西郷隆盛は、朝鮮への使節派遣を退けられ、参議の辞表を提出した
日付と暦
- 原典表記
- 1873年10月23日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1873-10-23(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 10月23日のページ
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概要
明治6年(1873年)10月23日、参議西郷隆盛は、参議と近衛都督の辞表を提出した[SRC-00499]。前日の22日、西郷・副島種臣・板垣退助・江藤新平の参議四人が右大臣岩倉具視の私邸を訪れて会談となったが、参議一同は「致方ナシ」といって引き取った[SRC-00499]。23日朝、岩倉は仮皇居で天皇に奏上したが、天皇は即答を避けて翌日返答すると答えた[SRC-00499]。西郷はこの日のうちに辞表を書き、返答を待たずに自宅を出て別邸に移った[SRC-00499]。翌24日、天皇は岩倉の上奏を嘉納する勅書を与え、西郷の参議・近衛都督の辞職を許可した[SRC-00499]。同じ24日、板垣・江藤・後藤象二郎・副島の4参議も辞表を提出し、政府は大きく分裂した[SRC-00499][SRC-00501]。辞表提出の日付には出典間に割れがあり[SRC-00500][SRC-00502]、その内容は「異説・論争」に記す。
本文
発端は明治6年5月、釜山の大日本公館(旧倭舘)駐在の広津弘信が、日本人の密貿易を禁じる朝鮮側の掲示のなかに日本に対する無礼な句があったと報じたことだった[SRC-00500]。閣議で参議板垣退助は出兵論を主張したが、西郷隆盛はこれに反対し、自ら使節となって朝鮮に赴くことを提起した[SRC-00500][SRC-00501]。この提起をどう読むかで学説は分かれている[SRC-00499][SRC-00500][SRC-00501](異説・論争 論点1)。8月17日の閣議は西郷使節の朝鮮派遣を議決したが、西郷自身は出席せず期日も定めず、特命全権大使岩倉具視は帰国途上の船中だった[SRC-00499]。正式決定は岩倉使節団の帰国をまつこととしたと改訂新版世界大百科事典は記す[SRC-00502]。
9月13日、岩倉が帰国した[SRC-00499]。10月に入って大久保利通と副島種臣が参議に就任し、10月14日・15日の閣議で西郷の早期派遣が争点となり、15日、太政大臣三条実美は西郷の派遣を認める決定を下した[SRC-00499]。岩倉・大久保が反発する中、板挟みの三条は10月18日に病で倒れて執務不能となった[SRC-00499]。翌19日の閣議は、岩倉を太政大臣代行に命ぜられたいと宮内卿徳大寺実則に奏請し、20日、三条邸に続いて岩倉邸への行幸が行われ、その場で岩倉は太政大臣代行を命じられた[SRC-00499]。岩倉と大久保は、15日の閣議決定と岩倉自身の反対意見の双方を天皇へ上奏し裁断を仰ぐ方針を21日までに固めた[SRC-00499]。
23日朝、岩倉は仮皇居に参内し、天皇と対面して奏上した[SRC-00499]。天皇の返答は「国家重事件厚御賢考可被遊ニ付、明朝御返事可伺出」というもので、即答を避けて明日答えるとしたのだと高橋秀直は記す[SRC-00500]。この日、西郷は朝、早々に参議などの辞表を書き、日本橋小網町の自宅を出て小梅村の別邸に移った[SRC-00499]。
翌24日午前9時、天皇は岩倉を召見して「汝具視カ奏状、之ヲ嘉納ス」との勅書を与えた[SRC-00499]。この日、天皇は西郷の参議と近衛都督の辞職を許可したが、陸軍大将の辞職と位記返上は許さなかった[SRC-00499]。同じ24日、板垣・江藤・後藤・副島が辞表を提出し、翌25日に許可となり、大久保と木戸孝允の辞表は却下された[SRC-00499]。10月28日朝、西郷は東京を発って鹿児島に向かい、再び東京の地を踏むことがなかった[SRC-00499]。
歴史的背景
岩倉使節団の外遊中、留守政府では各省庁が独自に改革を進めようとし、これを抑えようとする大蔵省と対立が生じ、内訌の激しい不安定な政府となっていたと高橋秀直は記す[SRC-00500]。大久保利通は、岩倉からの再三の懇請を受けて10月9日に参議就任を決意し、その前後にアメリカに留学中の長男彦熊・次男伸熊に宛てて遺書を残していたと佐々木克は記す[SRC-00499]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1873年8月17日(グレゴリオ暦) | 西郷不在の閣議で朝鮮派遣を議決。正式決定は岩倉使節団の帰国待ちに | [SRC-00499][SRC-00502] |
| 1873年9月13日(グレゴリオ暦) | 岩倉具視、欧米視察から帰国 | [SRC-00499] |
| 1873年10月14日・15日(グレゴリオ暦) | 閣議で西郷の早期派遣が争点に。15日、太政大臣三条実美が派遣を認める決定 | [SRC-00499] |
| 1873年10月18日(グレゴリオ暦) | 三条実美、板挟みの末に病で倒れ執務不能に | [SRC-00499] |
| 1873年10月19日(グレゴリオ暦) | 閣議、岩倉具視を太政大臣代行に命ぜられたいと徳大寺実則へ奏請 | [SRC-00499] |
| 1873年10月20日(グレゴリオ暦) | 三条邸・岩倉邸への行幸。岩倉、その場で太政大臣代行を命じられる | [SRC-00499] |
| 1873年10月22日(グレゴリオ暦) | 西郷・副島・板垣・江藤の参議四人が岩倉邸で会談。参議一同は「致方ナシ」といって引き取る | [SRC-00499] |
| 1873年10月23日(グレゴリオ暦) | 岩倉、仮皇居で天皇に上奏。天皇は即答を避ける。西郷、参議などの辞表を書き自宅を離れる | [SRC-00499] |
| 1873年10月24日(グレゴリオ暦) | 天皇、岩倉の上奏を嘉納。西郷の辞職を許可。板垣・江藤・後藤・副島も辞表提出 | [SRC-00499][SRC-00501] |
| 1873年10月25日(グレゴリオ暦) | 板垣・江藤・後藤・副島の辞表、許可となる | [SRC-00499] |
| 1873年10月28日(グレゴリオ暦) | 西郷、東京を発ち鹿児島へ | [SRC-00499] |
暦の注記: 1873年(明治6年)は日本の改暦境界に該当する年だが、本記事が扱う10月23日は改暦から10か月余りのちであり、上表の日付はいずれもグレゴリオ暦である。旧暦から新暦への換算は発生しない(詳細は frontmatter conversion_note を参照)。上表は10月22日〜25日について佐々木克の記述を採っている。異なる日付を与える出典があることは論点3に記す。
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
論点1: 西郷が求めた「使節派遣」をどう読むか。 本記事が引く出典のなかで、読みは三つに分かれる(本サイトの整理)。
第一に、西郷は征韓論を唱えて敗れたとする語りがある[SRC-00501]。コトバンク「西郷隆盛」に収載された百科事典マイペディア(「征韓論に敗れて帰郷」)・旺文社日本史事典(「征韓論を唱え,敗れて下野」)・ブリタニカ国際大百科事典(「征韓論を唱えて政府にいれられず辞職」)・新訂政治家人名事典(「征韓の議が容れられず退官」)がこれにあたる[SRC-00501]。
第二に、西郷が求めたのは平和的交渉だったとする読みがある[SRC-00501]。日本大百科全書の執筆者・毛利敏彦は、この政変は「通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが」と述べたうえで、西郷は征韓論に反対し平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求めて朝鮮使節を切望したのが「真相」であると論じる[SRC-00501]。同じコトバンク「西郷隆盛」に収載された精選版日本国語大辞典も「征韓論に対し遣韓使節による平和交渉を唱えて反対され」と記しており、同一ページ内で第一の語りと併存している[SRC-00501]。
第三に、その使節派遣こそ開戦への手順だったとする読みがある[SRC-00499][SRC-00500][SRC-00502]。佐々木克は、西郷を筆頭とする五参議は「朝鮮との戦争になる場合も想定していたことから外征派ともいわれた」と記し、西郷の8月17日付板垣宛書簡について、朝鮮が使節を「暴殺」するに相違ないからそうなれば「いよいよ戦いに持ち込む」ことが出来るといい、「自分の役目は朝鮮との開戦に至るまでの『手順』を立てること」だと述べていると読解する[SRC-00499]。高橋秀直は、交渉不成功の場合は開戦につながるものであり交渉成功の見通しはきわめて低かったとして「西郷の提案は開戦を期した主張だった」「自らの遣使→交渉失敗→開戦という手順をふんで開戦に持ち込もうとしたのである」と論じる[SRC-00500]。コトバンク「征韓論」に収載されたブリタニカ国際大百科事典も「西郷隆盛は、まず自分が使節として朝鮮に渡り、交渉決裂後出兵すべきだとした」と記す[SRC-00502]。ブリタニカは「西郷隆盛」項では第一の語りを、「征韓論」項では第三の読みを載せており、同じ事典のなかで書き分けられている[SRC-00501][SRC-00502]。
なお、改訂新版世界大百科事典「征韓論」項の執筆者・田中彰は、「西郷はあくまで交渉による朝鮮との修交を求めたもので、これまでの彼の征韓論者的イメージを否定する意見も出されている」と、この見方が学界に存在することを紹介する立場である(同項の結びは、征韓論が近代日本の対アジア観の原点であり、その延長線上に大陸侵略政策があったことに留意すべきだ、というものである)[SRC-00502]。
論点2: この政変は政策対立か、権力闘争か。 岩倉具視・大久保利通が中心となって西郷ら五参議の排除を画策した権力闘争であったとする説が現在のところ有力になっているようだ、と佐々木克は述べる[SRC-00499]。佐々木自身は、岩倉が西郷の辞職を予測したとき思いとどまらせる方法がないかと苦慮していたこと、大久保が西郷との対決を覚悟して子への遺書を残していたことなど、権力闘争説をとると説明が苦しくなる事実があると指摘する[SRC-00499]。
論点3: 西郷はいつ辞表を提出したのか。 本記事の出典は三つに割れている(本サイトの整理)。佐々木克は「西郷隆盛が参議の辞表を提出したのが明治六年(一八七三)一〇月二三日。翌日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の四参議も辞表を提出して政府から去った」と記す[SRC-00499]。日本大百科全書(毛利敏彦執筆)も「23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も抗議辞職して」と同じ割り振りを与える[SRC-00501]。これに対し高橋秀直は「西郷は二二日の対決後、辞表を認め帰郷の途についた。板垣・後藤・江藤・副島も二三日辞表を提出した」と記し、いずれも1日早い[SRC-00500]。さらにコトバンク「征韓論」に収載されたブリタニカ国際大百科事典は、西郷の辞任を10月24日、他4参議の下野を翌25日とする[SRC-00502]。
本記事が10月23日を採用したのは、辞表を書いた時刻と移動先まで含めて23日と特定する記述(「この日、西郷は朝、早々に辞表を書き、日本橋小網町の自宅を出て小梅村の別邸に移った」)が佐々木克にあり[SRC-00499]、別著者・別媒体の毛利敏彦がこれと同じ日付を与えている[SRC-00501]ためである(本サイトの整理)。高橋秀直の記述は日付の帰属が「二二日の対決後」という形をとっており、提出の日そのものを名指してはいない[SRC-00500]。この採用は他の説を否定するものではない(本サイトの整理)。
論点4: 10月22日に岩倉邸を訪れた参議は何人か。 佐々木克は「二二日、西郷、副島、板垣、江藤の参議四人が岩倉邸に行き会談となった」と四人とし、翌23日については正院に後藤象二郎と大木喬任が出席していたと記す[SRC-00499]。これに対し高橋秀直は同じ日の会談を「西郷以下征韓派五参議は岩倉邸を訪れ彼と激論を闘わしている」と五人で記す[SRC-00500]。本記事は本文・タイムラインで佐々木の四人を採っている(本サイトの整理)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 西郷の主張の性格 | 征韓論を唱えて敗れた | [SRC-00501] | コトバンク「西郷隆盛」の収載12件中4件(マイペディア・旺文社日本史事典・ブリタニカ・新訂政治家人名事典)[SRC-00501] |
| 西郷の主張の性格 | 平和的交渉を求めた(「遣韓使節」論) | [SRC-00501] | 同12件中3件(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書〔毛利敏彦〕・改訂新版世界大百科事典〔毛利敏彦〕)[SRC-00501] |
| 西郷の主張の性格 | 遣使は開戦への手順だった | [SRC-00499][SRC-00500][SRC-00502] | 本記事が引く査読学術論文2本(佐々木克・高橋秀直)とブリタニカ「征韓論」項 |
| 西郷の主張の性格 | この見方の存在を紹介する立場 | [SRC-00502] | 改訂新版世界大百科事典「征韓論」項の執筆者・田中彰 |
| 政変の性格 | 岩倉・大久保による排除を画策した権力闘争 | [SRC-00499] | 佐々木克によれば「現在のところ有力」 |
| 政変の性格 | 権力闘争説では説明が苦しいとする佐々木克の異論 | [SRC-00499] | 単一の研究者による異論 |
| 西郷の辞表提出日 | 10月23日(他4参議は24日) | [SRC-00499][SRC-00501] | 本記事の採用説(論点3) |
| 西郷の辞表提出日 | 22日の対決後(他4参議は23日) | [SRC-00500] | 査読学術論文(高橋秀直1993) |
| 西郷の辞表提出日 | 10月24日(他4参議は25日) | [SRC-00502] | ブリタニカ国際大百科事典(執筆者名の記載なし) |
| 10月22日の岩倉邸会談 | 参議四人(西郷・副島・板垣・江藤) | [SRC-00499] | 本記事の採用説(論点4) |
| 10月22日の岩倉邸会談 | 征韓派五参議 | [SRC-00500] | 査読学術論文(高橋秀直1993) |
関連する出来事
- 明治4年(1871年)、特命全権大使岩倉具視の一行が米欧諸国巡遊に出発し、西郷隆盛はいわゆる留守政府の中心となったと改訂新版世界大百科事典は記す[SRC-00501]。
- 明治10年(1877年)、鹿児島に引退していた西郷は、私学校派の士族が起こした反乱(西南戦争)に擁せられ、9月24日、鹿児島城山で最期を迎えたと日本大百科全書は記す[SRC-00501]。
関連人物
- 西郷隆盛(さいごう たかもり): 参議・陸軍大将・近衛都督。自ら使節となって朝鮮に赴くことを求めたが容れられず、10月23日に参議・近衛都督の辞表を提出した[SRC-00499][SRC-00501]。
- 岩倉具視(いわくら ともみ): 右大臣、のち太政大臣代行。10月23日、仮皇居で天皇に奏上した[SRC-00499]。
- 大久保利通(おおくぼ としみち): 参議。西郷との対決を覚悟し、留学中の子どもたちへ遺書を残していたと佐々木克は記す[SRC-00499]。
- 三条実美(さんじょう さねとみ): 太政大臣。10月15日には西郷の派遣を認める決定を下したが、板挟みとなり18日に病で倒れ執務不能となった[SRC-00499]。
歴史的意義
西郷・板垣・後藤・江藤・副島の五参議が同時に政府を去ったこの政変は、「明治六年政変」または「征韓論政変」といわれる[SRC-00499][SRC-00503]。改訂新版世界大百科事典は、征韓派と非征韓派の対立を「異質の政治勢力」の対立とみるか「同質の政治勢力の対抗ないし政府主導権の争い」とみるかで多くの見解が出されていると記す(本サイトの整理: この評価の分かれ自体が、政変の性格を単純に一つの型へ収めがたいことを示している)[SRC-00502]。
現代の視点
西郷が「征韓論に敗れて」下野したという語りは、複数の事典に見られる[SRC-00501][SRC-00502]。しかし本記事が引いた5つの出典を並べると、同じ「西郷が使節として朝鮮に赴く」という一つの構想が、平和的交渉の試みとしても、開戦へ至る手順としても読まれてきたことがわかる(本サイトの整理)。何が一次史料で確認できる事実で、何がその事実に与えられた解釈かを区別しながら読むことが、この政変を理解するうえでの手がかりになる(本サイトの整理)。
出典一覧
- [SRC-00499] 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号/奈良大学史学会(機関リポジトリ経由)(ランクA)
- [SRC-00500] 高橋秀直「〈論説〉征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号/史学研究会(京都大学文学部内)(ランクA)
- [SRC-00501] 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00502] 征韓論(せいかんろん)とは? 意味や使い方(コトバンク)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00503] 明治六年の政変(めいじろくねんのせいへん)とは? 意味や使い方(コトバンク)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-03 | — |
| 2 | 2026-09-04 | あり |
| 3 | 2026-09-04 | あり |
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