1478年世界 15世紀

1478年4月26日、フィレンツェ大聖堂のミサでロレンツォとジュリアーノ・デ・メディチ兄弟が刺客に襲われた——弟の死と、教皇との2年戦争へ

日付と暦

原典表記
1478年4月26日(ユリウス暦)
換算
1478-04-26(ユリウス暦)
掲載日
4月26日のページ

暦の注記: この出来事はユリウス暦の1478年4月26日(日曜日)に起きた(ユリウス暦換算: 1478-04-26)[SRC-02022][SRC-02023][SRC-02024][SRC-02025]。1478年はグレゴリオ暦の導入(1582年10月15日)以前であり、換算先の暦種別は機械決定によりユリウス暦となる(原典日付と換算値は数値上同一の恒等変換であり、実質的な暦計算は発生していない)。当時のフィレンツェは年始を3月25日とする暦法を用いていたが[SRC-01614]、この出来事の日付(4月26日)は3月25日以後にあたるため、フィレンツェ暦と現代の年表記はいずれも1478年で一致する。本サイトでは04-26のページに掲載している。換算は独自に行っていない。

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概要

1478年4月26日の日曜日、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)でのミサの最中、フィレンツェの銀行家一族パッツィ家を中心とする共謀者たちが、都市の支配者だったロレンツォ・デ・メディチと弟ジュリアーノを襲った[SRC-02022][SRC-02023][SRC-02024][SRC-02025]。ジュリアーノはその場で死亡し、ロレンツォは負傷しながらも香部屋へ逃れて生還した[SRC-02022][SRC-02023][SRC-02024][SRC-02025]。陰謀の発案者にはパッツィ家のフランチェスコ・デ・パッツィ、ピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティ、教皇シクストゥス4世の甥ジロラモ・リアーリオが含まれるとされる[SRC-02024]。フィレンツェの民衆はメディチ家についたため、共謀者の多くはその日のうちに命を落とし[SRC-02022][SRC-02024]、事件は教皇との2年間の戦争へと発展した[SRC-02022]。

本文

教皇の甥ジロラモ・リアーリオのため、イモラの買収資金の立て替えがメディチ銀行に求められたが、ロレンツォがこれを断ったことが、パッツィ家とリアーリオ家を結びつける発端になったとされる[SRC-02024]。共謀者は当初、ロレンツォの外出時や訪ローマの機会を狙ったが果たせず、最終的に枢機卿ラファエレ・サンソーニ・リアーリオを迎える大聖堂でのミサを決行の場に選んだ[SRC-02024]。合図とともに、ロレンツォはヤーコポ・パッツィの手の者2人に襲われながらも香部屋へ逃れ、友人たちが背後で扉を閉めて自宅へ戻った[SRC-02024][SRC-02025]。ジュリアーノはベルナルド・バンディーニとフランチェスコ・デ・パッツィに斬りつけられ、大聖堂の聖職者に遺骸が運ばれるまで床の上に残されたと記録される[SRC-02024]。ロレンツォをかばおうとしたフランチェスコ・ノーリも命を落としたと伝えられる[SRC-02025]。

歴史的背景

パッツィ家はメディチ家と並ぶフィレンツェの銀行家一族であり、イモラの買収資金をめぐる対立に加え、ロレンツォが通した相続法によってジョヴァンニ・パッツィの妻ベアトリーチェ・ボッロメイが父方の遺産を失った一件が、両家の対立を深めたとされる[SRC-02024]。陰謀の計画そのものはフランチェスコ・デ・パッツィ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、ジロラモ・リアーリオが発案したとされ、Dizionario Biografico degli Italianiは、教皇シクストゥス4世が計画を知らされたのは最終段階にとどまり、賛意は示したものの流血を避けるよう勧告したと記す[SRC-02024]。一方、ブリタニカとフィレンツェ大聖堂公式サイトは、教皇自身を陰謀の同盟者・主導者として描く[SRC-02022][SRC-02025]。フィレンツェにおけるパッツィ家当主ヤーコポ・パッツィは、この計画になお慎重だったとされる[SRC-02024]。

タイムライン

日付(ユリウス暦) 出来事 出典
1478年4月26日(日曜日) フィレンツェ大聖堂でのミサの最中、ロレンツォとジュリアーノ・デ・メディチが襲われる。ジュリアーノは死亡、ロレンツォは負傷しつつ生還 [SRC-02022][SRC-02023][SRC-02024][SRC-02025]
1478年4月26日(同日) 大司教フランチェスコ・サルヴィアーティらによるシニョリーア宮(フィレンツェ政庁)奪取の試みが失敗。サルヴィアーティ、フランチェスコ・デ・パッツィらが処刑される [SRC-02022][SRC-02024]
1478年4月26日以降 処刑が数日間続き、その後多くのパッツィ家支持者が追放される [SRC-02024]
1478年6月1日 教皇シクストゥス4世が、ロレンツォを破門する教書を発する [SRC-02024]
1478年6月20日 フィレンツェに聖務禁止(インテルディクト)が下される [SRC-02024]
1478年7月 ナポリ王太子アルフォンソ・ダラゴナとフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの軍がフィレンツェ領へ侵入し、教皇との戦争が始まる [SRC-02024]
異説・論争定説のない論点があります
論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
教皇シクストゥス4世の関与の程度 (a) 陰謀の同盟者・主導者だった ブリタニカ「In league with the Pazzi were Pope Sixtus IV and his nephew Girolamo Riario」、フィレンツェ大聖堂公式サイト「The puppeteer of the operation was Pope Sixtus IV Della Rovere」[SRC-02022][SRC-02025]。Treccani『Dizionario di Storia』も教皇を「sostenitore dei P.(パッツィ家の支持者)」と記す[SRC-02023] ブリタニカ・フィレンツェ大聖堂公式サイトの2出典が、より直接的な関与(同盟者・主導者)として描く。Treccani『Dizionario di Storia』はより弱い「支持者」という語を用いており、出典によって記述の強度が異なる
同上 (b) 最終段階で知らされ、流血回避を勧告したにとどまる Dizionario Biografico degli Italiani「Il papa fu messo al corrente, anche se solo all’ultimo momento. Si dichiarò d’accordo, ma raccomandò di evitare ogni spargimento di sangue.」[SRC-02024] 学術人名事典による、より限定的な記述。本サイトはいずれの説も断定せず両論併記する
ジュリアーノを直接手にかけた人物 (a) フランチェスコ・パッツィが単独で殺害した ブリタニカ「Giuliano de’ Medici was killed by Francesco Pazzi」[SRC-02022] 簡潔な記述にとどまる
同上 (b) ベルナルド・バンディーニとフランチェスコ・パッツィの両名が斬りつけた Dizionario Biografico degli Italiani「colpito selvaggiamente da Bernardo Bandini dei Baroncelli e Franceschino Pazzi」[SRC-02024] 学術人名事典の記述
同上 (c) バンディーニの一撃で倒れ、パッツィはその遺体になお斬りつけた フィレンツェ大聖堂公式サイト「Giuliano immediately fell under the Bandini’s dagger strokes...While Pazzi raged on the battered body of the first」[SRC-02025] 最も詳細な経過を描く
襲撃の合図となった典礼上の瞬間 (a) 司式司祭の聖体拝領の後 Dizionario Biografico degli Italiani「dopo la comunione del prete officiante」[SRC-02024]
同上 (b) 聖別されたホスチアの奉挙の瞬間 フィレンツェ大聖堂公式サイト「at the elevation of the consecrated Host」[SRC-02025] 両出典の間で典礼上の段階の記述が異なる
同日処刑の具体的な人数 サルヴィアーティの兄弟の一人とフランチェスコ・パッツィに加え、さらに約30人が処刑されたと具体的な人数を記す Dizionario Biografico degli Italiani「insieme con un’altra trentina di persone」[SRC-02024] 単一系統の記述。ブリタニカ・フィレンツェ大聖堂公式サイトは「多数」「共謀者全員」と記すにとどまり、具体的な人数は示さない[SRC-02022][SRC-02025]。本サイトはこの人数をprobable(単一系統の妥当な証拠)として扱う
ロレンツォが逃れた香部屋の呼称 (a) 「新しい香部屋(サグレスティア・ヌオーヴァ)」 Dizionario Biografico degli Italiani「riuscì a fuggire nella sagrestia Nuova」[SRC-02024] 出典間で名称の記述が異なる
同上 (b) 「ミサの香部屋(Sacristy of the Masses)」 フィレンツェ大聖堂公式サイト「Lorenzo fled to the Sacristy of the Masses」[SRC-02025] 本サイトは名称を断定せず「香部屋」とのみ記す

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

陰謀の失敗は、フィレンツェにとって教皇シクストゥス4世との2年間の戦争という重い代償を招いたが[SRC-02022]、フィレンツェの民衆がメディチ家についたことにより、結果としてロレンツォの権力基盤はかえって強化されたとされる[SRC-02022][SRC-02023]。ブリタニカは、ロレンツォが最も危険な敵を取り除き、民衆の確固たる支持を得ていることが示されたと評する[SRC-02022]が、これはブリタニカ自身の評価であり、本サイト自身の評価ではない。

現代の視点

フィレンツェ大聖堂を所管する現在の管理機関は、この事件を今も自らの歴史解説記事で取り上げている[SRC-02025]。教皇シクストゥス4世の関与の程度をめぐる記述の違いは、出典によって陰謀の全体像の描き方が異なることを示している(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-02022] Pazzi conspiracy/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  2. [SRC-02023] Pazzi, congiura dei/Istituto della Enciclopedia Italiana Treccani(ランクA)
  3. [SRC-02024] MEDICI, Lorenzo de’/Istituto della Enciclopedia Italiana Treccani(Dizionario Biografico degli Italiani, Volume 73, 2009年)(ランクA)
  4. [SRC-02025] THE "PAZZI CONSPIRACY"/Opera di Santa Maria del Fiore(フィレンツェ大聖堂造営事務局)(ランクA)
  5. [SRC-01614] Michelangelo's uncelebrated birthday and uncertain death/OUPblog(Oxford University Press公式ブログ)(ランクB)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-29あり
22026-09-29あり
32026-09-29あり
42026-09-29なし

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