ガイ・フォークスは1605年11月4日深夜、ウェストミンスター宮殿の地下で火薬36樽とともに発見された

日付と暦

原典表記
1605年11月5日(ユリウス暦)
換算
1605-11-05(ユリウス暦)
掲載日
11月5日のページ

暦の注記: 議会開会式が予定され、事件が記念される日はユリウス暦の1605年11月5日であり(ユリウス暦換算: 1605-11-05、実質的な暦計算を伴わない識別変換)、発覚はその前夜(11月4日深夜)にあたる[SRC-00614]。イングランドは大陸諸国が1582年にグレゴリオ暦へ改暦した後も、1752年9月14日まで旧暦(ユリウス暦)を用い続けたため(R-CAL-9)、この日付は換算後もユリウス暦のままとなる。本サイトでは 11-05 のページに掲載している。共謀者の裁判日について英国庶民院広報室の公式解説は「27 January 1606(1605 OS)」と表記し、これが1752年の改暦(旧暦=ユリウス暦から新暦=グレゴリオ暦への切り替え)を反映した注記であることを脚注で明記している[SRC-00614]。先発グレゴリオ暦での対応日(今日の暦での「11月15日」に相当する数値)を明示する機関の暦日データベース等の出典には到達できなかったため、本記事では独自にその日数を算出していない[SRC-00614]。

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概要

1605年11月4日深夜、ウェストミンスター宮殿の地下貯蔵庫でサー・トマス・ナイヴェットが火薬36樽とガイ・フォークスを発見し、翌5日の議会開会式での爆破計画は未遂に終わった[SRC-00614][SRC-00618]。発覚の端緒はモンティーグル卿へ届いた差出人不明の密告状だった[SRC-00613][SRC-00617]。事件は今も「ボンファイア・ナイト」として記念される一方[SRC-00615]、陰謀の起源を巡っては、国務大臣ロバート・セシルが計画そのものを発案しケイツビーに示唆したとする異説もあるが、英国議会自身はこの見方について有力な証拠はほとんどないとも述べる[SRC-00614]。

本文

計画の中心はウォリックシャー出身の紳士ロバート・ケイツビーで、1604年5月、議会開会式での爆破を提案した[SRC-00612]。共謀者は当初、貴族院隣家からの坑道掘削を試みたが難航し、1605年3月、共謀者が貴族院議場直下の地下貯蔵庫(cellar)の賃借権を得た[SRC-00612]。開会日は延期を重ね最終的に11月5日と定まり、その時点で36樽の火薬が貯蔵庫に運び込まれ、フォークスが番をしていた[SRC-00612][SRC-00614]。

発覚の契機は密告状だった。10月26日、モンティーグル卿はロンドン北部ホクストンの自邸で、議会への出席を控えるよう促す差出人不明の警告状を受け取った[SRC-00613]。手紙を焼くようにという指示には従わず[SRC-00617]、国王の首席大臣ロバート・セシルへ届けた[SRC-00613]。差出人は特定されていないが、英国議会の公式解説はモンティーグル卿の義弟フランシス・トレシャムを最有力候補として挙げつつ、政府内部の人物からという見方も紹介する[SRC-00613]。

11月4日、初期捜索でフォークスと薪・石炭が見つかったが、深夜、サー・トマス・ナイヴェットが貯蔵庫を徹底捜索し、偽名ジョン・ジョンソンを名乗るフォークスと火薬を発見・逮捕した[SRC-00614][SRC-00618]。翌日、庶民院書記官ラルフ・ユーエンズ(またはその助手)は議事録の欄外に「36樽の火薬が議場地下に仕掛けられていた」と書き記した(原文ママ: "36 barrels of gunpowder in the vault under the House")[SRC-00614]。

フォークス以外の共謀者の多くは11月12日までに殺害・逮捕された[SRC-00615]。ケイツビーとパーシーはホルビーチ館で殺害された[SRC-00616]。国王ジェームズ1世は11月6日、フォークスへの拷問使用を認可し、「他の方法で自白しないならば、より穏やかな拷問から先に用いるべし」と指示した(原文ママ: "If he will not other wayes confesse, the gentler tortours are to be the first usid unto him")[SRC-00616]。共謀者8名は1606年1月27日に有罪となり、4名が1月30日、フォークスを含む残り4名が1月31日に処刑された[SRC-00614][SRC-00616]。

歴史的背景

エリザベス1世下でイングランド国教会とローマの断絶が定着した一方、カトリック教徒は国内に多く残っていた[SRC-00614]。スコットランドから迎えられて間もないジェームズ1世への期待は失望に変わり、共謀者は1604年秋のカトリック教徒処刑にも刺激されたとされる[SRC-00614]。イエズス会宣教団の首長ヘンリー・ガーネットら一部の司祭は計画の一端を知りながら思いとどまらせようとしたが、当局へは通報しなかった[SRC-00612]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1604年5月(ユリウス暦) ロバート・ケイツビーが議会開会式での爆破計画を提案 [SRC-00612]
1605年3月(ユリウス暦) 共謀者が貴族院議場直下の地下貯蔵庫の賃借権を取得 [SRC-00612]
1605年10月26日(ユリウス暦) モンティーグル卿が匿名の密告状を受け取り、ロバート・セシルへ届ける [SRC-00613]
1605年11月4日深夜(ユリウス暦) サー・トマス・ナイヴェットが地下貯蔵庫を捜索し、火薬36樽とガイ・フォークスを発見・逮捕 [SRC-00614][SRC-00618]
1605年11月5日(ユリウス暦) 予定されていた議会開会式当日。爆破は未遂に終わる [SRC-00615]
1605年11月6日(ユリウス暦) 国王ジェームズ1世がフォークスへの拷問使用を認可する命令を発する [SRC-00616]
1605年12月23日(ユリウス暦) 共謀者フランシス・トレシャムがロンドン塔で病死 [SRC-00616]
1606年1月27日(ユリウス暦。英国議会の公式資料は「1605 OS」と併記) 生き残った共謀者8名がウェストミンスター・ホールで反逆罪の有罪判決を受ける [SRC-00614][SRC-00616]
1606年1月30日〜31日(ユリウス暦) 共謀者8名が2度に分けて処刑される [SRC-00614][SRC-00616]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

英国議会自身の公式解説は、陰謀の起源について通説と異説を併記している。多くの歴史家が受け入れてきた通説は、これをカトリック教の復権を目指すカトリック教徒側の真剣な最後の企てとする見方である[SRC-00614][SRC-00615]。これに対し、より近年になって一部の論者が唱える異説は、陰謀がプロテスタント側による「扇動者(agents-provocateurs)」の仕業であり、御しやすい者たちを反逆者に仕立ててイエズス会を失墜させ、プロテスタントの優位を強化する狙いだったとするものである[SRC-00614][SRC-00615]。さらに一部の論者は、この陰謀そのものを国務大臣ロバート・セシルが企ててケイツビーに示唆したと推測してきたが、英国議会の公式解説はこの見方について「有力な証拠はほとんどない(there is little evidence to support this)」と明記している[SRC-00614]。本サイトはこの異説を確定した史実としては扱わない。

英国議会自身の解説2件は、密告状による発覚の経緯を述べる文の冒頭でそろって「公式版では(in the official version)」という限定を付しており、公式の説明そのものに距離を置く書き方をしている[SRC-00614][SRC-00615]。密告状についても類似の留保がある。英国議会自身のFAQは、手紙がモンティーグル卿を気遣う仲間のカトリック教徒による本物のものだったのか、それとも政府内部から送られた偽造だったのかは不確かであると明記する[SRC-00615]。さらに別ページの解説は、差出人がセシル自身だった可能性もあり、その場合は共謀者側が政府による華々しい宣伝工作(原文: "a spectacular propaganda coup for the government")のために利用された(set up)ことになる、という留保付きながら踏み込んだ推測にも触れている[SRC-00613]。いずれも「〜と主張されている(it has been claimed)」「〜だったかもしれない(It may even have been)」という留保付きの言及であり、英国議会自身がこれを確定した事実として断定しているわけではない。

火薬の樽数については、到達した出典間で36樽という数字が一致している(英国議会の公式解説・庶民院議事録の同時代の書き込み・英国立公文書館の解説のいずれも36樽と記す)[SRC-00612][SRC-00614][SRC-00617][SRC-00618]。発覚が「深夜(at midnight)」に起きたという時刻表現も複数の出典で一致するが、これが11月4日のうちを指すのか、11月5日に日付が変わった直後を指すのかは、到達した出典の表現("on the 4th of November"に続けて「深夜に捜索した」とする書き方)からは厳密に一意には確定できない。本サイトは各出典の表現をそのまま「11月4日深夜」として記載し、それ以上の時刻の精緻化は行わない。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

陰謀の発覚は、イングランドにおけるカトリック教徒への取り締まりを強めた[SRC-00618]。同時に、11月5日を毎年の感謝の日と定めた法(3 James I, cap 1)が制定され、この法は1859年まで効力を持ち続けた[SRC-00614][SRC-00615]。現代でも11月5日前後は「花火の夜」「ボンファイア・ナイト」「ガイ・フォークス・デー」などと呼ばれ、英国各地で花火を灯し、フォークスに見立てた人形(guy)を燃やす習慣が続いている[SRC-00614][SRC-00615]。英国議会自身も、今なお英国では11月5日前後に花火を灯す習慣が続いていると説明しており(原文: "It is still the custom in Britain on, or around, 5th November to let off fireworks")、事件は400年以上を経た今も、英国の年中行事としての位置を保っている[SRC-00614]。

現代の視点

議会の国事開会式に際しては、今なお開会前にウェストミンスター宮殿の地下がイェオマン・オブ・ザ・ガードによって捜索される[SRC-00615]。英国議会のFAQは、この捜索について、後世のフォークスが地下に潜んでいないことを確かめるための、絵になる慣習として続けられているものであり、真剣な対テロ対策としてではないと述べる(原文: "this is retained as a picturesque custom rather than a serious anti-terrorist precaution")[SRC-00615]。共謀者が実際に使った貯蔵庫そのものは、1834年にウェストミンスター宮殿を襲った火災で焼失し現存しないが[SRC-00615]、事件の記憶は花火とボンファイア・ナイトという形で、制度としての防犯儀礼とは別に、今も英国社会の中に生き続けている(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-00611] Overview of the Gunpowder plot/UK Parliament(英国議会)(ランクA)
  2. [SRC-00612] The Plot/UK Parliament(英国議会)(ランクA)
  3. [SRC-00613] Parliament receives a tip-off/UK Parliament(英国議会)(ランクA)
  4. [SRC-00614] The Gunpowder Plot — House of Commons Information Office Factsheet G8/House of Commons Information Office(英国庶民院広報室)/ UK Parliament(ランクA)
  5. [SRC-00615] Frequently Asked Questions: The Gunpowder Plot/UK Parliament(英国議会)/ House of Commons Enquiry Service(ランクA)
  6. [SRC-00616] Torture, trial and execution/UK Parliament(英国議会)(ランクA)
  7. [SRC-00617] The Monteagle Letter/The National Archives(英国立公文書館)(ランクS)
  8. [SRC-00618] Gunpowder Plot/The National Archives(英国立公文書館)(ランクA)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-04
22026-09-04あり
32026-09-04あり

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