1770年世界 18世紀

ボストン虐殺事件 — 英軍兵士の発砲でボストン住民5人が死亡、呼び名は事件直後から争われた

日付と暦

原典表記
1770年3月5日(グレゴリオ暦)
換算
1770-03-05(グレゴリオ暦)
掲載日
3月5日のページ

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概要

1770年3月5日夜、北アメリカの英領マサチューセッツ植民地ボストンのキング・ストリート、税関前で、英軍第29連隊の兵士が対峙していた群衆へ発砲し、住民5人が死亡し[SRC-01603][SRC-01604][SRC-01605]、6人が負傷した[SRC-01604][SRC-01605]。事件直後から、愛国派(パトリオット)はこの出来事を「虐殺(Massacre)」と呼び、ポール・リヴィアの版画などを通じて宣伝に用いた一方、忠誠派(ロイヤリスト)側は英兵の自衛による不幸な事故だったと捉えた[SRC-01604][SRC-01605]。発砲の引き金が何だったか、誰が「撃て」と発したのかは、当時の裁判証言の間でも一致しない[SRC-01605]。逮捕された指揮官トマス・プレストン大尉と兵士8人の裁判では、愛国派のジョン・アダムズが弁護人を務め、プレストンと兵士6人が無罪、残る2人が故殺で有罪となった[SRC-01603][SRC-01605][SRC-01608]。

本文

1770年3月5日の夜、税関前で警備に就いていた英軍第29連隊の歩哨ヒュー・ホワイト二等兵のもとへ、かつら職人の徒弟エドワード・ギャリックが近づき、ある英軍士官が代金を払っていないと言い立てたとAmerican Battlefield Trustは記す[SRC-01604]。ホワイトがこれに言い返して口論となり、マスケット銃でギャリックの側頭部を打ったと同団体は記す[SRC-01604]。この騒ぎが伝わると、住民の一団がホワイトを取り囲むように膨れ上がり、火事の合図に使われる鐘まで鳴らされて、さらに多くの男性住民が通りへ出てきたとHISTORY.comは記す[SRC-01605]。ホワイトが応援を要請し、トマス・プレストン大尉が兵士7人を率いて銃剣を装着して税関前へ駆けつけたとAmerican Battlefield Trustは記す[SRC-01604]。プレストンは集まった群衆を解散させることができなかったとMassachusetts Historical Societyも記す[SRC-01603]。

群衆は300人から400人にまで膨れ上がり、罵声を浴びせながら石・櫂・雪玉を投げつけ、兵士に向かって発砲するよう繰り返し挑発したとAmerican Battlefield Trustは記す[SRC-01604]。この群衆の中には、クリスパス・アタックスという「元奴隷」の男性もいたとAmerican Battlefield Trustは記す(同団体の別記事は、アタックスの出自と経歴について、大半の歴史家がアフリカ系と先住民系の混血とみている人物で、ニューイングランドの海事産業に従事し船乗りとしての経験があったとみられると記しており、事件本体の解説記事とは触れる範囲が異なる——詳しくは異説・論争欄を参照)[SRC-01604][SRC-01606]。混乱の中で棍棒が投げつけられ兵士の一人に命中し、その兵士が地面に倒れたとAmerican Battlefield Trustは記す[SRC-01604]。この兵士が起き上がって「畜生、撃て(Damn you, fire!)」と叫び、マスケット銃を群衆へ向けて発砲したと同団体は記し、この一発がアタックスに命中して即死させたとする[SRC-01604]。数秒後、他の兵士たちも発砲したと同団体は記す[SRC-01604]。一方でHISTORY.comは、裁判の証人リチャード・パルムズの証言として「銃が発射された後に『fire(撃て)』という言葉を聞いた……誰が発砲を命じたのかは分からない」という一節を引用し、発砲が意図的な命令によるものだったかどうかも当時から明らかではなかったと記している[SRC-01605]。本サイトは、発砲に至る経過や号令の有無について、いずれの記述が正しいかを判定せず、出典ごとの記述として併記する。

発砲により11人が被弾し、5人が死亡、6人が負傷したとAmerican Battlefield Trustは記す[SRC-01604]。死亡したのはクリスパス・アタックス、サミュエル・グレイ、ジェームズ・コールドウェル、サミュエル・マーヴェリック、パトリック・カーの5人だとHISTORY.comは記す[SRC-01605]。このうち3人はその場で死亡し、さらに2人が致命傷を負ったとMassachusetts Historical Societyは記す一方、American Battlefield Trustのアタックス人物解説は5人とも即座に倒れて死亡したと記しており、死亡の時点についての記述は出典間で異なる(詳しくは異説・論争欄を参照)[SRC-01603][SRC-01606]。アタックスが最初に息絶えた一人で、胸に2発の銃弾を受けていたとAmerican Battlefield Trustは記す[SRC-01606]。プレストンは発砲の中止を命じ、税関の警備のためさらに多くの兵士を呼び出したと同団体は記す[SRC-01604]。プレストンと関係した兵士たちは、事件から数時間のうちに逮捕・投獄されたとMassachusetts Historical Societyは記す[SRC-01603]。

事件後、忠誠派(トーリー)と愛国派の双方が互いを非難し、それぞれの立場を裏付ける供述書を集め始めたとMassachusetts Historical Societyは記す[SRC-01603]。事件から数日のうちに、英軍のウィリアム・ダルリンプル中佐は目撃者からの供述書収集を部下に命じ、住民を落ち着かせるため町なかの兵営にいた英兵はボストン港内のキャッスル・ウィリアムへ移され、身の安全を懸念した税関委員たちはボストンから逃れたと、同館所蔵の忠誠派側パンフレットの解説は記す[SRC-01609]。3月16日、税関委員ジョン・ロビンソンが軍側の供述書31件を携えてロンドンへ向けて出航したと同解説は記す[SRC-01609]。この供述書は最終的にロンドンで、出来事の説明を前置きしたパンフレット『A Fair Account of the Late Unhappy Disturbance at Boston in New England(ボストンにおける近時の不幸な騒動の公正な記録)』として刊行されたと同解説は記す[SRC-01609]。一方、ボストンの町が任命した委員会は事件を「不穏な陰謀」の結果であるかのように示唆する記述を作成したとMassachusetts Historical Societyは記し[SRC-01603]、この忠誠派側パンフレットの解説も、愛国派側が対抗する形で自らの記録を刊行していたことに触れている[SRC-01609]。プレストン自身も、獄中で自らの見解『Case of Capt. Thomas Preston of the 29th Regiment(第29連隊プレストン大尉の言い分)』を準備し、これは密かにロンドンへ送られて1770年4月にPublic Advertiser紙に掲載され、6月にはボストンの新聞にも再録されたとMassachusetts Historical Societyの解説は記す[SRC-01610]。

愛国派のポール・リヴィアは、ボストンの美術家ヘンリー・ペルハムの図版を基にしたとされる版画「血の惨劇(The Bloody Massacre Perpetrated in King Street)」を売り出し、英兵が整列して無抵抗の群衆へ一斉射撃する様子を描いたこの版画は多くの住民を激怒させたとAmerican Battlefield Trustは記す[SRC-01604]。実際には住民側が先に争いを仕掛けていたにもかかわらず、この版画は英軍側を扇動者として、兵士を悪辣な人物として、住民を紳士として描いていたとHISTORY.comは記す[SRC-01605]。事件と同じ1770年のうちに刊行されたブロードサイド(一枚刷りの印刷物)の中にも「late horrid Massacre in King-Street(キング・ストリートでの近時の凄惨な虐殺)」という表現を題名に含むものがあり[SRC-01607]、忠誠派側のパンフレットの題名は「Massacre」の語を避けていた[SRC-01609]。本サイトは、「虐殺」という呼称が史実として正しいかどうかを判定せず、この呼称自体が事件直後から愛国派・忠誠派双方の宣伝合戦の産物であったことを、出典に基づいて紹介する。

歴史的背景

1767年6月、英議会はタウンゼンド諸法を可決し、茶・鉛・ガラス・塗料・紙の輸入に関税を課すとともに、ボストンに駐在する税関委員会を新設したとMassachusetts Historical Societyは記す[SRC-01603]。これに対しボストンの住民は不輸入・不消費運動で抗議し、1768年2月には税関委員がみずからの身辺警護を議会へ要請し、同年10月には英兵の駐留が始まったと同館は記す[SRC-01603]。American Battlefield Trustは、1768年10月1日に艦隊が到着し数百人の英兵が敵意ある町へ進駐したと記す[SRC-01604]。愛国派の指導者たちは住民の兵士への反感を煽り、駐留する兵士は住民から罵声や暴力を受けることが日常化していたと複数の出典は記す[SRC-01603][SRC-01604]。

1770年2月22日、商店主テオフィラス・リリーの店先に掲げられた「輸入業者(Importer)」とだけ書かれた立て看板を巡って若者たちが集まると、税関の密告者エベネザー・リチャードソンが自宅の壊れた窓越しに発砲し、11歳のクリストファー・セイダーが死亡した[SRC-01603][SRC-01619]。セイダーの葬儀は、死去の4日後、自由の木(Liberty Tree)を起点に約2,000人の行列で執り行われた[SRC-01619]。数千人のボストン住民が葬儀に参列し、住民と英兵の間の緊張と不信はいっそう強まったとAmerican Battlefield Trustは記す[SRC-01604]。この後、数日のうちに地元労働者と英兵との間で乱闘が起きたが大きな流血には至らず、しかしこの後に起きる惨事の伏線になったとHISTORY.comは記す[SRC-01605]。HISTORY.comは、事件当時(1770年初め)のボストンの人口が約16,000人であったのに対し、2,000人を超える英兵が駐留していたと記す[SRC-01605]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
グレゴリオ暦・1767年6月 英議会、タウンゼンド諸法を可決。ボストンに税関委員会を新設 [SRC-01603]
グレゴリオ暦・1768年10月 英艦隊がボストンへ到着し、英兵の駐留が始まる [SRC-01603][SRC-01604]
グレゴリオ暦・1770年2月22日 税関の密告者エベネザー・リチャードソンの発砲により、11歳のクリストファー・セイダーが死亡 [SRC-01603][SRC-01605][SRC-01619]
グレゴリオ暦・1770年3月5日夜 税関前での対峙の末に英兵が発砲し、住民5人が死亡・6人が負傷(ボストン虐殺事件) [SRC-01603][SRC-01604][SRC-01605]
グレゴリオ暦・1770年3月16日 忠誠派側の事件記録が英国へ送付される [SRC-01603]
グレゴリオ暦・1770年10月24日 プレストン大尉の裁判が開廷 [SRC-01603]
グレゴリオ暦・1770年10月(開廷数日後) プレストン大尉、無罪評決 [SRC-01603][SRC-01605]
グレゴリオ暦・1770年11月27日 兵士8人の裁判が開廷(弁護人にジョン・アダムズら) [SRC-01603][SRC-01608]
グレゴリオ暦・1770年12月5日 陪審評決が法廷へ提出される[SRC-01608]。6人無罪、ヒュー・モンゴメリーとマシュー・キルロイの2人が故殺で有罪[SRC-01603][SRC-01605] [SRC-01603][SRC-01605][SRC-01608]
異説・論争定説のない論点があります

調査範囲は本記事が挙げた9件の出典(Massachusetts Historical Society発の概説ページおよび同館所蔵資料の解説5件、American Battlefield Trustの解説記事2件、HISTORY.comの解説記事1件)に限る。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
この出来事の呼称 「虐殺(Massacre)」——愛国派が事件直後から用い、ポール・リヴィアの版画「血の惨劇」や、愛国派側パンフレット『A Short Narrative of the Horrid Massacre in Boston...』の題名でも用いられ、広く定着させた呼び方 Massachusetts Historical Society・American Battlefield Trust・HISTORY.com・1770年のブロードサイド題名 事件直後から用いられ、本記事が典拠とする概説3件(Massachusetts Historical Society・American Battlefield Trust・HISTORY.com)と1770年当時のブロードサイド(SRC-01607)の題名がこの語を用いる、現在に至るまで最も定着した呼称
この出来事の呼称 「Late Unhappy Disturbance(近時の不幸な騒動)」——1770年にロンドンで刊行された忠誠派側パンフレット『A Fair Account of the Late Unhappy Disturbance at Boston in New England』の題名が用いた、より穏当な呼び方。「Massacre」の語を避けている Massachusetts Historical Society(忠誠派側パンフレットの解説) 事件直後の忠誠派側の呼び方として記録される。本サイトはどちらの呼称が「正しい」かを判定しない
この出来事の評価 「脅威と危険にさらされた英兵の自衛による不幸な事故」——忠誠派側やプレストン自身が持っていたとされる見方。プレストン自身も獄中で自らの説明『Case of Capt. Thomas Preston』を公表し、税関からの発砲はあり得なかったとする主張を含む忠誠派側パンフレットも刊行された American Battlefield Trust(忠誠派の見解として整理)・HISTORY.com(プレストン自身の獄中の言葉の引用)・Massachusetts Historical Society(忠誠派側パンフレット・プレストン自身の声明の解説) 当時の忠誠派・被告側の立場からの評価として記録される。本サイトはこの評価と「虐殺」という呼称のどちらが正しいかを判定しない
発砲の引き金・号令の有無 棍棒で打たれて倒れた兵士が自ら起き上がり「撃て」と叫んで発砲した American Battlefield Trust 裁判でも争点になった経過であり、出典間で強調点が異なる
発砲の引き金・号令の有無 裁判証人リチャード・パルムズは「fireという言葉を聞いた……誰が発砲を命じたのかは分からない」と証言し、発砲が意図的だったかも当時から不明とされた HISTORY.com 同上。本サイトはいずれの経過を史実として確定せず併記する
死亡した住民の氏名の網羅性 クリスパス・アタックス、サミュエル・グレイ、ジェームズ・コールドウェル、サミュエル・マーヴェリック、パトリック・カーの5人全員を明記 HISTORY.com 本文で全員の氏名に触れる唯一の登録出典
死亡した住民の氏名の網羅性 1770年のブロードサイドの主題(Subjects)分類にはグレイ・マーヴェリック・アタックス・カーの4氏名が含まれ、コールドウェルは含まれない Massachusetts Historical Society(ブロードサイド解説の主題タグ) 分類上の欠落であり、コールドウェルが死者に含まれることを否定する記述ではない。本サイトはHISTORY.comの記述を採用しつつ、この分類上の相違を記録する
死亡した住民の死亡時点 3人はその場で死亡し、2人は致命傷を負った(死亡の時点は明記されない) Massachusetts Historical Society 致命傷(mortally wounded)という語にとどまり、死亡が即時か後刻かは明記しない
死亡した住民の死亡時点 5人とも即座に倒れて死亡した American Battlefield Trust(アタックスの人物解説記事) 事件本体の解説記事(SRC-01604)とは異なる記述。本サイトはどちらが正確かを判定せず、両方の記述を出典付きで紹介する
クリスパス・アタックスの身分・経歴 「元奴隷」の男性だった American Battlefield Trust(事件本体の解説記事) 本文中で身分に触れる短い形容として記される
クリスパス・アタックスの身分・経歴 大半の歴史家がアフリカ系と先住民系の混血とみている人物で、ニューイングランドの海事産業に従事し船乗りとしての経験があったとみられる。生涯について分かっていることは多くないとされる American Battlefield Trust(アタックスの人物解説記事) 同一発行元の2記事が触れる範囲が異なる(事件記事は身分を、人物記事は出自と経歴を記す)。本サイトは両方の記述を出典付きで紹介する

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

American Battlefield Trustは、この出来事が「英軍兵士と植民地住民の政治的緊張が致命的なものへ転じた瞬間」であり、実際に何が起きたかにかかわらず政治的対立の炎をあおり、最終的に独立革命へとつながる一連の出来事に火をつけたと記す[SRC-01604]。同団体は、ジョン・アダムズが後年、この夜について「あの夜、アメリカ独立の礎が据えられた」と述べ、約50年後にはレキシントンの戦いやバンカー・ヒルの戦いよりも1770年3月5日のキング・ストリートでの出来事の方が重要だったとまで語ったと記す[SRC-01604]。本サイトはこれをアダムズ個人の後年の回顧として紹介するものであり、独立革命への因果関係そのものを本サイト自身の評価として断定しない。

Massachusetts Historical Societyは、裁判の後にボストンは平穏を取り戻したこと、サミュエル・アダムズが筆名「ヴィンデックス」で新聞にプレストンと兵士たちを再び告発しようとする論説を書いたが世論を動かせなかったこと、しかし3月5日を追悼の日とすることには成功し、記念演説が1784年までボストンで毎年行われたことを記す[SRC-01603]。本サイトは、事件の当事者(発砲した英兵たちと、死亡・負傷した住民たち)のいずれについても、行動の正当性を判定する立場をとらない。

現代の視点

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は著書『Why We Can't Wait』の中でクリスパス・アタックスについて、「彼は自らの人種のために行ったことではなく、あらゆる場所の抑圧された人々のために行ったことのゆえに、アフリカ系アメリカ人史上最も重要な人物の一人である」と述べたとAmerican Battlefield Trustは記す[SRC-01606]。同団体は、19世紀にアタックスが奴隷制廃止運動の象徴となり、ウィリアム・C・ネルやフレデリック・ダグラスといった奴隷制廃止論者たちが彼をアメリカの自由のための最初の殉教者として称賛したこと、20世紀にも音楽家スティーヴィー・ワンダーが彼に言及する楽曲を書き、記念切手も発行されたことを記す[SRC-01606]。HISTORY.comは、現在もボストンのコングレス・ストリートとステート・ストリートの交差点に事件現場を示す標識が置かれていると記す[SRC-01605]。これらは登録出典が伝える範囲の紹介であり、事件そのものの当否についての本サイト独自の評価ではない。

出典一覧

  1. [SRC-01603] The Boston Massacre(Coming of the American Revolution: 1764 to 1776)/Massachusetts Historical Society(ランクA)
  2. [SRC-01604] The Boston Massacre(American Battlefield Trust)/American Battlefield Trust(ランクB)
  3. [SRC-01605] Boston Massacre: Causes, Deaths, Date & Facts(HISTORY)/HISTORY (A&E Television Networks)(ランクB)
  4. [SRC-01606] Crispus Attucks(American Battlefield Trust)/American Battlefield Trust(ランクB)
  5. [SRC-01607] A Verse Occasioned by the late horrid Massacre in King-Street(ブロードサイド、1770年・MHS所蔵)/Massachusetts Historical Society(ランクA)
  6. [SRC-01608] Massachusetts Spy(1770年12月3〜7日号・兵士裁判の報道、MHS所蔵)/Massachusetts Historical Society(ランクA)
  7. [SRC-01609] A Fair Account of the Late Unhappy Disturbance at Boston in New England(ロンドン刊パンフレット、1770年・MHS所蔵)/Massachusetts Historical Society(ランクA)
  8. [SRC-01610] Case of Capt. Thomas Preston of the 29th Regiment(Boston Evening-Post 号外、1770年6月25日号・MHS所蔵)/Massachusetts Historical Society(ランクA)
  9. [SRC-01619] A Young Martyr(The Boston-Gazette, and Country Journal 掲載記事、1770年3月5日号・MHS所蔵)/Massachusetts Historical Society(ランクA)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-19—
22026-09-19不明
32026-09-19不明

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