1649年世界 17世紀

チャールズ1世は1649年1月30日、反逆罪で処刑された——彼を裁いた法廷の設置法を、貴族院はその数日前に反対していた

日付と暦

原典表記
1648年1月30日(当時の年始〔3月25日起算〕による年表記)(ユリウス暦)
換算
1649-01-30(ユリウス暦)
掲載日
1月30日のページ

暦の注記: この出来事は、当時のイングランドで用いられていたユリウス暦の、当時の年始慣行(3月25日起算・Old Style)による表記で1648年1月30日に起きた(ユリウス暦換算〔現代の1月1日年始表記〕: 1649-01-30)[SRC-01330]。イングランドは1752年の改暦まで、旧暦(ユリウス暦)から新暦(グレゴリオ暦)への切り替え前の暦を用い続けており[SRC-00614]、暦法自体の換算は発生しない恒等変換である。加えて当時は1月1日ではなく3月25日を年始とする慣行(Old Style)も用いられており、処刑前日(1月29日)付の死刑執行状は英国議会文書館のカタログにより「29 Jan 1648/9」["29 Jan 1648/9"]という二重年表記で記録される[SRC-01330]——当時の年始表記ではなお1648年、現代の年始表記に置き換えれば1649年である。本サイトでは 01-30 のページに掲載している。換算の帰属は英国議会文書館・庶民院広報室ファクトシートによる[SRC-01330][SRC-00614]。

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概要

1649年1月30日、イングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ1世[SRC-01328]が、ロンドン・ホワイトホールのバンケティング・ハウス外で処刑された[SRC-01329][SRC-01331]。同年1月20日、特別法廷(高等法院)が彼を反逆罪に問い、チャールズは法廷の権限を認めず答弁を拒んだ[SRC-01328][SRC-01334]。1月27日、有罪と判定され、斬首による死刑を宣告された[SRC-01331]。彼を裁いた法廷を設置する法は、下院の一部議員が武力で排除された「プライドの粛清」の後に残った議会が、貴族院の反対決議を押し切って成立させたものであり、法廷の正当性は当時から争われていた[SRC-01332]。この内戦(清教徒革命)の呼称・評価も、後世の史学の中で大きく割れている[SRC-01333]。

本文

1648年12月6日、プライド大佐配下の兵が下院議員45名を逮捕、186名を排除した(プライドの粛清)[SRC-01332]。残った「ランプ議会」の一部勢力は1649年1月6日、貴族院でなお着席していた少数の貴族が数日前に下していた反対決議を無視する形で、チャールズ1世を反逆罪で裁く法廷の設置法を成立させた[SRC-01332]。

裁判は1月20日、ウェストミンスター・ホールで始まった[SRC-01328][SRC-01331][SRC-01334]。チャールズは法の外で統治し議会に対して戦争を仕掛けたとされ[SRC-01331]、協力・答弁・法廷の正当性の承認をいずれも拒んだ[SRC-01334]。「国王はいかなる上位の裁判権によっても裁かれ得ない」["a king cannot be tried by any superior jurisdiction on earth"]というのが彼自身の言い分だったとブリタニカは記す[SRC-01328]。1月27日、有罪と判定され、斬首による死刑が宣告されたと英国議会文書館のカタログは記す[SRC-01331]。法廷は彼を「暴君・反逆者・殺人者・公敵」["a Tyrant, Traitor, Murderer and Public Enemy"]と断じて死刑を宣告したとロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジは記す[SRC-01334]。死刑執行状には59名の委員が署名した[SRC-01330]。1月30日、チャールズはバンケティング・ハウス外の処刑台で処刑された[SRC-01329][SRC-01331][SRC-01334]。同年3月に王政廃止、5月に共和政宣言の各法をランプ議会は成立させた[SRC-01332]。

歴史的背景

チャールズ1世は1625年に即位した後、課税や統治の手法をめぐって議会との対立を重ねた[SRC-01328]。この対立はやがて内戦へと発展し、1648年のロイヤリスト(国王派)蜂起とこれに続く軍の政治介入(プライドの粛清)を経て、チャールズを裁く特別法廷の設置に至った[SRC-01332]。この内戦の呼称・評価を、後世の歴史家は時代ごとに異なる枠組みで捉えてきた(異説・論争欄参照)[SRC-01333]。

タイムライン

日付(暦種別: ユリウス暦) 出来事 出典
1648年12月6日 プライドの粛清(下院議員45名逮捕・186名排除) [SRC-01332]
1649年1月6日 ランプ議会の一部勢力が、貴族院の反対決議を押し切り、チャールズ1世を裁く法廷の設置法を成立させる [SRC-01332]
1649年1月20日 裁判開始(ウェストミンスター・ホール) [SRC-01328][SRC-01331][SRC-01334]
1649年1月27日 有罪判定・斬首による死刑宣告 [SRC-01331]
1649年1月29日 死刑執行状に署名(英国議会文書館のカタログは日付を「29 Jan 1648/9」と記す) [SRC-01330]
1649年1月30日 処刑(バンケティング・ハウス外、ホワイトホール) [SRC-01329][SRC-01331][SRC-01334]
1649年3月 ランプ議会、王政を廃止する法を成立 [SRC-01332]
1649年5月 ランプ議会、共和政を宣言する法を成立 [SRC-01332]
異説・論争定説のない論点があります

法廷の設置手続きと正当性、内戦(清教徒革命)の呼称・評価、死刑執行状の署名者数という3点について、出典間で記述の重点・数値が異なる。本サイトはこれらの当否を判定しない。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
法廷の設置・正当性 法廷設置法は、プライドの粛清で縮小された下院内の一部勢力が、貴族院の直前の反対決議を押し切って成立させたものであり、チャールズ自身も法廷の権限を否認した [SRC-01332][SRC-01328][SRC-01334] UK議会自身が経緯として記す
法廷の設置・正当性 この法を成立させたランプ議会は、のちに自らを「この国の最高権力たる人民の代表による共和国かつ自由国家」["Commonwealth and Free State by the Supreme Authority of this Nation, the Representatives of the People in Parliament"]と宣言しており、自らの統治行為を正統なものと位置づけた [SRC-01332] 同議会自身の立場(UK議会が記す)
内戦(清教徒革命)の呼称・評価 19世紀のホイッグ史観は、専制的な国王と改革的な議会の対立、自由主義的民主主義への道と位置づけた [SRC-01333] 19世紀の学派
内戦(清教徒革命)の呼称・評価 1940年代のマルクス主義的解釈は、事件を「イングランド革命」["English Revolution"]と呼び、商業階級を中心とした階級闘争として描いた [SRC-01333] 1940年代の学派
内戦(清教徒革命)の呼称・評価 1970年代以降の修正主義は、地域的な利害・忠誠関係、チャールズ1世の人物像と王権のあり方、そしてイングランド内戦を「英国」規模の内戦(諸国内戦)["'British' Civil war (or wars)"]へ拡張して捉える視点を重視した [SRC-01333] 1970年代の学派(UK議会が記す)
内戦(清教徒革命)の呼称・評価 その後の研究の一部は、17世紀の出来事を動かした駆動力は政治的・社会的な目的ではなく宗教だったとし、内戦を「(イングランド・英国の)宗教戦争」["English, or British, Wars of Religion"]として位置づけるべきだとする [SRC-01333] 修正主義以降の研究動向(UK議会は「多くの歴史家が今ではそう考えている」と紹介する)
死刑執行状の署名者数 59名の委員が署名・捺印したと英国議会文書館のカタログは記す [SRC-01330] 死刑執行状原本を保管する文書館自身のカタログ記述
死刑執行状の署名者数 159名中57名にとどまったとUK議会の別ページ(Living Heritage解説)は記す [SRC-01332] 同じUK議会が運営する別ページ(本サイトは両者の数値の不一致を認識しており、原本のカタログ記述〔59名〕を本文の記述として主に用いた)

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

チャールズ1世は、反逆罪で裁判にかけられ処刑された唯一のイングランド国王であるとHistoric Royal Palacesは記す[SRC-01329]。彼の処刑は、同年のうちに王政廃止・共和政宣言へと直接つながった[SRC-01332]。処刑の瞬間に居合わせた人々の受け止めそのものが、断罪と殉教という二つの評価に分かれていたことは、以後この出来事がたどった評価の分裂を先取りしていたとも読める——本サイトはこの二つの評価語をいずれもロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジの記述として帰属形で紹介するにとどめ、いずれが妥当かは判定しない[SRC-01334]。同様に、彼を裁いた法廷の正当性、そして内戦そのものの呼称・評価についても、本サイトは異説・論争欄で開示した出典間の相違を判定しない。

現代の視点

本記事の射程は、1648年12月のプライドの粛清から、1649年1月30日の処刑、同年3月・5月の王政廃止・共和政宣言までの経緯に限定する。法廷の正当性論争・内戦の呼称評価は、いずれも上記「異説・論争」欄で出典に基づき開示したとおりであり、本サイトはこの当否を判定しない。現代のイギリス王室制度・君主制論への接続は行わない(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-01328] Charles I | Accomplishments, Execution, Successor, & Facts/Encyclopaedia Britannica, Inc.(ランクB)
  2. [SRC-01329] Charles I: Execution of an English King in 1649 | Banqueting House/Historic Royal Palaces(独立慈善団体。バンケティング・ハウスを含む王室歴史的建造物群を管理・公開する公的性格の機関)(ランクA)
  3. [SRC-01330] Death Warrant of King Charles I/Parliamentary Archives(英国議会文書館)/ UK Parliament(ランクS)
  4. [SRC-01331] Engrossment of the Official Record of the Trial of King Charles I/Parliamentary Archives(英国議会文書館)/ UK Parliament(ランクS)
  5. [SRC-01332] Pride's Purge, 'the Rump' and regicide/UK Parliament(Living Heritage — 議会の歴史解説シリーズ)(ランクA)
  6. [SRC-01333] Great rebellion, English Revolution or War of Religion?/UK Parliament(Living Heritage — 議会の歴史解説シリーズ)(ランクA)
  7. [SRC-01334] 'The memory of the wicked shall rot': The Execution of Charles I/Royal Museums Greenwich(国立海事博物館を含む博物館群。国の非省庁公共機関)(ランクA)
  8. [SRC-00614] The Gunpowder Plot — House of Commons Information Office Factsheet G8/House of Commons Information Office(英国庶民院広報室)/ UK Parliament(ランクA)

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訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-17あり
22026-09-17あり
32026-09-28なし

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