1689年世界 17世紀

権利の宣言は、1689年2月13日(当時の年表記では1688年)にウィリアム3世とメアリー2世へ提示された——10か月後に成立した「権利の章典」とは、別の日付を持つ文書である

日付と暦

原典表記
1688年2月13日(ユリウス暦)
換算
1689-02-13(ユリウス暦)
掲載日
2月13日のページ

暦の注記: この出来事はユリウス暦(当時の英国が用いていた暦)の1688年2月13日に起きた(現代の年表記換算: 1689年2月13日)[SRC-01441]。原典の年表記が「1688」となっているのは、当時の英国の旧年始(3月25日起算)の慣行によるものである[SRC-01441]。英国政府公式法令データベース(legislation.gov.uk)の編集部注記は、この日を「1689年2月13日(旧年始の暦では1688年)」と直接記しており、イェール大学ロースクールAvalon Projectの翻刻も独立に同じ理解を裏づける[SRC-01441][SRC-01442]。英国は1752年までグレゴリオ暦を採用しておらず[SRC-00044]、本サイトではこの日付をグレゴリオ暦へ換算せず、ユリウス暦のまま年表記のみを現代化して扱う[SRC-01441]。本サイトでは 02-13 のページに掲載している。

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

1689年2月13日、ウェストミンスターに集まったイングランドの貴族院・庶民院は、オレンジ公ウィリアムと妃メアリー――当時「オレンジ公・公妃」の名と称号で呼ばれていた二人――ご本人が臨席する中、一篇の宣言書を提示した[SRC-01441][SRC-01442]。1685年に即位した国王ジェームズ2世のカトリック教徒としての統治をめぐる対立の末、ジェームズはフランスへ逃れ、議会はこれを王位放棄とみなしていた[SRC-01441][SRC-01443]。提示された宣言書――権利の宣言――は、ジェームズの治世下で起きたとされる法律停止権の濫用や常備軍の無断保持などの権利侵害を列挙し、議会の同意なき統治を違法と宣言した上で、ウィリアムとメアリーを共同の国王・女王とするよう求めるものだった[SRC-01441]。この宣言の内容は、同年のうちに、正式な法律である権利の章典として制定されることになる。だが、両者は別の日付を持つ別の出来事である——宣言の提示は2月13日、章典が国王裁可を得たのは同年12月16日だった[SRC-01441][SRC-01444]。

本文

宣言が提示された1689年2月13日という日付は、権利の章典そのものの条文に直接刻まれている。条文は「ウェストミンスターに集まった貴族院と庶民院は……1688年2月13日、当時オレンジ公・公妃の名と称号で呼ばれていた両殿下に対し、ご本人が臨席する中、一篇の宣言書を提示した」と記す(1819年版原文の趣旨。年表記は当時の旧年始による)[SRC-01441][SRC-01442]。この場に至るまでの経緯は、その3週間ほど前にさかのぼる。同じ議会(このときはまだ正式な議会ではなく、暫定の「コンヴェンション」と呼ばれていた)は、1689年1月22日(同じく旧年始表記では1688年)にウェストミンスターで開会していた[SRC-01441][SRC-01443]。

コンヴェンションは審議の末、ジェームズ2世の出国を王位放棄とみなし、王冠を――付帯条件である宣言とともに――ウィリアムとメアリーの二人に共同で提供することに合意した[SRC-01443]。この贈与と条件は、双方から受諾された[SRC-01443]。宣言は、議会の同意なき法律の停止・宗教裁判所(高等宗務官裁判所)の設置・平時の常備軍保持を、いずれも違法と宣言した[SRC-01441]。あわせて、過大な保釈金や罰金を科すこと、残虐な刑罰を科すことについても、科すべきでないと定めた[SRC-01441]。そのうえで宣言は、あらゆる苦情の救済のため、また法の改善・強化・保全のため、議会が頻繁に開催されるべきことを求めた[SRC-01441]。

宣言の受諾を機に、コンヴェンションはそれまでの暫定的な地位を脱し、正式な議会となった[SRC-01443]。この議会は同年のうちに、宣言の大部分を、恒久的な法律である権利の章典として制定した[SRC-01443]。章典が国王裁可(Royal Assent)を得たのは1689年12月16日であり、2月の宣言提示から10か月後のことである[SRC-01441][SRC-01444]。章典の条文は、宣言の文言をほぼそのまま引き継ぎつつ、新たにカトリック教徒――およびカトリック教徒と結婚した国王・女王――を王位継承から永久に除外する規定を加えている[SRC-01441][SRC-01442]。

歴史的背景

ジェームズ2世は1685年に即位したが、公然たるカトリック教徒としての統治は、人口の多数派を疎外することになったとされる[SRC-01443]。1687年には信仰寛容宣言(Declaration of Indulgence)を出して非国教徒・カトリック教徒双方への刑罰法を停止し、1688年4月には第2の信仰寛容宣言を全教区で2週続けての日曜日に朗読するよう命じたとされる[SRC-01443]。カンタベリー大主教ウィリアム・サンクロフトを含む7人の主教がこれに抗議する請願を行い、扇動的誹謗の罪で起訴されたが無罪となった。この無罪判決は、ジェームズのカトリック教徒の妃メアリー・オブ・モデナに同年6月、男児が誕生したこととほぼ時を同じくして起きたとされる[SRC-01443]。この誕生は、ジェームズの政策が無期限に続く見通しを生み、不満を頂点に至らせたとされる[SRC-01443]。著名な7人のイングランド人――主教1人と、ホイッグ・トーリー双方の有力政治家6人――が、オレンジ公ウィリアムに宛てて、軍を率いて渡英するよう招請する書簡を送ったとされる[SRC-01443]。ウィリアムはジェームズの甥であり、かつその娘メアリーの夫でもあった[SRC-01443]。1688年11月5日にトーベイのブリクサムに上陸し、ロンドンへ進軍する中でジェームズへの支持が失われていき、ジェームズはフランスへ逃れた[SRC-01443]。この経緯を受けて招集されたのが、1689年1月22日開会のコンヴェンション(のちの議会)であり、2月13日の宣言提示に至る(本文参照)[SRC-01443]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1685年(ユリウス暦) ジェームズ2世、イングランド王として即位 [SRC-01443]
1688年11月5日(ユリウス暦) オレンジ公ウィリアム、トーベイのブリクサムに上陸 [SRC-01443]
1688年(月日の明示なし。同年内・ユリウス暦) ジェームズ2世、フランスへ逃れる [SRC-01443]
1689年1月22日(ユリウス暦。旧年始表記では1688年) コンヴェンション(暫定の会議体)、ウェストミンスターで開会 [SRC-01441][SRC-01443]
1689年2月13日(ユリウス暦。旧年始表記では1688年。本記事の主題) コンヴェンションが権利の宣言をウィリアム・メアリーに提示し、王位の提供と受諾が成立。コンヴェンションが正式な議会となる [SRC-01441][SRC-01442][SRC-01443]
1689年4月(ユリウス暦) ウィリアム3世・メアリー2世、戴冠 [SRC-01443]
1689年12月16日(ユリウス暦) 権利の章典(宣言の内容を引き継いだ制定法)、国王裁可を得て成立 [SRC-01441][SRC-01444]
2015年3月26日 2013年王位継承法の施行により、章典のカトリック除外条項のうち「国王・女王がカトリック教徒と結婚した場合」の規定が削除される [SRC-01441]
異説・論争定説のない論点があります

本記事が確認した出典の範囲では、権利の宣言が提示された日付そのもの(1689年2月13日・旧年始表記1688年)について、学説上の対立や記述の食い違いは見当たらなかった。legislation.gov.uk(S・英国政府公式)とAvalon Project(A・イェール大学ロースクール)という2つの機関が、同一の17世紀原文を独立に転写しており、両者の転写の間に日付の食い違いは見当たらない[SRC-01441][SRC-01442]。

もっとも、次の2点を、異説というより編集方針・評価の相違として明記しておく。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
「権利の宣言」と「権利の章典」の呼称・年の帰属 legislation.gov.ukは、権利の章典(制定法)を、国王裁可の年(1689年)ではなく、宣言が提示され議会が発足した旧年始表記の年に従って「1688年」の法律として収載している。一方、一般的な歴史叙述(本記事のブリタニカ等)は「1689年」と現代の年表記で呼ぶことが多い [SRC-01441](1688年帰属の編集方針)/[SRC-01442][SRC-01443][SRC-01444](現代年表記1689年を用いる側) 本記事が採る旧年始年表記の扱い方(原典表記のまま維持し、現代の年表記を併記する)と同種の、年始の違いに由来する編集上の相違であり、事実関係そのものの対立ではない
宣言・章典の成立が英国政治史に持つ意義の評価 ブリタニカは、この決着(カトリック教徒排除条項の採用等)を「ホイッグ派の見解にとっての相当な勝利」と評する。これとは別に、この革命が議会をイングランドの支配的権力として恒久的に確立したとも記す。また、排除解決策の採用(カトリック教徒を王位から排除したこと)は、統治とは議会に代表される国王と人民との間の社会契約であるとするジョン・ロックの主張を支持する根拠にもなったと位置づける [SRC-01443] 単独出典(ブリタニカ)による評価であり、本サイトはこれを帰属形で紹介するにとどめ、独自の優劣判定は行わない

上記以外に確認された異説: なし(調査範囲: 本記事が登録した6出典。カトリック教徒除外条項をめぐる近年の見直し〔2013年王位継承法〕は、異説ではなく現代における法改正の事実として「現代の視点」節で扱う)。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ブリタニカ百科事典は、名誉革命(1688–89年)を、議会をイングランドの支配的権力として恒久的に確立し、絶対王政から立憲君主制への転換をもたらしたものと位置づけている[SRC-01443]。同事典によれば、カトリック教徒を王位から排除する解決策が採られたことは、王権が無条件ではあり得ないことを意味し、統治とは議会に代表される国王と人民との間の社会契約であるとするジョン・ロックの主張を支持する根拠にもなったとされる[SRC-01443]。本記事の射程は、宣言の提示(1689年2月13日)とその後10か月での章典への法制化という一連の経緯、および両者の日付上の区別に限定し、名誉革命全体の展開(ウィリアムの上陸作戦の詳細や、後年の対仏戦争等)については、本サイトの他記事に譲る(本サイトの整理)。

現代の視点

権利の章典が定めたカトリック教徒の王位継承除外条項は、300年以上にわたり効力を持ち続けたが、その一部は現代になって見直されている。2013年に制定された王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)は、2015年3月26日の施行により、章典が定めていた除外事由のうち「国王・女王がカトリック教徒と結婚した場合」の規定を削除した[SRC-01441]。これは英国政府自身の公式法令データベースが自らの改正履歴として記す事実であり、300年以上前に定められた宗教的排除規定の一部が、現代の制度の中で見直されてきたことを示している(本サイトの整理)[SRC-01441]。もっとも、国王・女王自身がカトリック教徒である場合の王位継承除外規定そのものは、本記事が確認した出典の範囲では、現在も存置されている[SRC-01441]。

出典一覧

  1. [SRC-01441] Bill of Rights [1688] — Introductory Text(1688 CHAPTER 2. 1 Will and Mar Sess 2)/legislation.gov.uk(The National Archives、英国政府)(ランクS)
  2. [SRC-01442] English Bill of Rights 1689(Avalon Project — Documents in Law, History and Diplomacy)/The Avalon Project, Lillian Goldman Law Library, Yale Law School(ランクA)
  3. [SRC-01443] Glorious Revolution | English history/Encyclopaedia Britannica, Inc.(ランクB)
  4. [SRC-01444] Bill of Rights 1689(Wikipedia英語版)/Wikipedia(Wikimedia Foundation)(ランクC)
  5. [SRC-00044] Calendar (New Style) Act 1750 (24 Geo 2 c.23) — 英国政府公式法令データベース/legislation.gov.uk(The National Archives、英国政府)(ランクS)
  6. [SRC-00045] 暦Wiki「グレゴリオ暦」(国立天文台暦計算室)/国立天文台暦計算室(ランクA)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-18あり
22026-09-18あり
32026-09-18あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。