1603年世界 17世紀
エリザベス1世、1603年3月24日に死去——テューダー朝最後の君主の死は、当時のイングランドの年始慣行では『1602年』の出来事だった
日付と暦
- 原典表記
- 1602年3月24日(当時のイングランドの年始=3月25日起算による旧年始表記)(ユリウス暦)
- 換算
- 1603-03-24(ユリウス暦)
- 掲載日
- 3月24日のページ
暦の注記: この出来事はユリウス暦(当時のイングランドが用いていた暦)の3月24日に起きた(換算先も本サイトの暦運用規則〔一国単位の改暦境界=英国は1752年〕によりユリウス暦の恒等変換とした)[SRC-00044]。加えて当時のイングランドは、1月1日ではなく3月25日を新年とする慣行(旧様式/Old Style)を用いていた[SRC-00044]。ジェームズ1世が建立した記念碑の碑文は、死去の年を当時の年始慣行により「Anno 1602」と刻み、埋葬当事者であるウェストミンスター寺院自身が公式解説の中で「これは旧様式の年表記であり、現在は1603年と呼ばれる」と角括弧の注記を添えている[SRC-01760]。本サイトでは 03-24 のページに掲載している。
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概要
1603年3月24日早朝、リッチモンド宮殿で、イングランド女王エリザベス1世が69歳で息を引き取った[SRC-01756][SRC-01758][SRC-01759]。ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘として生まれ、1558年の即位から44年間[SRC-01757][SRC-01758](治世の第45年目という数え方では45年間[SRC-01759])にわたり王座にあったテューダー朝最後の君主の死だった。生涯独身を貫き直系の後継者を残さなかったエリザベスの死から、わずか数時間後、スコットランド王ジェームズ6世が女王の顧問官たちによりイングランド王ジェームズ1世として即位宣言された[SRC-01758][SRC-01762]。この即位により、イングランドとスコットランドは同一人物を君主とする同君連合となり、イングランドにスチュアート朝が始まった[SRC-01758][SRC-01762]。だが、この「1603年」という年号は、当時のイングランド自身の暦の数え方では通用しない表記でもあった——女王の記念碑の碑文は、死去の年を「1602年」と刻んでいる[SRC-01760]。
本文
エリザベスの晩年は、身近な人々の死が相次ぐ中での心労に彩られていた。長く仕えた侍女キャサリン・ハワードや、かつての寵臣ロバート・デヴァルー(エセックス伯)の死が続き、女王は憂鬱の発作に苦しむようになった[SRC-01759]。晩年、いとこにあたるスコットランド女王メアリーの処刑を命じたことについても悔恨の情を示したとされ、サー・ロバート・ケアリーは、エリザベスが「その女王の死に決して同意していなかったことを示そうと、幾度も涙を流し、ため息をついた」と記録している[SRC-01759]。
死因については、当時検死が許可されなかったため確定していない[SRC-01759]。鉛を含む化粧品「ヴェネツィアン・セルース」の使用による血液中毒とする説、肺炎や連鎖球菌感染(扁桃の感染)、あるいは癌とする説、さらに戴冠の指輪が肉に食い込み、医師が指輪を外すべきだと強く主張してから1週間以内に死去したとする説など、複数の推測が伝えられているが、いずれも確定した事実としては記録されていない[SRC-01759]。この主題について、Royal Museums Greenwichは「死因は激しく争われている主題のままである」と明記している[SRC-01759]。
死去の直前、後継者をめぐるやり取りがあったと伝えられている。エリザベスは生涯を通じて後継者を公に名指しすることを避け続けていた[SRC-01758][SRC-01762]。ある記録によれば、病により言葉を発する力を失っていたエリザベスは、ジェームズ6世への王位継承を望むかと問われた際、両手で頭の周りに円を描く仕草をし、これが同意の意思表示と受け取られたと伝えられている[SRC-01759]。もっとも、この逸話の史料的な位置づけには留保が必要である。エリザベス治世の基本史料であるウィリアム・カムデンの『年代記』の草稿を大英図書館・オックスフォード大学・オープン大学が共同で調査した結果、草稿の改訂の痕跡から見て、エリザベスはデスベッドでジェームズを後継者に指名しなかった可能性が示唆されている[SRC-01763](詳細は下記「異説・論争」参照)。
死去から数時間後、女王の顧問官たちにより、ジェームズ6世をイングランド王ジェームズ1世として宣言する布告が発せられた[SRC-01758]。家系図によってジェームズがヨーク家・ランカスター家双方の血統とスコットランド・スチュアート家の血統を引くことが示され、王位継承の正統性が裏付けられた[SRC-01762]。この即位により、長年対立を繰り返してきたイングランドとスコットランドは、同一人物を君主とする同君連合となった[SRC-01758][SRC-01762]。なお、本記事が扱う射程は、死去の当日に行われたこの即位宣言までである。ジェームズはその後エディンバラからロンドンへ移動しているが[SRC-01762]、その後の戴冠式・統治の詳細は本記事の主題の射程外とする。
歴史的背景
エリザベスが後継者を公に指名しなかったことは、その治世を通じた基本方針だった[SRC-01758][SRC-01762]。1590年代、この方針は次第に大きな政治的懸念を生んだ[SRC-01758]。1594年頃に刊行された、亡命イエズス会士ロバート・パーソンズの著とされる書物『イングランド王位継承についての一考察』(原題 "A conference about the next succession to the crowne of Ingland")は、16名にのぼる王位継承候補者の主張を比較検討し、当時の継承問題をめぐる議論に火をつけた[SRC-01758]。この書物の中でジェームズ6世は候補の一人として挙げられてはいたが、最も正統性のある、あるいは最も望ましい候補として提示されていたわけではなかった[SRC-01758]。候補には、清教徒・プロテスタント双方の陣営にそれぞれの本命候補がおり、ジェームズ6世のほか、レディ・アラベラ・スチュアート、エドワード・シーモア(ボーシャン卿)、ヘンリー・ヘイスティングス(第3代ハンティンドン伯)らが名を連ねていた[SRC-01758]。
候補者の一人ヘイスティングスは、パーソンズの著書刊行の翌年に嗣子なく没し、この争いから退いた[SRC-01758]。エリザベスは血統と信仰(プロテスタント)を理由にジェームズ・スチュアートを後継者として選んだが、それは側近たちが「ジェームズが最善の選択である」と彼女を説得した結果でもあった[SRC-01758]。ジェームズはイングランドと長く敵対してきたスコットランドの出身ではあったが、プロテスタントであり、すでに国王としての治世の実績があり、後を継がせられる健康な子女にも恵まれていた[SRC-01762]。もっとも、エリザベス自身は、死が避けられない状況に追い込まれるまで、後継者の身元を明らかにしないよう徹底していた[SRC-01758]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1602年3月24日(ユリウス暦。当時のイングランドの旧年始表記。現代の年表記では1603年3月24日) | エリザベス1世、リッチモンド宮殿で69歳で死去(本記事の主題) | [SRC-01756][SRC-01758][SRC-01759] |
| 同日(ユリウス暦。当時のイングランドの旧年始表記1602年3月24日・現代表記1603年3月24日) | 女王の顧問官たちにより、ジェームズ6世をイングランド王ジェームズ1世として宣言する布告が発せられる | [SRC-01758] |
| 1606年(ユリウス暦) | ジェームズ1世が建立した記念碑の下の墓所へ、エリザベスの棺が移送される。碑文は死去年を当時の年始表記で「Anno 1602」と刻む | [SRC-01760] |
異説・論争定説のない論点があります
論点1: 治世の年数(44年か45年か)。HISTORY・Historic Royal Palacesは、エリザベスの治世を「44年間(44 years)」と明記する[SRC-01757][SRC-01758]。一方、Royal Museums Greenwichおよびウェストミンスター寺院が紹介する記念碑碑文は、いずれも「45年間(45 years)」あるいは「治世の第45年目(of her reign the 45th year)」と記す[SRC-01759][SRC-01760]。本サイトが確認した範囲では、この差異がどちらかの誤りに由来するのか、それとも「即位から死去までの満年数(44年強)」と「治世の第◯年目、という当時の序数的な数え方(45年目)」という数え方の前提の相違に由来するのかを断定する記述は見当たらなかった(この説明自体は本サイトの整理であり、出典が明示的にそう説明しているわけではない)。本記事では、両方の表記をそのまま併記するにとどめる。
論点2: デスベッドでの後継指名の逸話の真偽。Royal Museums Greenwichが紹介する記録によれば、病により発話能力を失っていたエリザベスは、ジェームズ6世への継承を望むかと問われた際、両手で頭の周りに円を描く仕草をして同意の意思を示したとされる[SRC-01759]。この逸話の出所についてRoyal Museums Greenwich自身は、当該記録が「The Death of Elizabeth I」という著作によるものであることを示している[SRC-01759]。一方、エリザベス治世の基本史料であるウィリアム・カムデンの『年代記』については、大英図書館・オックスフォード大学・オープン大学の共同研究がその草稿原本(大英図書館所蔵)に透過光による画像調査を行った結果、多数の箇所が貼り紙で覆われ書き改められていたことが判明し、草稿の改訂の痕跡から見て、エリザベスはデスベッドでジェームズを後継者に指名しなかった可能性が示唆されている[SRC-01763]。大英図書館は、この改変がジェームズ1世という庇護者の意向を憂慮したカムデンの自己検閲によるものではないかとの見方を紹介している[SRC-01763]。Historic Royal Palaces自身も、この逸話について「その話は伝わっているが、出典は常に信頼できるわけではない」と留保を付けている[SRC-01758]。本サイトが確認した範囲では、この論争に決着はついていない。
論点3: 死因。上記「本文」で述べたとおり、Royal Museums Greenwichは死因を「激しく争われている主題」と明記しており、血液中毒・肺炎・連鎖球菌感染・癌・戴冠の指輪のいずれかに確定する記述は本サイトが確認した出典の範囲には見当たらなかった[SRC-01759]。
論点4: ジェームズの継承は自明だったか。National Library of Scotlandは「エリザベスは終始、後継者について宮廷で議論することを拒んでいたが、多くの人々はスコットランド王ジェームズ6世が唯一ふさわしい候補だと分かっていた」と記す[SRC-01762]。一方、Historic Royal Palacesは「しかし、これは当時、決して既定路線ではなかった」とし、1590年代には他の候補者がジェームズ6世以上に支持されることもあったと記す[SRC-01758]。本サイトが確認した範囲では、この対立に決着はついていない。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 治世の年数 | 44年間 | [SRC-01757][SRC-01758] | 報道機関・専門機関の解説記事が採用する数え方(「即位1558年から死去1603年までの満年数」という説明は本サイトの整理であり、出典が明示的にそう説明しているわけではない) |
| 治世の年数 | 45年間(記念碑碑文は"of her reign the 45th year"と記す) | [SRC-01759][SRC-01760] | 博物館解説記事、および記念碑碑文自身が採用する数え方 |
| デスベッドでの後継指名 | Royal Museums Greenwichは身振り(頭の周りに円を描く仕草)による同意と記す一方、Encyclopaedia Britannicaは身振りには触れず後継者に指名したと記す | [SRC-01759][SRC-01756] | 博物館解説記事が紹介する逸話(出所は別著作「The Death of Elizabeth I」)と、百科事典の解説記事の双方が伝える |
| デスベッドでの後継指名 | 草稿の改訂痕跡から見て、エリザベスはデスベッドでジェームズを指名しなかった可能性がある | [SRC-01763] | 大英図書館・オックスフォード大学・オープン大学共同研究による最新の知見(決着はついていない) |
| 死因 | 血液中毒・肺炎・連鎖球菌感染・癌・戴冠の指輪が肉に食い込んだこと、など複数の説があるが、検死不許可のため確定していない | [SRC-01759] | 「激しく争われている主題」として未解決 |
| ジェームズの継承の自明性 | 多くの人々がジェームズ6世を唯一ふさわしい候補と見なしていた | [SRC-01762] | 国立図書館の展示解説が採る見方 |
| ジェームズの継承の自明性 | 当時決して既定路線ではなく、他の候補が上回って支持されることもあった | [SRC-01758] | 専門機関の解説記事が採る見方(決着はついていない) |
関連する出来事
エリザベス1世の即位(1558年)は、腹違いの姉メアリー1世の死去により実現した[SRC-01757]。エリザベスの死去後、ジェームズ1世はウェストミンスター寺院にエリザベスの記念碑を建立した[SRC-01760]。エリザベスの遺体は、いったん祖父ヘンリー7世の墓所に埋葬されたのち、1606年にこの新しい記念碑の下の墓所へ改葬され、腹違いの姉メアリー1世の棺の上に安置された[SRC-01760]。
関連人物
- エリザベス1世(えりざべすいっせい): ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘。1558年に即位し、44年間[SRC-01757][SRC-01758](治世の第45年目という数え方では45年間[SRC-01759][SRC-01760])イングランド女王を務めた。生涯独身のまま1603年3月24日にリッチモンド宮殿で死去した[SRC-01756]。
- ジェームズ1世(イングランド王)/ジェームズ6世(スコットランド王)(じぇーむずいっせい): エリザベス死去の数時間後、女王の顧問官たちによりイングランド王として即位宣言された、スコットランド王ジェームズ6世と同一人物[SRC-01758][SRC-01762]。この即位によりイングランド・スコットランドの同君連合とスチュアート朝が始まった[SRC-01758]。
歴史的意義
Encyclopaedia Britannicaは、「エリザベスの死をもってテューダー朝の統治は終わった」と記す[SRC-01756]。The National Archivesも、エリザベスを「テューダー朝で最も長く治世した君主」と位置づけている[SRC-01761]。Historic Royal Palacesは、エリザベスの死去を「エリザベス朝の『黄金時代』に日が沈むとともに、テューダー朝にも日が沈んだ」と評している[SRC-01758]。
エリザベスが後継者を公に指名しなかったにもかかわらず、彼女の死からわずか数時間で、王位継承をめぐる大規模な混乱を伴うことなくジェームズ1世が即位した[SRC-01758][SRC-01762]。もっとも、Historic Royal Palacesが記すとおり、この継承は当時「決して既定路線ではなかった」(上記「異説・論争」論点4参照)[SRC-01758]。
現代の視点
現在、エリザベス1世の遺骸はウェストミンスター寺院ヘンリー7世礼拝堂に眠っている[SRC-01760]。エリザベスの記念碑は、彼女自身の後継者であるジェームズ1世が建立したものであり、その碑文が刻む死去年「Anno 1602」は、現代の暦の数え方(1月1日年始)とは異なる、当時のイングランド独自の年始慣行を今に伝える物証となっている[SRC-01760](これは本サイトの解釈であり、寺院自身が碑文の英訳の紹介にこの趣旨の編集注記を添えている)。
出典一覧
- [SRC-01756] Elizabeth I | Biography, Facts, Mother, & Death/Encyclopædia Britannica, Inc.(ランクB)
- [SRC-01757] Queen Elizabeth I dies/HISTORY(A&E Television Networks)(ランクB)
- [SRC-01758] The death and succession of Elizabeth I: claimants to the Tudor crown/Historic Royal Palaces(ランクB)
- [SRC-01759] Little-Known or Unknown Facts Regarding Queen Elizabeth I's Death/Royal Museums Greenwich(ランクA)
- [SRC-01760] Elizabeth I/Westminster Abbey(ランクA)
- [SRC-01761] Elizabeth I's monarchy — The National Archives education resource collection/The National Archives(英国政府)(ランクA)
- [SRC-01762] James VI and the Union of the Crowns — James becomes king/National Library of Scotland(ランクA)
- [SRC-01763] Showing Elizabeth I in a new light/British Library(ランクA)
- [SRC-00044] Calendar (New Style) Act 1750 (24 Geo 2 c.23) — 英国政府公式法令データベース/legislation.gov.uk(The National Archives、英国政府)(ランクS)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-28 | — |
| 2 | 2026-09-28 | あり |
| 3 | 2026-09-28 | あり |
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