1791年12月5日、モーツァルトがウィーンで死去した——死因は今も論争が続き、後世は「サリエリの毒殺」という伝説を生んだ

日付と暦

原典表記
1791年12月5日(グレゴリオ暦)
換算
1791-12-05(グレゴリオ暦)
掲載日
12月5日のページ

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概要

1791年12月5日、ウィーンで作曲家ヴォルフガング・アマデ・モーツァルトが35歳で死去した[SRC-00880][SRC-00881]。死去の住所は、ラウエンシュタイン街8番地と伝えられる[SRC-00881]。11月20日ごろに重篤化して床に就いたとみられ、依頼を受けて作曲していたレクイエムを未完のまま残した[SRC-00881]。死亡検視を行った主治医クロゼットの記録は、死因を「hitzigem Frieselfieber」(急性の粟粒疹熱)と記した[SRC-00880]。モーツァルテウム財団は、この記載が特定の病名を示すものではなく、死因の短い注記をドイツ語で記すという当時の官庁規則に従った定型的な表記だったと説明する[SRC-00880]。具体的な死因を巡る医学史上の論争は今も続いている[SRC-00882][SRC-00883]。死後まもなくから流布した、同時代のライバル作曲家アントニオ・サリエリによる毒殺という説は、医学的根拠がなく学界では否定されている[SRC-00882]。

本文

1791年11月18日、モーツァルトは最後の完成作品となる、所属するフリーメーソン支部の新会館開設を祝うカンタータを自ら指揮した[SRC-00882]。その2日後の11月20日ごろ、モーツァルトは明らかに重篤化して床に就いたとみられる[SRC-00881]。ある医学史論文は、このときの病状を四肢の痛みを伴う腫脹・寝床で身動きできないこと・激しい発汗と嘔吐・燃えるような頭部の熱感と伝え、病気は全体で15日間続いたとする。この記述のもとになった証言は、死の場に居合わせた義妹ゾフィー・ハイベルの回想であり、本人の死の34年後、コンスタンツェの再婚相手ニッセンによる伝記のために書き記されたもので、同論文自身がその正確性には留保が要ると明記している[SRC-00882]。モーツァルトは、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵の依頼で作曲していたレクイエム(KV 626)を完成させられないまま、この病床についた[SRC-00881]。

主治医クロゼットとサラバによる診断は熱性粟粒疹熱(原文 'heated miliary fever')、すなわち発疹を伴う熱病という一般的な呼称にとどまった[SRC-00882]。モーツァルトは1791年12月5日、ウィーンで死去した[SRC-00880][SRC-00881]。前出の医学史論文は死去の時刻を午前0時55分と伝えるが、典拠は前述の34年後の回想であり、確度は限定的である[SRC-00882]。クロゼット医師による死亡検視記録は、死因を「hitzigem Frieselfieber」(急性の粟粒疹熱)と記載した[SRC-00880]。モーツァルテウム財団は、この記載が特定の疾患を明確に示すものではなく、死因の短い注記をドイツ語で記すという当時の官庁規則に従った定型的な表記だったと説明する[SRC-00880]。同時代のウィーン市医療衛生官グルデナー・フォン・ローベスは、1824年の回顧で、モーツァルトが「晩秋にリウマチ性・炎症性の熱病にかかった」とし(本人を直接診察してはいなかったが、この症例について主治医クロゼットとほぼ毎日相談していたと同論文は記す)、同じ時期にウィーンの住民の多くが同様の症状・転帰をたどったと述べている[SRC-00882]。

モーツァルテウム財団によれば、後年の報告では、モーツァルトの棺は12月6日午後3時ごろ、シュテファン大聖堂脇の十字架礼拝堂で祝別(eingesegnet)を受けたとされる。そこから同日夕方のうちに、当時市街から約4km離れていた聖マルクス墓地へ運ばれた(この経路自体は、ウィーン市の郷土史レファレンスも独立に記している)[SRC-00880][SRC-00881]。埋葬は当時の身分に応じた「第三階級の埋葬(Begräbnis dritter Klasse)」であり、通常4〜5名の遺体を合葬する墓標のない共同墓穴(シャハト墓)に葬られたが、これは貧困層向けの施し埋葬ではなく、当時の埋葬規則(ストール規定)に基づく一般的な形式だったと同財団は説明する。この経緯はシュテファン主任司祭区の死亡台帳に1791年12月6日の項として記録されている[SRC-00880]。埋葬(土中への埋葬行為)そのものが実際に何時行われたかについては史料により見解が分かれる(後述の異説を参照)[SRC-00884]。

歴史的背景

18世紀のウィーンでは、結核や感染性の熱病など致死性の高い病気が日常的に流行しており、モーツァルトの死もこうした時代背景の中で起きた[SRC-00882][SRC-00883]。モーツァルテウム財団の説明によれば、当時の死亡検視記録は、死因を特定の疾患名ではなく短い定型句でドイツ語表記するという官庁規則に従っており、モーツァルトの検視記録もこの枠組みの中で作成されたという[SRC-00880]。埋葬の形式(共同墓穴への埋葬・墓標なし)も、モーツァルト個人への冷遇ではなく、当時の身分に応じた一般的な埋葬規則の適用だったと、同財団は説明する[SRC-00880]。死因を明確に特定する記録がないことから、様々な伝説が流布していると同財団は述べている[SRC-00880]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1791年11月18日(グレゴリオ暦) モーツァルトが最後の完成作品(フリーメーソン支部のためのカンタータ)を指揮する [SRC-00882]
1791年11月20日ごろ(グレゴリオ暦) 重篤化して床に就いたとみられる。レクイエムは未完のまま残される [SRC-00881]
1791年12月5日午前0時55分(グレゴリオ暦) ウィーンの住居で死去する(時刻は34年後の回想に基づく伝承) [SRC-00880][SRC-00881][SRC-00882]
1791年12月6日午後(グレゴリオ暦) 十字架礼拝堂で祝別(eingesegnet)を受けたとされ、同日夕方に聖マルクス墓地へ移送される(埋葬の実施時点は史料により見解が分かれる — 異説を参照) [SRC-00880]
1824年(グレゴリオ暦) ウィーン市医療衛生官グルデナー・フォン・ローベスが、同時期に多くの市民が同様の熱病で死去したと回顧する [SRC-00882]
2009年(グレゴリオ暦) 疫学的研究が、モーツァルトの最期の病と死は連鎖球菌感染後糸球体腎炎による急性腎炎症候群に起因するという説と「矛盾しない」と結論づける [SRC-00883]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

死因を巡る医学史上の対立: モーツァルトの具体的な死因については、現代の医学史研究者の間でも評価が分かれている。評伝的研究(Jenkins, 1991)は、当時ウィーンで流行していた急性の感染性熱病(連鎖球菌性敗血症の可能性を含む)に一致するとし、「モーツァルトが晩年に慢性腎疾患を患い腎不全で死去した」という広く信じられた見方には医学的証拠が全くないと明確に退ける。また、死因が毒物によるものだったとする説についても、医学的根拠は一切なく今日では完全に否定されているとする[SRC-00882]。一方、その後の疫学的研究(Zegers・Weigl・Steptoe, 2009)は、1791年前後のウィーンの公式死亡登録簿を分析し、モーツァルトの死の前後数週間に若年男性の浮腫による死亡が顕著に増加していたことを示したうえで、モーツァルトの最期の病と死は連鎖球菌感染後糸球体腎炎による急性腎炎症候群に起因するという説と「矛盾しない(consistent with)」と結論づけている。同論文の要旨は、毒殺を含め従来唱えられてきた諸説を列挙したうえで、この独自の分析を示す構成をとっている[SRC-00883]。

「サリエリによる毒殺」という俗説: モーツァルトの死後まもなくから、同時代のライバル作曲家アントニオ・サリエリによる毒殺という説が流布し、その後も様々な形で語り継がれてきた[SRC-00882]。モーツァルテウム財団も、正確な死因については研究者の間で今も議論が続いているとしつつ、「毒物ではなかった(Gift war es nicht)」という一点でだけは研究者の見解が一致していると明記する[SRC-00880]。前出の医学史論文も、モーツァルトがサリエリやフリーメーソンら誰かに毒殺されたとする医学的根拠は一切なく、この説は今日では完全に否定されていると明記する[SRC-00882]。本サイトは、この毒殺説を史実としてではなく、死後に広く流布し今日まで残る伝説として紹介するにとどめる。

埋葬の実施時点を巡る資料の相違: モーツァルテウム財団の記録は、遺体が12月6日夕方のうちに聖マルクス墓地へ運ばれ、シュテファン主任司祭区の死亡台帳には同日の項として記載されていることを伝えるが、埋葬(土中への埋葬行為)そのものが何時行われたかは明記していない[SRC-00880]。ウィーン市の郷土史レファレンスの別項目は、埋葬について「entweder noch in den Nachtstunden oder, wahrscheinlicher, erst am Vormittag des nächsten Tags」(夜間のうちに行われたか、より確からしくは翌日午前になってから行われた)と記しており、実施時点についての記述は史料の中でも割れている[SRC-00884]。

論点 出典 学界での位置づけ・備考
具体的な死因 評伝的研究(Jenkins, 1991): 急性の感染性熱病(連鎖球菌性敗血症の可能性を含む)。腎不全説には医学的証拠がない [SRC-00882]
(同上) 疫学的研究(Zegers・Weigl・Steptoe, 2009): 連鎖球菌感染後糸球体腎炎による急性腎炎症候群と矛盾しない [SRC-00883] 決着していない
死因は毒殺(サリエリによる) 死後まもなくから流布した俗説 [SRC-00882] 医学的根拠はなく学界では否定されている
埋葬の実施時点 12月6日夜間、または、より確からしくは翌日午前 [SRC-00884] 史料内で留保が示されており確定していない

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

モーツァルトはレクイエムという未完の大作を残し[SRC-00881]、死因を特定できるだけの記録も残らなかった。これらのことが、後世に多くの憶測を生む土壌になった[SRC-00880]。18世紀末のウィーンでは、感染性の熱病による若年層の死は珍しくなかったが[SRC-00882][SRC-00883]、モーツァルトほどの著名人の急死は、同時代から「何か特別な理由があったはずだ」という物語を求める心理を刺激し、死後まもなく毒殺説が流布する契機になったと考えられる(本サイトの整理)。医学史研究のうち、Jenkins(1991)は毒殺説を医学的根拠がないと明確に退けている[SRC-00882]。具体的な死因そのものについては、Jenkins・Zegers等(2009)の研究の間で今も決着していない[SRC-00882][SRC-00883]。

現代の視点

死因を特定できないという事実は、200年以上を経た今も医学史の研究対象であり続けている[SRC-00882][SRC-00883]。同時に、死亡検視記録の急性の粟粒疹熱という定型的な表記や、共同墓穴への埋葬という当時ごく一般的だった慣行は、後世には「謎に包まれた死」「不遇な最期」という物語として読み替えられてきた面もある(本サイトの整理)。埋葬の実態——身分に応じた通常の埋葬であり、貧困や粗略な扱いを意味しなかったこと——は、死亡検視記録の定型的な文言と同様、後世の物語とは異なる史料の姿を伝えている[SRC-00880]。

出典一覧

  1. [SRC-00880] Wolfgang Amadé Mozart(「Mozarts Tod」節を含む伝記ページ)/Internationale Stiftung Mozarteum Salzburg(ランクA)
  2. [SRC-00881] Wolfgang Amadeus Mozart – Wien Geschichte Wiki/Wien Geschichte Wiki(ウィーン市サービス。原典典拠は Felix Czeike: Historisches Lexikon Wien)(ランクB)
  3. [SRC-00882] The Medical History and Death of Mozart/Journal of the Royal College of Physicians of London(PMC経由。Royal College of Physicians of London発行)(ランクA)
  4. [SRC-00883] The death of Wolfgang Amadeus Mozart: an epidemiologic perspective/Annals of Internal Medicine(American College of Physicians)(ランクA)
  5. [SRC-00884] Mozart-Grab – Wien Geschichte Wiki/Wien Geschichte Wiki(ウィーン市サービス。原典典拠は Felix Czeike: Historisches Lexikon Wien)(ランクB)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-06
22026-09-06あり
32026-09-06あり

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