1790年世界 18世紀

ベンジャミン・フランクリンが1790年4月17日に死去——死の2か月前、奴隷制度廃止を求める請願を連邦議会に送っていた

日付と暦

原典表記
1790年4月17日(グレゴリオ暦)
換算
1790-04-17(グレゴリオ暦)
掲載日
4月17日のページ

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概要

1790年4月17日、ベンジャミン・フランクリンはフィラデルフィアの自邸(フランクリン・コート)[SRC-01953]で84歳の生涯を閉じた[SRC-01948][SRC-01951][SRC-01952][SRC-01954]。ブリタニカ百科事典は、フランクリンを「One of the foremost of the Founding Fathers」(本サイト訳: 建国の父の中でも最も著名な一人)と評している[SRC-01954]。その一方で、フランクリンは若い頃には奴隷の所有者でもあった。ペンシルベニア大学アーカイブによれば、早くは1735年から、遅くは1770年代にかけて少なくとも7人を奴隷として所有し、自身が発行する新聞『ペンシルベニア・ガゼット』は奴隷の競売広告を長年掲載しており[SRC-01948][SRC-01949]、逃亡奴隷の手配書も掲載していた[SRC-01949]。フランクリンは1787年、ペンシルベニア州奴隷制度廃止促進協会の会長に就任した[SRC-01948][SRC-01949]。死去の2か月前の1790年2月、フランクリンは同協会を代表して、奴隷制度の廃止と奴隷貿易の終結を求める請願書に署名し、連邦議会に送った[SRC-01948][SRC-01950]。国立公文書館は、この請願の提出をフランクリンの最後の公的行為だったと記している[SRC-01948]。

本文

フランクリンが会長を務めたペンシルベニア州奴隷制度廃止促進協会は、1775年4月14日にフィラデルフィアで「The Society for the Relief of Free Negroes Unlawfully Held in Bondage」(本サイト訳: 不法に拘束された自由黒人救済協会)として創設され、1784年・1787年に再編を経て、1789年にペンシルベニア州から正式な法人格を得た団体である[SRC-01948]。奴隷制度の廃止だけでなく、解放された黒人をアメリカ社会に統合する活動にも取り組んだ[SRC-01948]。

1790年2月3日、フランクリンはフィラデルフィアで、協会を代表する請願書に署名した[SRC-01948][SRC-01950]。請願書は、当時ニューヨークで開かれていた連邦議会の上下両院に宛て、「that you will devise means for removing this Inconsistency from the Character of the American People, that you will promote mercy and Justice towards this distressed Race」(本サイト訳: アメリカ国民の性格からこの矛盾を除去する手段を講じ、この苦しめられた人々に慈悲と正義を示すこと)を求めるものだった[SRC-01950]。請願書は2月12日に連邦下院へ、2月15日に連邦上院へ提出された[SRC-01948]。国立公文書館によれば、これは奴隷制擁護派の議員から直ちに強く非難され、上下両院で激しい論争を招いた[SRC-01948]。上院は請願について採決を行わず、下院は請願を特別委員会に送付した[SRC-01948]。同委員会は1790年3月5日、合衆国憲法が1808年までの奴隷の輸入禁止・解放を連邦議会に禁じていると報告した上で、請願を棚上げにした[SRC-01948]。

この結末からおよそ2か月後の4月17日、フランクリンはフィラデルフィアの自邸で死去した[SRC-01948][SRC-01953]。この家は、フランクリンが1785年に最後にフィラデルフィアへ帰国して以降、娘セアラ(サリー)・ベイチ夫妻と暮らした邸宅で、現在の呼称は「フランクリン・コート」である[SRC-01953]。国立公園局によれば、フランクリンは死去前の5年間に、孫のベンジャミン・フランクリン・ベイチのために印刷所・製本所・鋳造所を新設するなど、この邸宅に大規模な改修を加えていた[SRC-01953]。邸宅そのものは死後22年で取り壊された[SRC-01953]。

フランクリンの死後、フィラデルフィア市はそれまでにない規模の葬儀を行ったとHISTORYは伝え、同社の別記事は、推定2万人が葬儀に参列したと記している[SRC-01951][SRC-01952]。会葬者数の一次的な裏付けとなる当時の新聞報道等は、本記事が確認した出典の範囲では示されていない。フランクリンはその後、フィラデルフィアのクライスト・チャーチ墓地に埋葬された[SRC-01949][SRC-01952]。なお、本文で扱う出典には、フランクリンの死因についての具体的な記述は見当たらず、本記事では死因に関する記述を行わない(死因に言及する出典が別に1件あるが、本文には反映していない。詳細は異説・論争欄を参照)。

歴史的背景

フランクリンは、若年期から奴隷を所有していた人物だった。ペンシルベニア大学アーカイブによれば、早くは1735年から、遅くは1770年代にかけて少なくとも7人を奴隷として所有し、1729年に買収した新聞『ペンシルベニア・ガゼット』は、1790年に至るまで奴隷の競売広告や逃亡奴隷の手配書を掲載し続けたが、同時に奴隷制度を厳しく批判する論者の論説も掲載していた[SRC-01949]。国立公文書館も同様に、フランクリンが若い頃に奴隷を所有し、自身の新聞に奴隷売買の広告を掲載していたと記している[SRC-01948]。

その一方で、国立公文書館によれば、フランクリンは私信の中では奴隷制を非難し、クエーカー教徒による反奴隷制のパンフレットを数多く出版してもいた[SRC-01948]。ペンシルベニア大学アーカイブは、1757年にフィラデルフィアで植民地初とされるアフリカ系アメリカ人向け学校の創設を、フランクリンが後押ししたとも記す[SRC-01949]。国立公文書館によれば、フランクリンが奴隷制に公然と反対するようになったのは、合衆国憲法の批准後という、生涯のかなり遅い時期だった[SRC-01948]。1787年、フランクリンはペンシルベニア州奴隷制度廃止促進協会の会長に就任し、1789年には奴隷制廃止を支持する複数の論説を執筆・発表した[SRC-01948]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1735年〜1770年代(グレゴリオ暦・年のみ。早くは1735年、遅くは1770年代までの間) フランクリン、少なくとも7人を奴隷として所有 [SRC-01949]
1757年(グレゴリオ暦・年のみ) フランクリン、フィラデルフィアのアフリカ系アメリカ人向け学校創設を支援 [SRC-01949]
1787年(グレゴリオ暦・年のみ) フランクリン、ペンシルベニア州奴隷制度廃止促進協会の会長に就任 [SRC-01948][SRC-01949]
1790-02-03(グレゴリオ暦) フランクリン、協会を代表して奴隷制度廃止を求める請願書に署名 [SRC-01948][SRC-01950]
1790-02-12(グレゴリオ暦) 請願書、連邦下院に提出 [SRC-01948]
1790-02-15(グレゴリオ暦) 請願書、連邦上院に提出 [SRC-01948]
1790-03-05(グレゴリオ暦) 下院特別委員会、憲法上の制約を理由に請願を棚上げと報告 [SRC-01948]
1790-04-17(グレゴリオ暦) フランクリン、フィラデルフィアの自邸(フランクリン・コート)[SRC-01953]で84歳で死去 [SRC-01948][SRC-01951][SRC-01952][SRC-01954]
異説・論争定説のない論点があります

本記事が調査した範囲では、死去日(1790年4月17日)・死去場所(フィラデルフィアの自邸)・享年(84歳)・埋葬地(クライスト・チャーチ墓地)・請願の経緯(署名日・両院への提出日・委員会報告日)について、出典間で食い違う記述は確認されなかった。

葬儀の参列者数については、HISTORY(A&E Television Networks)が「推定2万人」という数値を挙げているが、これは同社の記事1本のみに基づく記述であり、本記事の調査範囲では独立した別系統の裏付けを確認できなかった。本記事ではこれを確定した事実としてではなく、同社の推定として紹介した。

死因についても、本記事が確認した出典のうち、具体的な記述が見当たらなかったのは7件(国立公文書館、ペンシルベニア大学アーカイブ、ushistory.org、HISTORY〔2記事〕、国立公園局、ブリタニカ百科事典)である。断定を避けるため、本記事では死因に関する記述をあえて行っていない。なお、フランクリン研究所(The Franklin Institute)は、公式サイトのFAQページで死因を「胸膜炎の合併症(complications from pleurisy)」と記しているが、一次的な典拠を示さないFAQ形式による単一系統の記述であるため、本記事の本文には反映していない[SRC-01955]。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
葬儀の参列者数 推定2万人 [SRC-01952] HISTORY単独の記述。他の出典(国立公文書館・ペンシルベニア大学アーカイブ・国立公園局・ブリタニカ百科事典)には数値の記載がなく、独立した裏付けは本記事の調査範囲では確認できなかった

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ブリタニカ百科事典は、フランクリンの経歴を独立宣言の起草・署名、独立戦争期の対仏外交、合衆国憲法制定会議への代表参加に関わった人物として紹介している[SRC-01954]。その一方で、同じ人物が若年期には奴隷を所有し、自身の新聞で奴隷の売買広告を掲載していたという事実もある[SRC-01948][SRC-01949]。フランクリンが会長を務めた奴隷制度廃止促進協会による1790年2月の請願は、連邦議会が発足してまもない時期に奴隷制度の問題を取り上げたものだったが、下院特別委員会は合衆国憲法が1808年までの奴隷の輸入禁止・解放を連邦議会に禁じていると報告し、請願を棚上げした[SRC-01948]。この経緯は、奴隷制度の廃止が合衆国憲法の枠組みの中で、フランクリンの死後も長く続く未解決の問題であり続けたことを示している。本記事は、フランクリンについてのいずれか一方の側面だけを取り上げるのではなく、出典に基づいて双方の事実を並記した。

現代の視点

フランクリンは今日、しばしば「建国の父」として顕彰される一方、奴隷を所有していた過去についても、国立公文書館・ペンシルベニア大学アーカイブの解説双方に明示的に記されている[SRC-01948][SRC-01949]。本記事はこの評価そのものについて判定を行わず、出典が記す事実を紹介するにとどめる。

出典一覧

  1. [SRC-01595] A More Perfect Union(Founding Documents — The Constitution)/National Archives and Records Administration(米国立公文書記録管理局、NARA)(ランクS)
  2. [SRC-01948] Benjamin Franklin's Anti-Slavery Petitions to Congress/The Center for Legislative Archives, U.S. National Archives and Records Administration (NARA)(ランクS)
  3. [SRC-01949] Penn People: Benjamin Franklin/University of Pennsylvania Archives & Records Center(ランクA)
  4. [SRC-01950] Petition from the Pennsylvania Society for the Abolition of Slavery/ushistory.org(Independence Hall Association)(ランクB)
  5. [SRC-01951] Benjamin Franklin dies | This Day in History: April 17, 1790/HISTORY(A&E Television Networks)(ランクB)
  6. [SRC-01952] Benjamin Franklin/HISTORY(A&E Television Networks)(ランクB)
  7. [SRC-01953] Franklin Court/Independence National Historical Park, U.S. National Park Service (NPS)(ランクS)
  8. [SRC-01954] Benjamin Franklin | American Statesman, Inventor & Diplomat/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  9. [SRC-01955] Benjamin Franklin FAQ/The Franklin Institute(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-29あり
22026-09-29あり
32026-09-29あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。