1685年世界 17世紀
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、アイゼナハで生まれる
日付と暦
- 原典表記
- 1685年3月21日(ユリウス暦)
- 換算
- 1685-03-31(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 3月21日のページ
暦の注記: この出来事は当時アイゼナハで用いられていたユリウス暦の1685年3月21日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1685年3月31日)[SRC-01732][SRC-01736]。本サイトでは03-21のページに掲載している。換算値はブリタニカ百科事典・メトロポリタン美術館の記述による[SRC-01732][SRC-01736]。バッハ研究の専門機関であるバッハ資料館ライプツィヒ(バッハ博物館)自身も、現在なお3月21日を「バッハの誕生日」として公式行事の起点にしている[SRC-01737]。
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概要
1685年、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、テューリンゲン地方の町アイゼナハで生まれた[SRC-01732][SRC-01733][SRC-01736]。父ヨハン・アンブロジウス・バッハは、アイゼナハの町および宮廷に仕える弦楽奏者であった[SRC-01732]。誕生から2日後の3月23日、バッハはアイゼナハのゲオルゲン教会で洗礼を受け、教会簿は父を「Haußman」(本サイト訳: 町に仕える楽師)と記している[SRC-01734]。両親は1694年から1695年にかけて相次いで死去し、孤児となったバッハは、オールドルフのオルガニストであった兄ヨハン・クリストフに引き取られた[SRC-01732][SRC-01733]。後年、ライプツィヒの教会音楽監督として週1曲のペースで新作カンタータを量産することもあった職人肌の音楽家は[SRC-01732]、死後一時その音楽と評価が忘れられたが、19世紀にフェリックス・メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を再演したことを機に再評価が進んだ[SRC-01735]。
本文
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1685年、当時エルネスティン系ザクセン諸公国の一つの宮廷所在地であったアイゼナハで生まれた[SRC-01732]。バッハは自身が1735年頃に記した家系図「音楽バッハ家の起源(Ursprung der musicalisch-Bachischen Familie)」の中で、自らの家系を、16世紀末に宗教的迫害によりハンガリーからテューリンゲンのヴェヒマーへ追われた高祖父(四代前)ヴァイト・バッハまで遡らせている[SRC-01732]。もっともこの記述はバッハ自身が記した家系図によるものであり、独立した第三者史料による裏付けは本サイトが確認した範囲では見当たらない。ブリタニカ百科事典自身は、ヴァイト以前からテューリンゲン地方にバッハ姓の者がおり、ヴァイトの移動は出生地への帰還であった可能性も指摘している[SRC-01732]。
父ヨハン・アンブロジウス・バッハは、アイゼナハの町議会と宮廷の双方に仕える弦楽奏者であった[SRC-01732]。アイゼナハ・ゲオルゲン教会の教会簿は、誕生から2日後の1685年3月23日(月曜日)、「町楽師(Haußman、本サイト訳)ヨハン・アンブロジウス・バッハ氏の息子ゼバスティアン」が洗礼を受けたと記録している[SRC-01734]。バッハは1693年から1695年まで地元のラテン語学校に通った[SRC-01733]。1694年5月に母エリーザベトが、1695年2月20日には父アンブロジウスが相次いで死去し、孤児となったバッハは、14歳年上の兄でオールドルフの聖ミヒャエル教会オルガニストであったヨハン・クリストフに引き取られた[SRC-01732][SRC-01733]。バッハはこの兄のもとで鍵盤楽器の手ほどきを受けたとされ、1700年にはリューネブルクの聖ミヒャエル学校の合唱団員に選ばれている[SRC-01732]。
ライプツィヒでトーマス教会カントルを務めた最初の2、3年間、バッハは礼拝用の新作カンタータを、研究によれば時に週1曲のペースで量産したという[SRC-01732]。バッハの死後、その音楽と評価は一時的に忘れられ、専門家以外にはほとんど知られていなかったが[SRC-01735]、1829年3月11日、20歳のフェリックス・メンデルスゾーンがベルリンのジングアカデミーで『マタイ受難曲』の抄録版を指揮し、約1世紀ぶりにドイツの聴衆の前でこの作品を蘇らせたことを機に、バッハの作品全体の再評価が進んだ[SRC-01735]。
歴史的背景
バッハの生地アイゼナハは、当時エルネスティン系ザクセン諸公国の一つの宮廷所在地であった[SRC-01732]。ブリタニカ百科事典は、バッハを「その業績を誇りとする、音楽家からなる注目すべき一族の一員」であったと評しており、バッハは1735年頃、この一族の系譜を遡る家系図を記している[SRC-01732]。同時代の親族にも教会オルガニストなど音楽の実務家がいた[SRC-01732]。バッハの誕生時点で、父ヨハン・アンブロジウス自身がアイゼナハの町議会と宮廷双方に仕える弦楽奏者という、地域社会に組み込まれた音楽職にあった[SRC-01732]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1685-03-21(ユリウス暦。グレゴリオ暦換算1685-03-31) | ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、アイゼナハで誕生 | [SRC-01732][SRC-01733][SRC-01736] |
| 1685-03-23(ユリウス暦) | アイゼナハのゲオルゲン教会で洗礼(教会簿記載) | [SRC-01734] |
| 1694-05(原文に暦種別の明記なし。本記事はユリウス暦とみられると判断。日付も出典に記載なし) | 母エリーザベト死去 | [SRC-01733] |
| 1695-02-20(原文に暦種別の明記なし。本記事はユリウス暦とみられると判断) | 父ヨハン・アンブロジウス死去。孤児となりオールドルフの兄のもとへ | [SRC-01732][SRC-01733] |
| 1829-03-11(グレゴリオ暦・年表範囲) | メンデルスゾーンがベルリンで『マタイ受難曲』を再演し、バッハ再評価の契機となった | [SRC-01735] |
異説・論争定説のない論点があります
(本記事の主題である誕生日そのものについて、複数説の対立は確認されなかった。本節では、誕生日の暦種別表記に加え、確認された記述の性格の相違を扱う)
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 誕生日の暦表記 | ユリウス暦1685年3月21日(原典。当時アイゼナハで実際に用いられていた暦) | [SRC-01732][SRC-01733][SRC-01736] | 対立ではなく暦法の相違。本サイトは原典日付の月日に掲載している |
| 同上 | グレゴリオ暦換算1685年3月31日(現行暦での換算値) | [SRC-01732][SRC-01736] | 対立ではなく換算値。出典が明示する換算値をそのまま転記した(独自換算はしていない) |
| ヴァイト・バッハの出自伝承の性格 | ヴァイト・バッハは16世紀末に宗教的迫害によりハンガリーからテューリンゲンのヴェヒマーへ追われた | [SRC-01732] | バッハ自身が1735年頃に記した家系図によるものであり、独立した第三者史料による裏付けは本サイトが確認した範囲では見当たらない。バッハ家自身の伝承として扱う |
| ヴァイト・バッハ移住の経緯(対立仮説) | ヴァイト以前からテューリンゲン地方にバッハ姓の者がおり、ヴァイトの移動はハンガリーから出生地への帰還であった可能性がある | [SRC-01732] | ブリタニカ百科事典自身が、ハンガリー起源伝承の紹介に続けて示す代替仮説。両論併記する |
関連する出来事
- 1707年10月17日、バッハはドルンハイムで従妹マリア・バルバラ・バッハと結婚した[SRC-01732]。
- 1723年5月13日、バッハはケーテンでの職を離れる許可を得たのち、ライプツィヒで宣誓就任した(トーマス教会カントルの職)[SRC-01732]。
- 1750年7月28日、バッハはライプツィヒで死去した[SRC-01732]。
- 1829年3月11日、メンデルスゾーンがベルリンで『マタイ受難曲』の抄録版を再演した(前述タイムライン参照)[SRC-01735]。
関連人物
- ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(本記事の主題): バロック音楽期の作曲家。ライプツィヒでトーマス教会カントルを務めた[SRC-01732]。
- ヨハン・アンブロジウス・バッハ(父): アイゼナハの町議会と宮廷に仕えた弦楽奏者[SRC-01732]。教会簿は「Haußman」(本サイト訳: 町に仕える楽師)と記す[SRC-01734]。
- ヨハン・クリストフ・バッハ(14歳年上の兄。オールドルフの聖ミヒャエル教会オルガニスト): 両親の死後、幼いバッハを引き取り、鍵盤楽器の手ほどきをした[SRC-01732][SRC-01733]。
- フェリックス・メンデルスゾーン(後世の再評価の契機を作った作曲家): 1829年、ベルリンで『マタイ受難曲』の抄録版を再演した[SRC-01735]。
歴史的意義
ブリタニカ百科事典は、バッハについて、今日では史上最も偉大な作曲家の一人として広く見なされていると記している[SRC-01732]。一方で米国議会図書館の解説記事は、バッハの死後、その音楽と評価は一時的に忘れられ、専門家以外にはほとんど知られていなかったと記しており[SRC-01735]、同時代のバッハ自身は礼拝用の新作カンタータを週1曲のペースで量産することもあった、教会に仕える職務的な音楽家であった[SRC-01732]。今日広く共有されている「後世が最も偉大な作曲家の一人と見なす存在」という評価は、バッハ本人が生前に得ていたものではなく、死後1世紀近くを経た19世紀の再評価を経て形成されたものである[SRC-01732][SRC-01735]。
現代の視点
バッハの教会カンタータの多くは、同時代においては毎週の礼拝という具体的な職務のための教会音楽であった[SRC-01732]。後世にはそこに芸術的価値が見出されるようになったという評価の変化は、歴史上の人物への評価がどれほど異なりうるかを考えるうえでの一例として参照できる。これは本サイトの整理であり、出典が明示的にそう評価しているわけではない。
出典一覧
- [SRC-01732] Johann Sebastian Bach/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
- [SRC-01733] Johann Sebastian Bach – A chronology/Bach-Archiv Leipzig(バッハ資料館ライプツィヒ)(ランクA)
- [SRC-01734] 1685, 23. März (Eisenach): Taufe Johann Sebastian Bachs in der Georgenkirche/jsBach.de(Bach-Archiv Leipzig系列「Bachs Welt / Dokumente」プロジェクト)(ランクA)
- [SRC-01735] Felix Mendelssohn: Reviving the Works of J.S. Bach/Library of Congress(アメリカ議会図書館)(ランクA)
- [SRC-01736] Happy Birthday, Johann Sebastian/The Metropolitan Museum of Art(メトロポリタン美術館)(ランクA)
- [SRC-01737] Bachs Geburtstag/Bach-Museum Leipzig(Bach-Archiv Leipzig運営)(ランクA)
本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。
訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-27 | — |
| 2 | 2026-09-27 | あり |
| 3 | 2026-09-28 | あり |
訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。