ルターは1517年10月31日、マインツ大司教アルブレヒトへの書簡に九十五ヶ条の論題を添えて送った
日付と暦
- 原典表記
- 1517年10月31日(ユリウス暦)
- 換算
- 1517-10-31(ユリウス暦)
- 掲載日
- 10月31日のページ
暦の注記: この出来事はユリウス暦の1517年10月31日に起きた(ユリウス暦のまま換算: 1517-10-31)[SRC-00523][SRC-00524]。グレゴリオ暦の導入は1582年10月であり、この日付はそれより65年前にあたるため、換算先の暦種別もユリウス暦のままとなる(R-CAL-2の機械決定。1582年10月という改暦の年月そのものは本サイトの換算方針が定める定数規則であり、外部出典を要する事実主張ではない)。本サイトでは 10-31 のページに掲載している。換算は独自に行っておらず、原典の日付をそのまま転記したものである(R-CAL-3)[SRC-00523][SRC-00524]。なお、九十五ヶ条の論題(討論命題)そのものの末尾には年(ローマ数字でM.D.Xvii=1517年)のみが記され、日・月の記載はない[SRC-00525]。この書簡と論題が同日にヴィッテンベルク城教会の扉へも掲示されたかどうかについては、現代の宗教改革史研究において見解が分かれている(異説・論争欄参照)。
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概要
1517年10月31日、ヴィッテンベルク大学で神学教授の資格を持っていたマルティン・ルターは[SRC-00524][SRC-00525]、マインツ大司教(兼マクデブルク大司教)アルブレヒトへ一通の書簡を送った[SRC-00523]。この書簡でルターは、贖宥(免罪符)の説教そのものは聞いていないとしつつ、購入するだけで救済が確実になるかのような誤った理解を民衆が抱いていることを憂い、大司教の名で出されていた贖宥担当者向けの指示書を正すよう求めた[SRC-00523]。ルターはこの書簡に、贖宥の効力を大学で討論に付すための九十五ヶ条の論題を同封した[SRC-00523][SRC-00524]。教会の扉に論題そのものが掲示されたという広く知られた逸話については、現代の宗教改革史研究者のあいだで見解が分かれている[SRC-00524]。
本文
マインツ大司教アルブレヒトの名の下では、サン・ピエトロ大聖堂の建築資金を集めるための贖宥(Peter's Indulgence[SRC-00524])が流布していた[SRC-00523]。フィリップ・メランヒトンの1546年の記述は、この贖宥をドミニコ会士ヨハン・テッツェルが説いて回っていたとし、ルターがテッツェルの説教に憤って論題を著したと記している[SRC-00524]。この贖宥の説教を担った担当者(quaestors)は、贖宥に関する特定の項目を説くよう指示する文書『Summary Instruction』によって命じられていたとされる[SRC-00524]。アルブレヒトの名で出されていたとされる贖宥担当者向けの文書を、ルターは書簡の中で『Instruction to the Commissaries』と呼んでいる[SRC-00523]。ルターはこれらの説教そのものは聞いていなかったが、購入者が贖宥によって罪と罰のすべてから解放される、あるいは献金を箱に投じるやいなや煉獄の魂が救われるといった、人々が抱いた誤った印象を深く憂えた——説教者自身を告発するのではなく、民衆が受け取った理解を問題にしたのである[SRC-00523]。
10月31日、ルターはアルブレヒトへ書簡を送り、この指示書の記述を全面的に取りやめ、贖宥担当者の説教のあり方を改めるよう求めた[SRC-00523]。書簡は諸聖人の祝日の前夜(Vigil of All Saints)の日付でヴィッテンベルクから発され、兄弟マルティン・ルター(Brother Martin Luther)の署名で結ばれている[SRC-00523]。追伸には、アルブレヒトが望めば『これらの私の討論命題(Disputations)』を見ることができる旨が記されている[SRC-00523]。この討論命題が九十五ヶ条の論題そのものであり、書簡に同封されていたことは、Leppin と Wengert の論文が確認している[SRC-00524]。同じ研究によれば、ルターはブランデンブルク司教ヒエロニュムスにも同様の書簡を送ったとされるが、アルブレヒト宛・ブランデンブルク司教宛のいずれの書簡も、原本の現存が確認されていない[SRC-00524]。
九十五ヶ条の論題は、討論への招待として書き出され、冒頭で、その場に来られない者は書面で意見を寄せるようにという一文が置かれている[SRC-00525]。11月11日、ルターは論題の写しをエルフルトの同僚アウグスティノ会士ヨハネス・ランゲへ送った[SRC-00524]。11月27日には、メルゼブルク司教が「ヴィッテンベルクのアウグスティノ会修道士の論題が各地に掲示されている(were posted in many locations)」と報告し、これをカエサル・プフルークが同日ザクセン公ゲオルクへ伝えたとされる[SRC-00524]。年内にはニュルンベルクとバーゼルでも論題が再版されたとされる[SRC-00524]。
歴史的背景
ヴィッテンベルク大学では、学位授与や教授同士の自由討論のための論題を、大学規則に従って大学の全教会の扉に公示するのが通例だった[SRC-00524]。この大学規則は掲示説・非掲示説の双方の論証で参照されるが、用いられ方は逆向きである(本サイトの整理)。掲示説側は、この慣行に沿ってルターが論題を城教会(おそらく他の教会も)の扉に掲示した蓋然性を示す根拠として用いる[SRC-00524]。非掲示説側は、後年の記述が城教会の扉だけを語り、大学規則が求める全教会の扉への掲示と食い違うことを、報告の信頼性を疑う根拠として用いる[SRC-00524]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1517年10月31日(ユリウス暦) | ルターがマインツ大司教アルブレヒトへ書簡を送り、九十五ヶ条の論題を同封した | [SRC-00523][SRC-00524] |
| 1517年11月2日(ユリウス暦) | ルターが法学者ヒエロニュムス・シュルフとケンベルクへ向かう道中、論題をめぐる懸念を語り合ったとされる | [SRC-00524] |
| 1517年11月11日(ユリウス暦) | ルターが論題の写しをヨハネス・ランゲへ送った | [SRC-00524] |
| 1517年11月27日(ユリウス暦) | メルゼブルク司教が論題は各地に掲示されている(posted in many locations)と報告し、カエサル・プフルークがこれをザクセン公ゲオルクへ伝えた | [SRC-00524] |
| 1517年内(ユリウス暦。詳細な月日は出典に記載なし) | ニュルンベルク・バーゼルで論題が再版されたとされる | [SRC-00524] |
| 1518年2月13日(推定。ユリウス暦) | ルターがブランデンブルク司教ヒエロニュムスへ、論題の解説書『Explanations』の写しを送ったとされる(ヴァイマル版全集の推定日) | [SRC-00524] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
九十五ヶ条の論題をヴィッテンベルク城教会の扉に掲示したという、広く流布した通説の史実性そのものに、現代の宗教改革史研究では学術的な論争がある。1950年代までフィリップ・メランヒトンの1546年の記述は疑いない史実として受け入れられていたが、1959年にハンス・フォルツが疑問を呈し、その後エルヴィン・イーザーローが掲示の事実そのものを全面的に否定する研究を発表した。この研究はハインリヒ・ボルンカムとクルト・アーラントの反論を招き、以後、多くの研究者が10月末の出来事について慎重な書き方をするようになった[SRC-00524]。本サイトは、この対立する2つの説のいずれが正しいかについて判定を置かない。以下、双方の根拠を出典帰属形で併記する。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 教会の扉への掲示の有無 | 掲示説: 諸聖人の祝日前夜の晩課(選帝侯の聖遺物披露を翌日に控え人出が見込まれた)に合わせ、ルターが城教会(おそらく他の教会も)の扉に論題の写しを掲示した | フィリップ・メランヒトンの1546年の記述(ヴィッテンベルク城に隣接する教会で公に掲示したと記す。原文: "publicly posted them at the Church which is next to the Wittenberg castle")、ゲオルク・レーラーの2種の書き込み——第1(1540年版新約聖書への書き込み。原文: "were posted on the doors of the churches in Wittenberg"〔複数形〕)と、後年にメランヒトンの記述の影響を受けたとみられる第2(原文: "affixing them to the doors of the church next to the castle in Wittenberg"〔単数形〕)——、ゲオルク・マヨール(1517年当時ヴィッテンベルク城教会の聖歌隊員だった人物が書簡でこの掲示に言及している。ただしこの言及がメランヒトンの記述に依存している可能性が同論文自身によって留保されている)、大学の掲示慣行に基づく研究者の論証 | 査読制学術誌 Lutheran Quarterly 掲載論文(Leppin & Wengert, 2015)の共著者の一人が支持する立場として提示。同著者は、メランヒトンの記述の信頼性を裏づける証拠が揃っていると評価し、掲示を否定する側に、より重い立証責任を負わせる論拠だとも述べる |
| 同上 | 非掲示説: ルターは私的に(privatim)意見を求めたと自ら記しており、通常の公開討論の招待とは異なる。ルター自身は生涯を通じ、1545年・1541年の回顧を含め、教会の扉への掲示に一度も言及していない。レーラー・マヨール・メランヒトンの記述は1540年代に形成された確信の反映であり、出来事に最も近いルター自身の証言を覆すだけの重みを持たない | ルター自身の1545年(ラテン語著作集第1巻序文)・1541年(ブラウンシュヴァイク公への反論)の回顧、クリストフ・ショイルの1528年年代記(掲示に触れず、論題が書き写されて各地へ送られたと記す)、エルヴィン・イーザーロー『Luther zwischen Reform und Reformation』(1966年。英訳: The Theses Were Not Posted, 1968年)の研究、非掲示説を支持する研究者の論証 | 同論文のもう一人の共著者が支持する立場として提示。同著者は、出来事に最も近いルター自身の証言が最も説得力を持ち、掲示はなかったという結論に至ると評価する |
| 論争全体の学界での位置づけ | 決着していない問い | Leppin & Wengert (2015) は結論部で、感情や図像的伝統を脇に置けば掲示を支持する論証と否定する論証は同程度に成り立つ(原文: "there are equally good arguments for and against the posting of the Theses")とし、この論争を歴史的に興味深いが最終的には決着しない問い(原文: "historically interesting, but in the final analysis unresolvable question")として残すべきだと述べる | 掲示の有無にかかわらず宗教改革の歴史的重要性は変わらない、とも同論文は付言する |
関連する出来事
- 1517年11月11日、ルターは論題の写しをエルフルトの同僚ヨハネス・ランゲへ送った[SRC-00524]。
- 1518年2月、ルターは論題の解説書『Explanations(Resolutiones)』を著し、ブランデンブルク司教ヒエロニュムスへ写しを送ったとされる[SRC-00524]。
- ルターは『Explanations』に2種の序文を添え、フォン・シュタウピッツと教皇レオ10世へは手書きの写しを送ったとされる。支持者へは1518年8月から印刷された写しを送り始めたとされる[SRC-00524]。
関連人物
- マルティン・ルター: ヴィッテンベルク大学で神学教授の資格を持っていた[SRC-00524][SRC-00525]。この書簡と九十五ヶ条の論題の起筆者であり、兄弟マルティン・ルター(Brother Martin Luther)として署名した[SRC-00523]。
- アルブレヒト(マインツ大司教): マインツ大司教兼マクデブルク大司教、ブランデンブルク辺境伯。書簡の名宛人であり、贖宥担当者向け指示書はその名で出されていた[SRC-00523]。
歴史的意義
この書簡と論題の送付は、贖宥をめぐる神学上の論争の出発点として位置づけられている[SRC-00524]。教会の扉への掲示という広く知られた逸話の史実性が現代の研究で争われている一方、送付という事実そのもの——ルターが1517年10月31日付でマインツ大司教アルブレヒトへ抗議の書簡を送り、論題を同封したこと——は、研究者によって「もっとも確実でもっとも重要な事実(most certain and most important)」と評価されている[SRC-00524]。ただし、この書簡自体の原本は現存が確認されていない[SRC-00524]。Leppin と Wengert は、掲示の有無にかかわらず、この論題が引き起こした神学論争そのものが宗教改革の歴史的重要性を担っていると位置づけている[SRC-00524]。
現代の視点
この論争は、宗教改革500年(2017年)を控えた時期にも学術的な関心を集めた。Leppin と Wengert は、2017年が近づくにつれ、論題の公表方法をめぐる疑問が、1967年の宗教改革450年の時と同様に、論題そのものの意義を損ないかねないと述べつつ、逆に論題の掲示に固執することが、歴史的に確かな論拠よりも宗教改革への思い入れから生じる場合もありうると指摘している(本稿はこの評価そのものへの是非を判定しない)[SRC-00524]。
出典一覧
- [SRC-00523] Letter to the Archbishop Albrecht of Mainz, October 31, 1517(英訳)/Project Wittenberg(Concordia Theological Seminary, Walther Library)(ランクA)
- [SRC-00524] Volker Leppin and Timothy J. Wengert, "Sources for and against the Posting of the Ninety-Five Theses"/Lutheran Quarterly, Inc.(学術誌 Lutheran Quarterly)(ランクA)(複数の資料を収載)
- [SRC-00525] "Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum." Aliter dictum "95 Theses" by Martin Luther(ラテン語原文)/Internet History Sourcebooks Project(Fordham University。編者 Paul Halsall)/底本 D. Martin Luthers Werke: Kritische Gesammtausgabe(ランクA)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-04 | — |
| 2 | 2026-09-04 | あり |
| 3 | 2026-09-04 | あり |
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