1509年世界 16世紀
ヘンリー8世は1509年6月24日、ウェストミンスター・アビーで戴冠した——王妃キャサリン・オブ・アラゴンも同日、共に戴冠された
日付と暦
- 原典表記
- 1509年6月24日(ユリウス暦)
- 換算
- 1509-06-24(ユリウス暦)
- 掲載日
- 6月24日のページ
暦の注記: この出来事はユリウス暦の**1509年6月24日(日曜日)**に起きた(ユリウス暦のまま換算: 1509-06-24)[SRC-02522]。グレゴリオ暦の導入は1582年10月であり、この日付はそれより73年前にあたるため、換算先の暦種別もユリウス暦のままとなる(機械決定。1582年10月という改暦の年月そのものは本サイトの換算方針が定める定数規則であり、外部出典を要する事実主張ではない)。当時のイングランドは新年を3月25日に開始する慣行(旧方式)を用いていたが、この日付(6月24日)は3月25日より後にあたるため、旧方式・現代方式のいずれで数えても年表記は1509年のまま変わらない[SRC-00044]。本サイトでは 06-24 のページに掲載している。換算は独自に行っておらず、原典の日付をそのまま転記したものである[SRC-02520][SRC-02522][SRC-02523]。
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概要
1509年6月24日、イングランド王ヘンリー8世はウェストミンスター・アビーで戴冠した[SRC-02520][SRC-02522][SRC-02523]。この日、王妃キャサリン・オブ・アラゴンも、ヘンリーと共に戴冠された[SRC-02520][SRC-02522][SRC-02523]。戴冠式のための大衣装局(Great Wardrobe)の会計記録は、「国王の戴冠のため」と「王妃の戴冠のため」を別の区分として記しており、2人が共に戴冠したことを裏付けている[SRC-02522]。ヘンリーの在位中、自ら戴冠式を受けた王妃はキャサリンの他にはアン・ブーリン(1533年)のみだったと、ウェストミンスター・アビー自身が記している[SRC-02520]。
本文
1509年6月21日、ヘンリー8世はグリニッジからロンドン橋を経てロンドン塔へ入った[SRC-02523]。6月22日(金曜日)、戴冠のための準備が整った日、国王は王妃とともにロンドン塔にあって、24名をバス勲爵士(Knights of the Bath)に叙した[SRC-02523]。これとは別に、戴冠式のために作成された準備文書(「device」)は、26名の名誉ある人物がロンドン塔に出頭して国王の晩餐に給仕し、そのうち叙任される者は「その日以降は二度と給仕しない印として」皿を運ぶこと、叙任そのものは6月23日に行うことを予定として定めている[SRC-02522]。この準備文書の予定(23日・26名)は、実施された出来事を記すホール年代記(22日・24名)とは日付・人数の双方で異なる[SRC-02522][SRC-02523]。
6月23日(土曜日)、国王は王妃とともにロンドン塔を出て、ロンドン市内を行列した[SRC-02523]。行列が通る通りには織物や金の布が飾られ、各種同業組合が位の低い職から高い職の順に整列してこれを迎え、金細工師たちの店先には白い衣をまとった処女たちが並んだ[SRC-02523]。ホール年代記によれば、行列はウェストミンスター宮殿に到着し、そこで戴冠式と祝宴のための準備が整えられていた[SRC-02523]。
翌6月24日(日曜日、かつミッドサマー・デー=洗礼者聖ヨハネの祝日)、国王と王妃は天蓋(キャナビー)のもと、ウェストミンスター宮殿からウェストミンスター・アビーへ行列した[SRC-02523]。この戴冠式そのものの準備文書は、ヘンリー8世が「イングランドとフランスの王冠の、正当かつ疑いなき継承者」として王国全体の合意により王として選ばれた者であり、またキャサリンが「スペインとアラゴンの王女、その妻、イングランドとフランスの王妃」として、1509年6月24日・日曜日にウェストミンスターで戴冠されることを定めていた[SRC-02522]。式は、神聖な儀式と古来の慣習に従い、カンタベリー大主教、および同席した王国の他の高位聖職者によって、国王と王妃の双方に油が注がれ、冠が戴せられる形で行われた[SRC-02523]。ウェストミンスター・アビー自身は、この式を執り行った大主教をウィリアム・ウォーラムと記している[SRC-02520]。式の間、王妃は国王より低い椅子に着座した[SRC-02520]。
参列者に、この新しい国王を王として受け入れるかどうかが問われ、深い敬愛と望みを込めて「ye ye(イェ・イェ、受け入れるの意)」との応答が返されたという[SRC-02523]。式の後、国王と王妃はそれぞれの座(国王は右手、王妃は左手)に着き、ウェストミンスター・ホールで大宴が催された[SRC-02523]。この宴の様子は、「かの大カエサルの〔祝宴〕よりも名誉あるもの」と記されている[SRC-02523]。世襲の権利(tenure)により王の擁護者(Champion)を務めるサー・ロバート・ディモックが甲冑姿で入場し、ヘンリー8世の王位継承権に異議を唱える者があれば決闘で応じると布告した[SRC-02523]。祝宴・馬上槍試合はその後も数日間続いた[SRC-02520][SRC-02523]。
この戴冠式の様子は、1532年に作成された修道院長アイスリップの死亡名簿巻物(mortuary roll of Abbot Islip)に描かれており、現在もウェストミンスター・アビーの文書庫に保管されている[SRC-02520]。
歴史的背景
ヘンリー8世は、ヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨークの次男として、1491年6月28日、グリニッジ宮殿で生まれた[SRC-02520]。兄アーサーが死去したため、ヘンリーが王位継承者となった[SRC-02520]。
父ヘンリー7世は、1509年4月、リッチモンドの王宮で死去した[SRC-02521][SRC-02523]。死去の日付は登録した出典の間で記述が割れており、複数の系統が4月21日と記す一方、ホール年代記(事件から約39年後に成立した近接時代の編纂史料)は4月22日と記す[SRC-02521][SRC-02523](詳細は異説・論争を参照)。ホール年代記によれば、ヘンリー8世の治世は父の死去と同じ日に始まり、新国王の称号は4月23日、ロンドン市内でのトランペットの吹奏によって布告された[SRC-02523]。同日、国王はリッチモンドの王宮からロンドン塔へ移り、父の葬儀が終わるまで密かにそこに留まった[SRC-02523]。前王の重臣であったリチャード・エンプソンとエドムンド・ダドリーも同日逮捕され、ロンドン塔に送られた[SRC-02523]。この逮捕について、ホール年代記は二つの見方を記している——前王時代に彼らの権勢によって不利益を被った者たちの悪意によるものという見方と、前王時代の刑罰法令の厳格な執行への苦情をそらし、民衆をなだめるためだったという見方である[SRC-02523]。4月25日には、前王の恩赦をすべて認証し、訴訟中の者を恩赦する旨が布告されたが、反逆罪・殺人・重罪は除外された[SRC-02523]。ヘンリー7世の遺骸は5月9日(水曜日)、チャリオットに納められロンドン市内を経てセント・ポール大聖堂へ運ばれた。翌日さらにウェストミンスターへ移送され、その翌日に埋葬された[SRC-02523]。
前王の葬儀が終わった後、新国王の戴冠式のための大きな準備がなされ、戴冠式は次に来るミッドサマー・デー(6月24日、洗礼者聖ヨハネの祝日)に行われることと定められた[SRC-02523]。この準備の期間中、ヘンリーは顧問の勧めにより、兄アーサーの寡婦であったキャサリン・オブ・アラゴンと結婚した[SRC-02520][SRC-02522][SRC-02523]。結婚の日付は登録した出典の間で記述が割れている。ヘンリー8世自身が1509年6月27日付でマルグリット・ドートリッシュへ宛てた書簡は、結婚が今月(6月)11日に行われたと記しており、ウェストミンスター・アビー公式サイトの記述(6月11日)と一致する[SRC-02520][SRC-02522]。これに対し、ホール年代記は「6月3日」と記しており、8日の相違がある[SRC-02523](詳細は異説・論争を参照)。この結婚は、ローマ教皇ユリウス(原文は序数を記さない)の特免(寡婦となった兄の妻との結婚のため)によって行われた[SRC-02523]。この結婚をめぐる後年の経緯(無効宣言・ヘンリーの後の結婚歴)は、本記事の主題(1509年の戴冠式)の射程外とする。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1509年4月21日(ユリウス暦・複数系統) または 22日(ホール年代記) | ヘンリー7世、リッチモンドの王宮で死去 | [SRC-02521][SRC-02523] |
| 1509年4月22日(ユリウス暦。ホール年代記の記述) | ヘンリー8世、治世を開始 | [SRC-02523] |
| 1509年4月23日(ユリウス暦) | ヘンリー8世の称号、ロンドン市内でトランペットの吹奏により布告される | [SRC-02523] |
| 1509年6月11日(ユリウス暦・ヘンリー8世自身の書簡+ウェストミンスター・アビー) または 3日(ホール年代記) | ヘンリー8世、キャサリン・オブ・アラゴンと結婚 | [SRC-02520][SRC-02522][SRC-02523] |
| 1509年6月21日(ユリウス暦) | ヘンリー8世、グリニッジからロンドン塔へ移る | [SRC-02523] |
| 1509年6月22日・金曜日(ユリウス暦。ホール年代記の記述) | ロンドン塔で、国王・王妃がバス勲爵士24名を叙任 | [SRC-02523] |
| 1509年6月23日・土曜日(ユリウス暦) | 国王・王妃、ロンドン塔からロンドン市内を経てウェストミンスター宮殿へ行列(ホール年代記。本記事の主題に先行する事実) | [SRC-02523] |
| 1509年6月24日・日曜日(ユリウス暦・ミッドサマー・デー=洗礼者聖ヨハネの祝日) | ヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴン、ウェストミンスター・アビーで共に戴冠(本記事の主題) | [SRC-02520][SRC-02522][SRC-02523] |
異説・論争定説のない論点があります
論点1: ヘンリー7世の死去日は4月21日か、4月22日か。 登録した出典の間で記述が分かれるが、4月21日とする記述の系統が複数ある。大英史料オンライン収載のヘンリー8世自身の書簡(マルグリット・ドートリッシュ宛、父の死を伝える内容。目録の見出しは「22日」と記すが、書簡本文自体〔ル・グレ版、177頁に印刷〕は正しくは21日と記すと、大英史料オンラインの編者が脚注で注記している)は、死去日を21日として裏付ける[SRC-02521]。ロンドンから1509年4月26日付で送られた同時代の商人書簡も、「国王は4月21日に死去した」と記す[SRC-02521]。ブリタニカ百科事典も、ヘンリー7世の死去日を「1509年4月21日」と記す[SRC-02525]。一方、ホール年代記(事件から約39年後に成立した近接時代の編纂史料)は、ヘンリー7世が「4月22日、リッチモンドの王宮にて」死去したと記す[SRC-02523]。本サイトは、複数系統が一致する4月21日を有力な説として示しつつ、ホール年代記の記述も併記する。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| ヘンリー7世の死去日 | 1509年4月21日 | ヘンリー8世自身の書簡(大英史料オンライン編者の脚注による訂正を介して確認)・ロンドンの同時代商人書簡・ブリタニカ百科事典 | 当事者本人の書簡(間接的な確認)・同時代の商人報告・現代の機関解説の3系統が一致 |
| ヘンリー7世の死去日 | 1509年4月22日 | ホール年代記(1548年刊、事件から約39年後に成立) | 近接時代の編纂史料(単独系統) |
論点2: ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの結婚日は6月3日か、6月11日か。 ウェストミンスター・アビー公式サイトは「1509年6月11日、彼は寡婦となっていた兄の妻キャサリン・オブ・アラゴンと結婚した」と記す[SRC-02520]。ヘンリー8世自身が1509年6月27日付でマルグリット・ドートリッシュへ宛てた書簡(大英史料オンライン収載)も、「結婚〔espousals〕は今月11日に、彼〔ヘンリー8世〕とキャサリンの間で行われた」と記しており、この6月11日と一致する[SRC-02522]。これに対し、ホール年代記は「6月3日に、かの淑女キャサリンを娶った」と記しており、8日の相違がある[SRC-02523]。大英史料オンライン『ヘンリー8世書簡集』第1巻のカレンダーは、国王と王女の婚礼の言葉の形式を記した文書を収載しているが、この文書自体には編者による特定の日付の見出しが付されておらず、6月10日の記事と6月11日の記事の間に置かれているのみである[SRC-02524]——この配列は6月10〜11日頃を示唆するが、文書自体がその日付を明記しているわけではないため、本サイトはこれを決定的な裏付けとはしない。本サイトは、ヘンリー8世自身の書簡とウェストミンスター・アビーの記述が一致する6月11日を有力な説として示しつつ、ホール年代記の記述も併記する。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| ヘンリー8世とキャサリンの結婚日 | 1509年6月11日 | ヘンリー8世自身の書簡+ウェストミンスター・アビー公式サイト(現代の公式解説) | 当事者本人の同時代記録と現代の機関解説が一致 |
| ヘンリー8世とキャサリンの結婚日 | 1509年6月3日 | ホール年代記(近接時代の編纂史料) | 近接時代の編纂史料(単独系統) |
論点3: 戴冠日についての記録間の相違。 戴冠式の準備文書や会計記録を含む同一の文書集(大英史料オンライン収載)には、後代の筆跡による物語的記述が別に含まれており、これは戴冠式を「1509年6月23日」と記している[SRC-02522]。しかし、この日付には大英史料オンラインの編者自身が「(sic)」の注記を付しており、誤りであることが目録上明示されている[SRC-02522]。戴冠式そのものの準備文書(1509年作成)、ウェストミンスター・アビー公式サイト、ホール年代記は、いずれも戴冠日を6月24日と記している。大衣装局の会計記録(1509年作成)についても、大英史料オンラインの目録見出し(カレンダー上の日付区分)は6月24日とするが、令状本文自体にこの日付が明記されているわけではない。本サイトはこれらの一致した記述に従う(6月23日は上記の後代の誤記のみであり、対立する学説ではない)。
確認された異説(調査範囲): ヘンリー7世の死去日・ヘンリー8世とキャサリンの結婚日・戴冠式を記録する一史料の正確性、の3点について調査し、上記の相違を確認した。戴冠が1509年6月24日(ユリウス暦・日曜日)に行われたこと自体、およびキャサリンが共に戴冠されたことについては、本サイトが確認した範囲で対立する学説は見つからなかった。
関連する出来事
ヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの戴冠(1509年6月)の約24年後、1533年6月1日には、ヘンリーの2番目の王妃アン・ブーリンがウェストミンスター・アビーで戴冠した[SRC-02322]。ヘンリー7世の死去と葬儀(1509年4月〜5月)は、新国王の戴冠式(同年6月)に先行する一連の出来事である[SRC-02521][SRC-02523]。
関連人物
- ヘンリー8世(へんりーはっせい): イングランド国王。1509年6月24日、ウェストミンスター・アビーで戴冠した本記事の主題人物[SRC-02520][SRC-02522][SRC-02523]。
- キャサリン・オブ・アラゴン(きゃさりん・おぶ・あらごん): スペイン・アラゴン王フェルナンドの娘[SRC-02523]。ヘンリー8世の兄アーサーの寡婦であり、1509年6月11日(ホール年代記は6月3日とする)にヘンリーと結婚した後、同年6月24日、ヘンリーと共に戴冠された[SRC-02520][SRC-02522][SRC-02523]。
- ヘンリー7世(へんりーしちせい): イングランド国王。ヘンリー8世の父。1509年4月に死去し、これにより息子ヘンリーが王位を継いだ[SRC-02521][SRC-02523]。
- ウィリアム・ウォーラム(うぃりあむ・うぉーらむ): カンタベリー大主教。ウェストミンスター・アビー公式サイトによれば、1509年6月24日の戴冠式を執り行った[SRC-02520]。
歴史的意義
ウェストミンスター・アビー自身の記述によれば、ヘンリー8世の在位中に自ら戴冠式を受けた王妃は、キャサリン・オブ・アラゴンの他にはアン・ブーリン(1533年)のみだった[SRC-02520]。両者の戴冠はいずれもウェストミンスター・アビーで行われた[SRC-02520][SRC-02322]。
現代の視点
1509年の戴冠式の様子を描いた修道院長アイスリップの死亡名簿巻物(1532年作成)は、現在もウェストミンスター・アビーの文書庫に保管されており、同寺院の公式サイトで購入可能な画像として紹介されている[SRC-02520]。戴冠式そのものの準備文書や、国王・王妃それぞれの戴冠のための会計記録も、大英史料オンラインを通じて現在も閲覧できる[SRC-02522]。これらの史料は、1509年当時の王室の儀礼・会計の実務がどのように文書化されていたかを示す記録として、現代の研究者・一般の読者の双方に参照されている(この評価は本サイトの整理である)。
出典一覧
- [SRC-02520] Henry VIII | Westminster Abbey/Westminster Abbey(Dean and Chapter of Westminster)(ランクA)
- [SRC-02521] 'Henry VIII: April 1509', in Letters and Papers, Foreign and Domestic, Henry VIII, Volume 1, 1509-1514/British History Online/Institute of Historical Research, University of London(原資料: J S Brewer編, His Majesty's Stationery Office, London, 1920)(ランクA)(複数の資料を収載)
- [SRC-02522] 'Henry VIII: June 1509, 16-30', in Letters and Papers, Foreign and Domestic, Henry VIII, Volume 1, 1509-1514/British History Online/Institute of Historical Research, University of London(原資料: J S Brewer編, His Majesty's Stationery Office, London, 1920)(ランクA)(複数の資料を収載)
- [SRC-02523] Hall's Chronicle; containing the history of England, during the reign of Henry the Fourth, and the succeeding monarchs, to the end of the reign of Henry the Eighth(Henry Ellis編, 1809年版)/Internet Archive(原資料: J. Johnson刊, London, 1809。Henry Ellis校訂版。1548年初版の翻刻)(ランクA)
- [SRC-02524] 'Henry VIII: June 1509, 1-15', in Letters and Papers, Foreign and Domestic, Henry VIII, Volume 1, 1509-1514/British History Online/Institute of Historical Research, University of London(原資料: J S Brewer編, His Majesty's Stationery Office, London, 1920)(ランクA)(複数の資料を収載)
- [SRC-02525] Henry VII | king of England | Britannica/Encyclopaedia Britannica, Inc.(ランクB)
- [SRC-02322] Anne Boleyn | Westminster Abbey/Westminster Abbey(ランクA)
- [SRC-00044] Calendar (New Style) Act 1750 (24 Geo 2 c.23) — 英国政府公式法令データベース/legislation.gov.uk(The National Archives、英国政府)(ランクS)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-10-09 | — |
| 2 | 2026-10-09 | あり |
| 3 | 2026-10-09 | あり |
| 4 | 2026-10-09 | なし |
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