1868年江戸時代
江戸城無血開城 — 西郷隆盛と勝海舟の会談で、総攻撃が中止された
日付と暦
- 原典表記
- 慶応4年4月11日(和暦・太陰太陽暦)
- 換算
- 1868-05-03(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 4月11日のページ
暦の注記: この出来事は和暦(太陰太陽暦)の慶応4年4月11日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1868年5月3日)[SRC-01901]。この換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」への照会値による(年の干支は戊辰・月の干支は丁巳・日の干支は己丑)[SRC-01901]。改暦境界(1582年10月・明治5年12月〜6年1月)には該当しない。元号境界には該当する——4月11日当日に効力を持っていた元号は慶応であり、明治への改元の詔が発せられたのは同年9月8日である[SRC-01678]。本サイトでは4月11日当日の原典元号に従い慶応4年4月11日を原典日付とし、04-11のページに掲載している。ただし同年9月8日の明治改元の詔は「慶応4年を明治元年とすることとされました」(国立公文書館の解説による)という年単位の遡及的な改称であり、コトバンク収載の一部事典(改訂新版世界大百科事典・山川日本史小辞典)も「1868年(明治1)」「1868年(明治元)」と遡及表記する[SRC-01678][SRC-01900]。これは異説ではなく、遡及適用という改元の詔の性質に基づく編集方針の相違である(異説・論争欄参照)。
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概要
慶応4年4月11日(グレゴリオ暦換算1868年5月3日)、江戸幕府の本拠・江戸城が新政府軍(東征軍)に明け渡された[SRC-01900][SRC-01901]。前月の3月13日・14日、江戸・三田の薩摩藩邸で東征軍参謀西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁勝海舟(ブリタニカ国際大百科事典は「幕府陸軍奉行」と記す)が会談し、当初3月15日に予定されていた江戸城総攻撃は中止された[SRC-01900]。総攻撃が中止された要因については、西郷・勝の合意そのものを中心に記す出典と、英国公使パークスの働きかけや政府内部の嘆願を要因に挙げる出典とがあり、力点の置き方が分かれる[SRC-01900]。
本文
鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、慶応4年(1868)2月、江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎し、後事を勝海舟らに託したと日本大百科全書は記す[SRC-01900]。新政府軍は東征軍を結成して江戸へ進軍を開始し、江戸城への総攻撃の日を3月15日と決めた[SRC-01900]。
総攻撃を前に、山岡鉄舟が慶喜の依頼と勝海舟の支持を受けて駿府へ赴き、3月9日、東征軍参謀西郷隆盛と会見した。静岡県立中央図書館は、この会見で西郷が慶喜助命の7か条を示したと記す[SRC-01903]。この予備会見を経て、3月13日・14日、江戸・三田の薩摩藩邸で西郷と勝海舟が会談した[SRC-01900]。コトバンク収載6事典のうち、会談の場に言及するのは日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・山川日本史小辞典の3事典で、いずれも「薩摩藩邸」と記す(日本大百科全書のみ「江戸・三田の薩摩藩邸」と所在地も明記する)。残る改訂新版世界大百科事典・百科事典マイペディア・旺文社日本史事典は会談の場に言及しておらず、これは否定ではなく沈黙である[SRC-01900]。大田区立勝海舟記念館は、これに加えて「池上本門寺での交渉」も経たと記し、他の登録出典にはない情報を伝える[SRC-01902]。
会談では、慶喜の助命や水戸での謹慎、江戸城・軍艦・兵器の引き渡しなどが条件として合意され、総攻撃は中止された[SRC-01900]。この決着に至った要因については出典間で力点が異なり、西郷・勝の合意そのものを主因とする出典と、英国公使パークスの圧力や政府内部の嘆願を要因に挙げる出典があり、本サイトはいずれが正しいかを判定しない[SRC-01900]。
4月4日には勅使が入城して朝旨を伝え、4月11日、江戸城は正式に明け渡された。日本大百科全書はこの日に慶喜が上野を出て水戸へ向かったと記す。4月21日には東征大総督が入城し、接収が完了した[SRC-01900][SRC-01901]。
歴史的背景
慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、新政府は慶喜を朝敵として追討する方針をとり、有栖川宮熾仁親王を大総督、西郷隆盛を参謀とする東征軍を編成した[SRC-01900][SRC-01903]。他方、関東では一揆や打ちこわしが頻発しており、これを受けて勝海舟と西郷隆盛の会談が行われ、総攻撃は回避されたと山川日本史小辞典は記す[SRC-01900]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 和暦・慶応4年1月 | 鳥羽・伏見の戦い。新政府軍が東征軍を編成し江戸へ進軍開始 | [SRC-01900][SRC-01903] |
| 和暦・慶応4年2月 | 徳川慶喜、江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎 | [SRC-01900] |
| 和暦・慶応4年3月6日 | 新政府軍、江戸城総攻撃の日を3月15日と決定(改訂新版世界大百科事典のみ決定日を明記) | [SRC-01900] |
| 和暦・慶応4年3月9日(グレゴリオ暦換算1868年4月1日) | 山岡鉄舟、駿府で西郷隆盛と会見。西郷が慶喜助命の7か条を示したという | [SRC-01901][SRC-01903] |
| 和暦・慶応4年3月13日・14日(グレゴリオ暦換算1868年4月5日・6日) | 西郷隆盛・勝海舟、江戸・三田の薩摩藩邸で会談。総攻撃中止・開城条件で合意 | [SRC-01900][SRC-01901] |
| 和暦・慶応4年4月4日(グレゴリオ暦換算1868年4月26日) | 勅使橋本実梁・柳原前光、江戸城に入城し朝旨を伝える | [SRC-01900][SRC-01901] |
| 和暦・慶応4年4月11日(グレゴリオ暦換算1868年5月3日) | 江戸城、正式に新政府軍へ明け渡される。徳川慶喜、水戸へ向かう(日本大百科全書) | [SRC-01900][SRC-01901] |
| 和暦・慶応4年4月21日(グレゴリオ暦換算1868年5月13日) | 東征大総督有栖川宮熾仁親王、入城し接収完了 | [SRC-01900][SRC-01901] |
| 和暦・慶応4年9月8日 | 明治改元の詔。慶応4年を明治元年と改める(年単位の遡及適用) | [SRC-01678] |
異説・論争定説のない論点があります
調査範囲は本記事が挙げた5件の出典(コトバンク収載6事典・国立天文台暦計算室・大田区立勝海舟記念館・静岡県立中央図書館/静岡県歴史文化情報センター・国立公文書館「日本のあゆみ」)に限る。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 総攻撃中止の主因 | 西郷・勝の会談合意そのものが中心的要因 | 山川日本史小辞典・旺文社日本史事典(英国側の関与に触れない) | 本サイトはこの評価とパークス関与説のいずれが正しいかを判定しない |
| 総攻撃中止の主因 | 英国公使パークスの圧力・政府内部の嘆願(徳川一門・輪王寺宮・静寛院宮)が要因の一つ、または要因として作用 | 日本大百科全書(複数要因の並記)・ブリタニカ国際大百科事典(パークスの圧力と岩倉具視の思惑を明記)・改訂新版世界大百科事典(西郷がパークスの意向を「聞いた」ことに言及) | 同上。力点の置き方が系統により異なる |
| 西郷・勝会談の場 | 薩摩藩邸(日本大百科全書は「江戸・三田の薩摩藩邸」と所在地も明記) | コトバンク収載6事典のうち会談の場に言及する3事典(日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・山川日本史小辞典)。残る3事典(改訂新版世界大百科事典・百科事典マイペディア・旺文社日本史事典)は会談の場に言及しない | 会談の場に言及する3系統で一致する記述。沈黙する3系統は否定ではない |
| 西郷・勝会談の場 | 薩摩藩邸に加え、新政府軍の本陣が置かれた池上本門寺での交渉も経た | 大田区立勝海舟記念館 | 他の登録出典にはない情報。排他的な対立ではなく詳細度の相違の可能性があり、本サイトはいずれが正確かを判定しない |
| 山岡鉄舟・西郷会見(3月9日)で示された条件 | 慶喜助命のための7か条 | 静岡県立中央図書館 | 他の登録出典にこの詳細の言及はなく、単独明記出典として扱う |
| 事件当時の元号表記 | 「慶応4年」(4月11日当日に効力を持つ元号) | 国立天文台照会・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・百科事典マイペディア・旺文社日本史事典 | 本サイトの暦運用規則(当該日に効力を持つ元号で書く)に従いこちらを採用 |
| 事件当時の元号表記 | 「1868年(明治1)」「1868年(明治元)」(9月8日の改元の詔による年単位の遡及表記) | 改訂新版世界大百科事典・山川日本史小辞典・国立公文書館「日本のあゆみ」(ART-00189五箇条の御誓文で同型の遡及表記を確認済み) | 異説ではなく編集方針の相違。改元の詔自体が年始への遡及適用という性質を持つため、政府機関の解説もこの表記を採る |
関連する出来事
- 鳥羽・伏見の戦い(慶応4年〔1868〕1月): 新政府軍が幕府軍を破り、慶喜追討・東征軍編成の契機になった[SRC-01900][SRC-01903](記事未作成)
- 上野戦争(彰義隊の戦い)(慶応4年5月15日): 江戸城明け渡し後も上野に拠って抗戦を続けた彰義隊が新政府軍に攻撃され壊滅したと日本大百科全書は記す[SRC-01900](記事未作成)
- 明治改元の詔(慶応4年9月8日): 慶応4年を明治元年と改める年単位の遡及的な改称が行われた[SRC-01678](記事未作成)
関連人物
- 西郷隆盛(さいごうたかもり) — 東征軍(大総督府)参謀。西郷・勝会談で交渉にあたった[SRC-01900]
- 勝海舟(かつかいしゅう) — 旧幕府陸軍総裁(ブリタニカ国際大百科事典は「幕府陸軍奉行」と記す)。西郷との会談で開城の条件をまとめた[SRC-01900][SRC-01902]
- 徳川慶喜(とくがわよしのぶ) — 江戸幕府第15代将軍。上野・寛永寺で謹慎し、4月11日に水戸へ向かったと日本大百科全書は記す[SRC-01900]
歴史的意義
江戸城の明け渡しにより、江戸は大規模な市街戦を経ずに新政府軍の支配下に入った[SRC-01900]。もっとも、この時点で関東全域が新政府の統制下に入ったわけではなく、江戸湾には榎本武揚の旧幕府艦艇が、北関東には大鳥圭介率いる旧幕府軍があり、上野に拠った彰義隊は新政府軍と対立を続けたと日本大百科全書は記す[SRC-01900]。5月15日、新政府軍は上野を攻撃して彰義隊を壊滅させ、同月24日には徳川氏処分案を示して徳川亀之助(家達)を駿府70万石に封じ、ここに関東は新政府軍の支配下に入ったと同事典は記す[SRC-01900]。戦場はその後、東北地方へと移った[SRC-01900]。本サイトは、江戸城明け渡しの当事者(新政府軍・東征軍と旧幕府側)のいずれについても、行動の正当性を判定する立場をとらない。
現代の視点
この出来事を題材にした海音寺潮五郎の歴史小説『江戸開城』(1976年刊行)が、コトバンク収載のデジタル大辞泉プラスに紹介されている[SRC-01900]。駿府における山岡鉄舟と西郷隆盛の予備会見の地には「西郷・山岡会見記念碑」が設けられており、静岡県立中央図書館・静岡県歴史文化情報センターが史跡として案内している[SRC-01903]。また、勝海舟が晩年に構えた別荘「洗足軒」は現在の大森第六中学校の地に構えられ、のちに海舟墓所南隣(現・大田区立勝海舟記念館前庭部分)へ移築されたが、戦後焼失したため現存しないと同記念館は記す。洗足池のほとりにある「勝海舟夫妻墓所」は現存し、地域の方にも親しまれていると同記念館は記す[SRC-01902]。これらは本サイトの見立てであり、出典が直接「現代的意義」として述べるものではない。
出典一覧
- [SRC-01900] 江戸開城(コトバンク収載: 日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・改訂新版世界大百科事典・百科事典マイペディア・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典 三訂版・デジタル大辞泉プラスの言及)/コトバンク(株式会社DIGITALIO運営/朝日新聞社・VOYAGE MARKETING等)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-01901] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 慶応4年3月9日・3月13日・3月14日・4月4日・4月11日・4月21日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
- [SRC-01902] 勝海舟と大田区(大田区立勝海舟記念館)/大田区(大田区立勝海舟記念館)(ランクA)
- [SRC-01903] 西郷・山岡会見記念碑~慶喜助命、江戸無血開城へ~(静岡県立中央図書館/静岡県歴史文化情報センター「幕末・明治初期の文化財案内」)/静岡県(静岡県立中央図書館/静岡県歴史文化情報センター)(ランクA)
- [SRC-01678] 明治元年(1868)9月|一世一元の制となる:日本のあゆみ/国立公文書館(ランクS)
本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。
訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-29 | あり |
| 2 | 2026-09-29 | あり |
| 3 | 2026-09-29 | あり |
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