1582年世界 16世紀
教皇グレゴリウス13世は、改暦の約8か月前に教書「インテル・グラヴィッシマス」を発した——教書自身の日付欄には「1582年」ではなく『1581年』と記されていたとされる
日付と暦
- 原典表記
- 1582年2月24日(ユリウス暦)
- 換算
- 1582-02-24(ユリウス暦)
- 掲載日
- 2月24日のページ
暦の注記: この出来事はユリウス暦の1582年2月24日に起きた[SRC-00045][SRC-00450]。教書自身の日付句は「主の御受肉紀元1581年」という年表記を用いており、これは3月25日を年始とする当時のローマ教皇庁の紀年法によるとみられる(本サイトの整理であり、この点を直接説明する出典は本記事の確認範囲では見つからなかった)[SRC-01529]。この読み替えに従うと、現代の1月1日年始では1582年2月24日にあたると考えられる(詳しくは異説・論争を参照)。この日付は、同年10月4日から10月15日への改暦実施(本サイトの別記事が扱う)より約8か月早く、まだ改暦前のユリウス暦のもとにある。本サイトでは 02-24 のページに掲載している。
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概要
1582年2月24日、ローマ教皇グレゴリウス13世は教書『インテル・グラヴィッシマス』(Inter Gravissimas)を発し、ユリウス暦を改める改暦を命じた[SRC-00045][SRC-00450]。教書はラテン語で「われらの司牧職の最も重い務めの中でも…」(Inter gravissimas pastoralis officii nostri curas…)という一文から始まり、この書き出しの最初の2語にちなんで『インテル・グラヴィッシマス』と呼ばれるとされる[SRC-01529]。教書は、同年のユリウス暦10月4日の翌日をグレゴリオ暦10月15日とし、10日間の日付表記を省くことを定めていたが[SRC-01529]、実際にその切替が起きるのは、この発布から約8か月後のことである。改暦委員会は1577年に組織され[SRC-00450]、改暦案はペルージア大学のアロイシウス・リリウスが立案に関与したとされる(アントニウス・リリウスの役割については資料間に記述の相違があり、詳しくは異説・論争を参照)[SRC-01529][SRC-00450]。教書自身の末尾の日付句は、現代の「1582年」ではなく「主の御受肉紀元1581年」という年表記を用いているとされる[SRC-01529]。
本文
教皇グレゴリウス13世が改暦委員会を組織したのは1577年のことである[SRC-00450]。改暦案の原型は、ペルージア大学で医学を講じていたアロイシウス・リリウスが著したとされる[SRC-01529][SRC-00450]。この原案をめぐるアントニウス・リリウス(アロイシウスの弟)の役割については、資料間で記述に相違がある(詳しくは異説・論争を参照)。委員会での検討を経て、1582年2月24日、教皇はこの改暦案を教書というかたちで発布した[SRC-00045][SRC-00450]。
教書の条文は、改暦の具体的な手順を定めている。10月については、「1582年10月について、10日間(〔10月の〕ノナエ〔7日〕から数えて3日目〔10月5日〕からイドゥス〔15日〕の前日まで)を含めて除くこと、そして聖フランシスコの祝日〔通常10月4日に祝われる〕の翌日を、10月のイドゥスすなわち10月15日と呼ぶこと」を命じている[SRC-01529]。これは、ユリウス暦の10月4日の翌日をグレゴリオ暦の10月15日と呼び替えることで、10日間の日付表記を省く規定である[SRC-01529][SRC-00045][SRC-00450]。閏年の規則も改められ、教書は「1700年・1800年・1900年は閏年としないが、2000年には通常どおり閏日が挿入される」と、具体的な西暦年を挙げて新しい規則を説明している[SRC-01529]。
教書はまた、総主教・首座大司教・大司教・司教・修道院長ら教会指導者に対し、新しい暦を各々の教会・修道院・修道会・教区などに導入し、これのみを用いるよう求めている[SRC-01529]。ただし、教書が発布された1582年2月24日の時点では、この改暦はまだ実施されていない。実際に10月4日の翌日が10月15日と呼ばれるようになるのは、発布から約8か月後のことであり、教書の発布と改暦の実施は、同一の教書に基づきながらも日付としては別の出来事である。
歴史的背景
改暦の背景には、ユリウス暦の平均年の長さが実際の1太陽年よりわずかに長く、その誤差が積み重なることで春分が暦の上でずれ続けていたという事情があったとされる[SRC-00045][SRC-00450]。この春分は復活祭の時期を定める基準とされていた[SRC-00450]。教書自身は、この改暦を「神聖なトリエント公会議が使徒座に留保した事柄を、望ましい終結へと導くこと」と位置づけており、公会議で懸案とされた事項への対応というかたちで説明している[SRC-01529]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1577年(ユリウス暦) | グレゴリウス13世、改暦委員会を組織 | [SRC-00450] |
| 1582年2月24日(ユリウス暦) | 教書『インテル・グラヴィッシマス』発布 | [SRC-00045][SRC-00450] |
| 1582年10月4日(木・ユリウス暦)→10月15日(金・グレゴリオ暦) | 教書が命じた改暦の実施(10日間の日付表記を省く) | [SRC-01529][SRC-00045][SRC-00450] |
| 1582年11月7日(グレゴリオ暦) | 10月の切替に間に合わなかった地域向けの補足宣言(ユリウス暦1583年2月10日の翌日をグレゴリオ暦1583年2月21日とする代替の切替日を規定) | [SRC-01529] |
異説・論争定説のない論点があります
教書の発布日そのもの(ユリウス暦2月24日)については、確認した資料間に対立する記述はなかった。ただし、教書自身が末尾の日付句で用いている年表記と、改暦案の立案・提出をめぐるアントニウス・リリウスの役割の2点について、注意すべき相違がある。
教書の日付句は、ラテン語で「Datum Tusculi, anno Incarnationis dominicae MDLXXXI, sexto Kalendas Martii, pontificatus nostri anno X」(トゥスクルムにて、主の御受肉紀元1581年、3月のカレンダエ〔朔日〕から数えて6日目〔=2月24日〕、われらの在位10年目に、下付した)と記す[SRC-01529]。ここで使われている「主の御受肉紀元」(anno Incarnationis dominicae)は、当時のローマ教皇庁が公文書の日付表記に用いていた、3月25日を年始とする紀年法によるものとみられる(本サイトの整理であり、この点を直接説明する出典は本記事の確認範囲では見つからなかった)。この紀年法のもとでは、1月1日から3月24日までの期間は、現代の1月1日年始でいう年より1少ない年として数えられるとみられる。2月24日はこの期間に含まれるため、教書自身の年表記は「1581年」となっているとみられる。
これに対し、国立天文台暦計算室[SRC-00045]・コトバンク収載『改訂新版世界大百科事典』[SRC-00450]をはじめ、本記事が確認した二次資料はいずれも、現代の1月1日年始に置き換えた「1582年」という年表記のみを用いており、教書自身の年表記が「1581年」であるという点には触れていない。この教書自身の年表記に関する記述は、本記事が独自に確認した教書原文(SRC-01529)1件にとどまり、他の独立した資料による裏づけは、本記事が確認した範囲では見つからなかった。
もう一点、改暦案の立案・提出をめぐるアントニウス・リリウスの役割についても、登録出典の間で記述が割れている。コトバンク収載『改訂新版世界大百科事典』は「改暦案を立案したのは…アロイシウス・リリウス…とその弟アントニウスである」と記し、アントニウスを共同立案者とする[SRC-00450]。これに対し教書原文(第5項)は、アントニウスを「兄アロイシウスがかつて著した書物」を教皇のもとへもたらした人物として記しており、立案者ではなく提出者として扱っている[SRC-01529]。本サイトはいずれの記述が妥当かを判定せず、両説を併記する。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 教書発布年の表記 | 現代の1月1日年始に置き換えた「1582年」 | 国立天文台暦計算室・コトバンク収載『改訂新版世界大百科事典』が用いる年表記[SRC-00045][SRC-00450] | 二次資料が独立2系統で一致して用いる表記 |
| 同上 | 教書自身の日付句が用いる「主の御受肉紀元1581年」(3月25日年始とみられる) | 教書原文(ラテン語)の逐語[SRC-01529] | 一次資料の原文表記だが、他の独立した資料による裏づけは本記事の確認範囲では得られていない |
| アントニウス・リリウスの役割 | アロイシウス・リリウスと共同で改暦案を立案した | コトバンク収載『改訂新版世界大百科事典』[SRC-00450] | 二次資料の記述 |
| 同上 | 兄アロイシウスがかつて著した書物を教皇のもとへもたらした(提出者) | 教書原文(Inter Gravissimas第5項)の逐語[SRC-01529] | 一次資料の記述。本サイトはいずれが妥当かを判定しない |
関連する出来事
- 1582年10月4日→10月15日の改暦実施: この教書が命じた具体的な切替そのものは、本記事とは別の出来事である[SRC-01529]。
- 1582年11月7日(グレゴリオ暦)付の補足宣言: 同じ教皇による別の文書で、10月の切替に間に合わなかった地域向けに、ユリウス暦1583年2月10日の翌日をグレゴリオ暦1583年2月21日とする代替の切替日が定められた[SRC-01529]。
- 各国での採用時期のばらつき: この改暦に同時に対応したのはイタリア・ポーランド・ポルトガル・スペインくらいにとどまったとされる[SRC-00450](国立天文台暦計算室の解説はこの4か国の列挙には触れていない)。イギリスは1752年[SRC-00045][SRC-00450]、日本は1873年[SRC-00045][SRC-00450]、ロシアは1918年[SRC-00045][SRC-00450]と、国や地域による採用時期の違いは300年以上に及んだとされる[SRC-00450]。
関連人物
- グレゴリウス13世(ぐれごりうすじゅうさんせい): ローマ教皇(1502-1585、在位1572-1585)[SRC-00451]。1577年に改暦委員会を組織し[SRC-00450]、1582年2月24日に教書を発した[SRC-00045][SRC-00450]。この教書は『インテル・グラヴィッシマス』と呼ばれるとされる[SRC-01529]。
歴史的意義
教皇グレゴリウス13世が発したこの教書は、今日世界のほとんどの国で使われている暦法(グレゴリオ暦)の出発点となった[SRC-00450]。ただし、教書の発布そのものは改暦の実施を意味しない。実際に10日間の日付表記が省かれるのは、この発布から約8か月後の10月のことである。教書はすべての教会指導者・聖職者に対し、新しい暦を導入しこれのみを用いるよう求めているが[SRC-01529]、この改暦にすぐに対応した国は一部にとどまり、国や地域によって採用時期は大きく異なったとされる(詳しくは関連する出来事を参照)[SRC-00045][SRC-00450]。
現代の視点
「今日は何の日」という感覚で振り返ると、暦を変えた日というと、10月4日から15日への切替(10日間が消えた日)を思い浮かべやすい。しかし、その切替を命じた教書そのものが発せられたのは、2月24日という、改暦の約8か月も前のことだった[SRC-00045][SRC-00450]。政策の「決定」と「実施」が別の日付を持つこと自体は現代の法令でも珍しくないが、この教書の場合、その間隔が約8か月に及び、しかも教書自身の日付欄に記された年(1581年)は、今日ふつうに語られる年(1582年)とも食い違うとされる[SRC-01529]。これは、当時のローマ教皇庁が公文書の日付表記に用いていた、3月25日を年始とする紀年法によるものとみられる(本サイトの整理であり、この点を直接説明する出典は本記事の確認範囲では見つからなかった)。
出典一覧
- [SRC-01529] Inter Gravissimas/The Latin Library(ランクC)
- [SRC-00045] 暦Wiki「グレゴリオ暦」(国立天文台暦計算室)/国立天文台暦計算室(ランクA)
- [SRC-00450] グレゴリオ暦/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営、複数辞典を収載するアグリゲータ)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00451] グレゴリウス(13世)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営、複数辞典を収載するアグリゲータ)(ランクB)(複数の資料を収載)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-18 | — |
| 2 | 2026-09-19 | あり |
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