 | RMGは、艦の過密・海兵隊不在による統率力の弱さ、5か月のタヒチ滞在後に乗組員が艦上の規律に適応できなかったこと、出航後のブライ・クリスチャン間の摩擦の悪化という複数の状況的要因を挙げている | [SRC-02039] | 博物館による近年の歴史解説が示す複合要因型の説明 |
| ブライの統率の在り方 | RMGはブライについて、気性が激しいという評判があり、同僚士官や乗組員としばしば衝突したと記している | [SRC-02040] | 人物紹介記事としての記述であり、この気性が反乱の決定的な原因だったとRMG自身が明示的に述べているわけではない |
| 救援航海の所要日数 | ブライ自身の航海日誌は、Tofoa島出航からティモール島の海岸を視認するまでを41日間と記録している | [SRC-02038] | ブライ自身の同時代の記録(航程3618マイルを伴う) |
| 救援航海の所要日数 | RMGは、Tofoa島からティモール島までの航海を47日間とする | [SRC-02039] | 博物館による近年の歴史解説(航程3618海里を伴う)。両出典が指す終点(ティモール島の海岸視認か、クーパン到達か)の対応関係は出典上明確ではなく、本記事はこの差異を独自の計算で解消しない |
| 救命航海で携行できた航海器具 | ブライ自身の航海記は、四分儀とコンパスのみが積み込まれ、海図・暦表・天体観測書・六分儀・時辰儀(クロノメーター)・ブライの測量図は反乱者らにより持ち出しを禁じられたと記す | [SRC-02038] | ブライ自身の同時代の記録 |
| 救命航海で携行できた航海器具 | RMGは、磁気コンパス・10インチ六分儀・四分儀・数理天文地理の書物2冊を携行して西へ航海したと記す | [SRC-02039] | 博物館による近年の歴史解説。両出典の記述は正面から食い違っており、本記事はいずれが正しいかを判定しない |
上記以外に確認された異説: なし(調査範囲: 反乱発生の日付・場所・経過、ランチ乗船者/艦残留者の人数と氏名、ブライの救命航海の距離・日数、反乱の原因、ブライの帰国後の処遇について、ブライ自身の航海記[SRC-02038]とRMGの解説記事2点[SRC-02039][SRC-02040]を確認した。反乱の原因については上記のとおり複数の説明が併存するが、本記事が確認した出典はいずれの要因が決定的だったかを明示的に判定しておらず、本サイトもこの点について判定しない。反乱者の正確な人数については出典間の数値の食い違いは確認されなかった。ランチの積荷のうち航海器具については上記のとおり出典間で記述が相違する。救命航海の距離について、SRC-02040は「約4000マイル」という概数で記しており、ブライ自身の記録が示す「3618海里」との差は、SRC-02040側が概数表現であることによるものとみられ、本記事はこれを真正な記述の食い違いとまでは断定しない)。
関連する出来事
反乱後、クリスチャンら反乱者はいったんタヒチへ戻ったが、海軍艦の追及を恐れ、クリスチャンと8人の反乱者はタヒチの男女とともに、当時海図も不十分だったピトケアン島へ渡り、発覚を避けるためバウンティ号を焼却したとRMGは記している[SRC-02039]。その後の島での生活の詳細や、タヒチの人々との関係の経緯については、本記事の主題(1789年4月28日の反乱の経過)の範囲外として立ち入らない。ブライは1791年、再度タヒチへの航海を命じられ、2隻の船を率いてパンノキの移送任務を果たした[SRC-02040]。
関連人物
フレッチャー・クリスチャン(ふれっちゃー・くりすちゃん): バウンティ号のマスターズ・メイト。反乱を主導した[SRC-02038][SRC-02039]。
ウィリアム・ブライ(ういりあむ・ぶらい): バウンティ号の艦長。反乱で艦を追われ、3618海里の航海の末にティモール島へ生還した[SRC-02038][SRC-02039]。
歴史的意義
ブライらの救命航海は、限られた物資と航海器具(四分儀とコンパスのみで、六分儀や時辰儀は持ち出せなかった)のもとで3618海里を無事に航海しきった事例として記録されている[SRC-02038](ただし携行できた器具についてはRMGの記述が異なる。異説・論争欄を参照)。RMGは、ブライを「綿密な注意を払う熟練の航海者」と評している[SRC-02039]。本サイト自身としては、これ以上の技術的な評価は行わない。
現代の視点
本記事が確認した出典は、反乱の原因について単一の決定的な要因を特定しておらず、当事者ブライ自身の説明と、博物館による近年の複合要因型の解説が併存している。両者は海兵隊不在への言及など重なる点も含んでいる[SRC-02038][SRC-02039]。本サイトは、これらの説明のいずれが正しいかを判定しない。
出典一覧
- [SRC-02038] A Voyage to the South Sea: Undertaken by command of His Majesty for the purpose of conveying the bread-fruit tree to the West Indies in His Majesty's ship the Bounty commanded by Lieutenant William Bligh; including an account of the mutiny on board the said ship and the subsequent voyage of part of the crew in the ship's boat from Tofoa, one of the Friendly Islands, to Timor/Project Gutenberg(原著: William Bligh著、1792年刊、London: George Nicol刊)(ランクB)
- [SRC-02039] Mutiny on the Bounty (Royal Museums Greenwich)/Royal Museums Greenwich(国立海事博物館〔National Maritime Museum〕を含む複合機関)(ランクA)
- [SRC-02040] William Bligh (Royal Museums Greenwich)/Royal Museums Greenwich(国立海事博物館〔National Maritime Museum〕を含む複合機関)(ランクA)
本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。
訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-10-02 | — |
| 2 | 2026-10-02 | あり |
| 3 | 2026-10-02 | あり |
| 4 | 2026-10-02 | なし |
訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。