1475年世界 15世紀

ミケランジェロ・ブオナローティの誕生は、父ロドヴィーコ自身の日記に『1474年3月6日』と記録された——フィレンツェ暦の年始のずれにより、現代の年表記では1475年3月6日にあたる

日付と暦

原典表記
1474/75年3月6日(ユリウス暦)
換算
1475-03-06(ユリウス暦)
掲載日
3月6日のページ

暦の注記: この出来事はユリウス暦の1474/75年3月6日に起きた(ユリウス暦換算: 1475-03-06)[SRC-01611][SRC-01613][SRC-01615]。1475年はグレゴリオ暦の導入(1582年10月15日)以前であり、換算先の暦種別は本サイトの暦運用規則(グレゴリオ暦導入前の日付はユリウス暦のまま扱う)によりユリウス暦となる(原典日付と換算値は月日で数値上同一の恒等変換であり、実質的な暦計算は発生していない)。加えて、父ロドヴィーコ自身の日記の写しは誕生日を「1474年3月6日」と記録し、記録者自身がフィレンツェ暦(受肉紀元)では1474年、ローマ暦(降誕紀元)では1475年にあたるという趣旨の注記を残している[SRC-01615]。この二重年表記は独立した専門家解説とも一致する[SRC-01614]。本サイトでは03-06のページに掲載しており、換算は独自に行っていない。

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

1475年3月6日、彫刻家・画家・建築家・詩人となるミケランジェロ・ブオナローティが、イタリア中部のカプレーゼ(現カプレーゼ・ミケランジェロ)で生まれた[SRC-01611][SRC-01613]。父ロドヴィーコ・ディ・レオナルド・ブオナローティ・シモーニは、誕生当時カプレーゼのポデスタ(地方行政官)を務めており[SRC-01612][SRC-01615]、息子の誕生を自身の日記(備忘録)に、日付・時刻・状況とともに書き残した[SRC-01615]。この日記には、誕生日を「1474年3月6日」と記す一方で、フィレンツェ暦とローマ暦とでは年の数え方が異なるため現代の年表記では1475年にあたる、という記録者自身の注記が添えられている[SRC-01615]。この年のずれは、ミケランジェロ研究の専門家による独立した解説とも一致しており[SRC-01614]、主要な事典は1475年3月6日を誕生日として記す[SRC-01611][SRC-01613]。

本文

父ロドヴィーコの日記の該当箇所は、次のように記す(原文はイタリア語)。「記す。今日この日、1474年3月6日、私に男子が生まれた。名をミケラニョロと付けた。月曜の朝、〔日の出〕前の4、5時間ほどに生まれ、私がカプレーゼのポデスタであったときにカプレーゼで生まれた」[SRC-01615]。続けて、洗礼に立ち会った9名の名が列挙され、誕生から2日後の3月8日、カプレーゼの聖ジョヴァンニ教会で洗礼を受けたと記録されている[SRC-01615]。末尾には「この1474年3月6日は、フィレンツェ暦(受肉紀元)では1474年、ローマ暦(降誕紀元)では1475年にあたる」という趣旨の注記が付されている[SRC-01615]。

この日記自体は、ミケランジェロの時代に作成された写し(原本そのものではない)の翻刻として伝わっている[SRC-01615]。もっとも、この年のずれという現象自体は、Wikisource単独の記述にとどまらない。ミケランジェロ研究の専門家ウィリアム・E・ウォレスは、フィレンツェ暦(年始3月25日)のもとでは、ミケランジェロの誕生が「1475年まであと3週間足らずの1474年」という形で記録されることがあったと説明している[SRC-01614]。同氏は、フィレンツェが用いていた暦とグレゴリウス13世による改暦後の暦との食い違いが長年の混乱を生んだとしたうえで、その一例として、ミケランジェロの誕生日にはわずかに異なる4通りの記録があると指摘している。同氏はこれに続けて、研究者たちの丹念な検証によりこの相違には合理的な説明がついているとも述べており[SRC-01614]、本記事はこの説明の具体的な内容そのものまでは確認できていないものの、単なる未解決の食い違いではなく解消済みとされている点を明記する。

ウォレスはさらに、占星術師ドン・リッグスの研究を引きつつ、ミケランジェロ自身がこの混乱に加担していた可能性を指摘する。ミケランジェロは実際には創造的な人物と結び付けられる土星の影響下で生まれたわけではなく、火星が優勢な平凡な星回りのもとに生まれたが、伝記作者アスカニオ・コンディヴィを通じて、自身の輝かしい経歴をより良く予言する星回りを信じさせようとした可能性があるという[SRC-01614]。

母はフランチェスカ・ディ・ネーリ・ディ・ミニアート・デル・セーラ(Encyclopedia.com収載The Renaissanceは「フランチェスカ・ネーリ」と記す)である[SRC-01612][SRC-01613]。イタリア人名事典は、父を「控えめな身分であったが気性は誇り高かった」と記し、母については1481年に早世したこと以外の情報は伝わっていないとする[SRC-01613]。ブオナローティ家の社会的な身分については、出典間で記述が割れる。Encyclopedia.com収載Europe, 1450 to 1789は、ミケランジェロをブルネレスキ、ドナテッロ、レオン・バッティスタ・アルベルティら少数のルネサンス期芸術家と同様に貴族的な家系に生まれた一人と伝え、一族の市民権を1343年の統領職にまで遡らせ、1508年時点では一族の6人がフィレンツェ政府への選出資格を持っていたと記す一方[SRC-01612]、Britannicaは、一族が数世代にわたりフィレンツェの貴族的な身分に属していたが、ミケランジェロが生まれた頃には家産と身分をすでに失っていたと記す[SRC-01611]。

歴史的背景

誕生年が「1474年」と「1475年」の2通りに記されるのは、当時のフィレンツェが用いていた紀年法に起因する。フィレンツェ暦は「受肉紀元(ab Incarnatione)」を用い、年始を3月25日としていた[SRC-01614]。これに対し、ローマ式の「降誕紀元(ab Nativitate)」ではこの日を1475年と数える[SRC-01615][SRC-01614]。3月6日はフィレンツェ暦の年始(3月25日)より前にあたるため、フィレンツェ式の年表記とローマ式(現代の年表記)の年表記との間に1年のずれが生じる[SRC-01615][SRC-01614]。父ロドヴィーコ自身が日記の中でこの2つの年表記の対応関係を明記していることは、当時の人々がこの年始のずれを認識し、記録上の混乱を避けようとしていたことを示す一例といえる[SRC-01615]。

誕生当時のカプレーゼは、フィレンツェ共和国の統治下にあった[SRC-01611]。父ロドヴィーコがこの地でポデスタ(地方行政官)という公職に就いていたこと自体が、カプレーゼがフィレンツェの統治圏に属していたことと符合する[SRC-01612][SRC-01615]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1474/75年3月6日(ユリウス暦・フィレンツェ暦/ローマ暦の二重年表記) ミケランジェロ・ブオナローティ、カプレーゼで誕生 [SRC-01611][SRC-01613][SRC-01615]
1474/75年3月8日 カプレーゼの聖ジョヴァンニ教会で洗礼(父の日記の記録) [SRC-01615]
1481年 母フランチェスカ、早世 [SRC-01613]
1499年 彫刻『ピエタ』完成(現サン・ピエトロ大聖堂) [SRC-01611]
1501年 彫刻『ダヴィデ』(現アカデミア美術館) [SRC-01611]
1508年〜1512年 システィーナ礼拝堂天井画の制作 [SRC-01611]
1564年2月18日 ローマで死去(Britannicaは88歳と記す。死去日・没年齢をめぐる出典間の相違は本記事の射程外) [SRC-01611]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
ブオナローティ家の出自伝承 ミケランジェロの伝記作者コンディヴィは、一族の出自をカノッサ伯爵家に遡らせる系譜を伝えている。しかしイタリア人名事典は、これを「架空の系譜」と明記し、同時代のヴァザーリも「〜と言われている」という留保付きの記述にとどめ、他の資料はこの伝承に触れていないとする [SRC-01613](架空とする側) 学術的には否定的に位置づけられる伝承。本記事は誕生そのものの主張には用いていない
誕生日の記録に4通りのわずかな異同があるという指摘 専門研究者ウォレスは、フィレンツェ暦と改暦後の暦との食い違いが長年の混乱を生んだ例として、ミケランジェロの誕生日にはわずかに異なる4通りの記録があると述べる。ウォレスはこれに続けて、研究者たちの丹念な検証によりこの相違には合理的な説明がついているとも述べている。本記事はこの4通りの記録の具体的な内容までは確認できていない [SRC-01614] 専門研究者による指摘。本記事が確認した出典の範囲では単独系統であり、相違の具体的内容は未確認だが、出典自身は研究により合理的な説明がついているとしている。暦の食い違いに起因する現象の一例として扱う
誕生時の星回りをめぐる脚色 ミケランジェロは実際には土星の影響下に生まれたわけではなかったが、伝記作者コンディヴィを通じて、より有利な星回りを信じさせようとした可能性が、占星術師ドン・リッグスの研究を引く形で指摘されている [SRC-01614] 専門研究者による指摘。本記事が確認した出典の範囲では単独系統であり、確定した学説というより解釈上の指摘として扱う
母の名の表記ゆれ 母の名は、出典によって「フランチェスカ・ディ・ネーリ・ディ・ミニアート・デル・セーラ」(イタリア人名事典)と「フランチェスカ・ネーリ」(Encyclopedia.com収載The Renaissance)とで表記が異なる [SRC-01613][SRC-01612] いずれも同一人物を指すと考えられるが、本記事が確認した出典の範囲では、この表記差についての説明は見当たらない

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

ミケランジェロの誕生は、当時の紀年法(フィレンツェ暦の年始3月25日)が個人の記録にどのように痕跡を残すかを示す一例である。父ロドヴィーコ自身が日記の中で「フィレンツェ暦では1474年、ローマ暦では1475年」と2つの年表記の対応関係を明記していたことは、当時すでにこの年始のずれが実務上の課題として認識されていたことをうかがわせる[SRC-01615]。Encyclopedia.com収載Europe, 1450 to 1789は、ミケランジェロが生前から「イル・ディヴィーノ(神のごとき人)」と称されるほどの名声を得ていたと記しており[SRC-01612]、こうした後世の評価と対照的に、誕生そのものの記録は父の私的な備忘録という形でひっそりと残された。

現代の視点

ミケランジェロ研究の専門家ウィリアム・E・ウォレスは、現存する1,600通以上の書簡と300件を超える記録のうち、ミケランジェロ自身が自らの誕生日という事実に言及したものは一つもないと指摘している[SRC-01614]。同時代でもとりわけ多くの記録が残る芸術家でありながら[SRC-01612][SRC-01611]、誕生日への言及がまったく見当たらない。ウォレスは、ミケランジェロが自身の誕生の正確な日時には注意深かった一方で、その後の誕生日には一切関心を払わなかったと指摘しており[SRC-01614]、この誕生日を「記念日として意識し祝う」という感覚が、現代ほど普遍的ではなかった可能性を示唆している(本サイトの整理)。また、本記事が扱う日付の二重年表記(1474年/1475年)は、暦法の歴史そのものが個人の記録に刻む痕跡の一例であり、本サイトが先に扱ったジョージ・ワシントンの誕生日(旧方式と新方式の二重表記)と同種の現象である(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-01611] Michelangelo/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  2. [SRC-01612] Michelangelo Buonarroti/Encyclopedia.com(Gale/Cengage 発行の複数参考図書事典を収載するアグリゲータサイト)(ランクB)(複数の資料を収載)
  3. [SRC-01613] BUONARROTI, Michelangelo/Dizionario Biografico degli Italiani, Volume 15(1972年刊)/Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)(ランクA)
  4. [SRC-01614] Michelangelo's uncelebrated birthday and uncertain death/OUPblog(Oxford University Press公式ブログ)(ランクB)
  5. [SRC-01615] Atto di nascita di Michelangelo Buonarroti/Wikisource(イタリア語版)(ランクB)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-19あり
22026-09-19あり
32026-09-19あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。