1215年世界 13世紀
マグナ・カルタ、1215年6月15日にラニーミードで発行——ジョン王は署名ではなく国璽を押し、当初の名は「ラニーミードの憲章」だったとされる
日付と暦
- 原典表記
- 1215年6月15日(ユリウス暦)
- 換算
- 1215-06-15(ユリウス暦)
- 掲載日
- 6月15日のページ
暦の注記: この出来事はユリウス暦の1215年6月15日に起きた(ユリウス暦換算: 1215-06-15)[SRC-02434][SRC-02435][SRC-02436][SRC-02437]。グレゴリオ暦の導入(1582年)に367年先立つため、換算先の暦もユリウス暦のまま変わらない恒等変換である。本サイトでは06-15のページに掲載している。
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概要
1215年6月15日、イングランド王ジョンは、ラニーミード——テムズ河畔、ウィンザーとステインズの間にある草地——で、反乱を起こした男爵らとの和平のため、全63条からなる勅許状に国璽を押して発行した[SRC-02434][SRC-02435][SRC-02436][SRC-02447]。英国国立公文書館とマグナ・カルタ・プロジェクトは、この行為を「押印(sets his seal/sealed)」と記す[SRC-02435][SRC-02436]。大英図書館の解説は、この認可が「署名ではなく国璽によって証された(authenticated with the Great Seal, not by the signature of the king)」と記している[SRC-02447]。マグナ・カルタ・プロジェクトは、この文書が発行当初「ラニーミードの憲章」と呼ばれていたと記す[SRC-02436]。「マグナ・カルタ」という名で呼ばれるようになったのは、1217年の再発布以降のことである[SRC-02436][SRC-02438]。教皇インノケンティウス3世は、発行からわずか2カ月余り後の同年8月に、この憲章を無効と宣言した[SRC-02435][SRC-02447]。
本文
ジョン王は、1214年のフランス遠征に失敗し、重税と統治への不満を募らせた男爵らの反乱に直面していた[SRC-02435]。1215年5月5日、男爵らはジョン王への臣従を放棄し、ロバート・フィッツウォルターを指導者に立てた[SRC-02435]。5月17日、ロンドン市は反乱男爵らを迎え入れ、ジョン王が望んだ早期の軍事的勝利と内戦終結の望みは絶たれた[SRC-02435]。
6月10日、ジョン王はテムズ河畔のラニーミード草地で反乱指導者らと会談した[SRC-02435]。5日間の集中した協議を経て、6月15日、ジョン王はこの憲章に国璽を押し、その条項を受け入れた[SRC-02435][SRC-02436]。この協議では、事前に男爵側がまとめていた「男爵条項」の多くの項目が拡張・再編され、欠けていた部分が補われた[SRC-02436]。憲章は、ジョン王が助言を得たとする聖職者・貴族らの名を前文に列挙しており、その筆頭はカンタベリー大司教スティーヴンである[SRC-02434][SRC-02435]。6月19日には、反乱男爵らがジョン王との和平を正式に成立させ、臣従を更新した[SRC-02435]。
憲章は全63条からなり、第1条でイングランド教会の自由を認め、第39条で自由人が同輩による適法な裁判または国の法によらずに逮捕・投獄・財産の没収等を受けないことを定め、第40条で何人にも裁判を売らず、拒否・遅延させないことを定めた[SRC-02434]。さらに第61条では、男爵25人による会議を設け、国王がこれらの約束に違反した場合に是正を求める仕組みを定めた[SRC-02434]。
しかし憲章は長くは効力を持たなかった。ジョン王はこれを法体系の集成ではなく和平条約として捉えており、教皇インノケンティウス3世を動かして、1215年8月24日から25日にかけての教皇書簡でこの憲章を無効かつ無価値であると宣言させた[SRC-02435][SRC-02447]。同年9月、ジョン王と反乱男爵らの間で内戦が始まった[SRC-02435]。ジョン王は1216年10月16日にニューアークで死去し、その子ヘンリー3世が10月28日に戴冠した[SRC-02435]。
ヘンリー3世の摂政政府は同年11月12日、内容を一部改めてこの憲章を再発布した[SRC-02435][SRC-02447]。1217年11月6日には、森林に関する規定を分離した「森林憲章」とともに第3版が発布され、この時に文書は初めて「マグナ・カルタ(大憲章)」と呼ばれるようになった[SRC-02435][SRC-02436][SRC-02438]。1225年2月11日、ヘンリー3世自身の名による確認が行われ、この1225年版が最終的な定本となった[SRC-02435][SRC-02447]。
歴史的背景
ジョン王は、大陸領土の大半をフランス王に奪われ、その回復を目指した1214年のフランス遠征も失敗に終わった[SRC-02435]。ソールズベリー大聖堂の解説は、ジョン王がフランスとの戦争の戦費を調達するためイングランド人に課した重税に対し、男爵らが抗議していたと記す[SRC-02437]。英国国立公文書館の解説は、ジョン王が男爵の反乱に直面するなかで教皇の支持を得ようと、1215年3月に十字軍遠征への意志を表明したと記す[SRC-02435]。これらはそれぞれの解説自身の歴史的整理であり、本サイトが独自に合成した因果関係ではない。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1215-05-05(ユリウス暦) | 男爵らがジョン王への臣従を放棄し、ロバート・フィッツウォルターを指導者とする | [SRC-02435] |
| 1215-05-17(ユリウス暦) | ロンドン市が反乱男爵らを迎え入れる | [SRC-02435] |
| 1215-06-10(ユリウス暦) | ジョン王がラニーミードで反乱指導者らと会談を開始 | [SRC-02435][SRC-02436] |
| 1215-06-15(ユリウス暦。本記事の主題) | ジョン王がマグナ・カルタに国璽を押し、その条項を受け入れる | [SRC-02434][SRC-02435][SRC-02436][SRC-02437][SRC-02447] |
| 1215-06-19(ユリウス暦) | 反乱男爵らがジョン王との和平を正式に成立させ、臣従を更新 | [SRC-02435] |
| 1215-08-24〜25(ユリウス暦) | 教皇がマグナ・カルタを無効・無価値と宣言する教皇書簡を発する | [SRC-02435][SRC-02447] |
| 1215-09(ユリウス暦) | ジョン王と反乱男爵らの間で内戦が始まる | [SRC-02435] |
| 1216-10-16(ユリウス暦) | ジョン王がニューアークで死去 | [SRC-02435] |
| 1216-11-12(ユリウス暦) | ヘンリー3世の摂政政府がマグナ・カルタを一部改めて再発布 | [SRC-02435][SRC-02447] |
| 1217-11-06(ユリウス暦) | 森林憲章を分離した第3版を発布。この時に「マグナ・カルタ」という名が初めて用いられる | [SRC-02435][SRC-02436][SRC-02438] |
| 1225-02-11(ユリウス暦) | ヘンリー3世自身の名による確認。1225年版が定本となる | [SRC-02435][SRC-02447] |
異説・論争定説のない論点があります
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 1215年6月15日に何が確定したか | 説1: Magna Carta Projectは「清書され、押印され、発行された(engrossed, sealed and issued)」と、完成文書として記す。説2: 英国国立公文書館は「草案に印章を押し、その条項を受け入れた(sets his seal to a draft of Magna Carta, thereby accepting its terms)」と、より留保的に記す | 説1: [SRC-02436]。説2: [SRC-02435] | 両機関とも日付(6月15日)・場所(ラニーミード)・押印という行為自体には齟齬がなく、文書の確定度(完成版として扱うか、草案への合意として扱うか)の描写の強弱が異なるのみである。本記事の地の文は、勅許状自身が末尾の日付条項で明記する発行日に基づき「6月15日付で発行」という向きで記述し、本欄ではこの描写の強弱の相違を両論併記する |
| マグナ・カルタの当時の性質をめぐる理解 | 説1: ジョン王自身はこれを和平条約として捉えていた。説2: 同じ解説は、この押印がイングランドにおける王権のあり方を恒常的に変えたとも記す | 説1・説2とも: [SRC-02435](同一出典内の記述) | これは対立する学説ではなく、同一出典(英国国立公文書館の歴史学者による解説)が、1215年当時の当事者(ジョン王)の理解と、13世紀を通じた後世の展開への評価を、ともに示したものである。本記事は両方を事実として併記し、本サイト独自の優劣判断は付さない |
| マグナ・カルタの当初の呼び名 | 説1: Magna Carta Projectは、発行当初この文書が「ラニーミードの憲章(the Charter of Runnymede)」と呼ばれていたと記す。説2: 大英図書館の解説は、ジョン王が認可したのは「自由の憲章(the Charter of Liberties)」であり、この文書は後に「マグナ・カルタ」として知られるようになったと記す | 説1: [SRC-02436]。説2: [SRC-02447] | 両機関とも、発行当初は「マグナ・カルタ」という名では呼ばれていなかったことで一致する。発行当初そのものの呼び名については異なる語をそれぞれ単一系統で記しており、本記事はいずれも断定せず両論併記する |
関連する出来事
- 1214年7月27日、ジョン王の同盟軍はブーヴィーヌの戦いでフランス軍に敗れた[SRC-02435]
- 1215年6月10日、ジョン王はラニーミードで反乱指導者らと会談を開始し、男爵側がまとめていた「男爵条項」をもとに5日間の協議が行われた[SRC-02435][SRC-02436]
- 1215年9月、ジョン王と反乱男爵らの間で内戦(教皇による無効宣言後の武力衝突)が始まった[SRC-02435]
- マグナ・カルタは1216年・1217年・1225年に改訂・再発布され、1225年版が最終的な定本となった[SRC-02435][SRC-02447]
関連人物
- ジョン(イングランド王)(じょん): 1199年から1216年まで在位したイングランド王。1215年6月15日、マグナ・カルタに国璽を押して条項を認可した当事者[SRC-02435][SRC-02436][SRC-02447]。1216年10月16日に死去した[SRC-02435]
- スティーヴン(カンタベリー大司教)(すてぃーゔん): 1215年当時のカンタベリー大司教。マグナ・カルタの前文で、ジョン王が助言を得たとする父君らの筆頭に名を連ねている[SRC-02434][SRC-02435]
歴史的意義
英国国立公文書館の歴史学者による解説は、ジョン王がマグナ・カルタに印章を押したことで、イングランドにおける王権のあり方が変わり、国王はもはや自身の意志のみに基づいて行動する存在とは見なされなくなったと記す[SRC-02435]。同解説はまた、13世紀を通じて、国王が軍資金を求める際にしばしば男爵への政治的譲歩を迫られる構図が生まれたとし、これが中世議会の発展に寄与したと記している[SRC-02435]。これらはいずれも同解説自身の歴史的評価であり、本サイトが独自に検証した因果関係ではない。
現代の視点
リンカン城は、マグナ・カルタが今日、自由と法の支配の国際的な象徴として受け止められていると紹介している[SRC-02438]。ただし、本記事が確認した第39条の条文自体は「自由人(freemen)」を主語としている[SRC-02434]。大英図書館の解説は、この「自由人」が中世イングランドの人口のうちごく一部に過ぎなかったと記している[SRC-02447]。この文書が後世どのように読み替えられ、普遍的な権利の象徴として受け止められてきたかは、本サイトが独自に評価する論点ではなく、各時代における解釈の積み重ねとして記録するにとどめる。
出典一覧
- [SRC-02434] Magna Carta (1215)/The Avalon Project, Lillian Goldman Law Library, Yale Law School(ランクA)
- [SRC-02435] Magna Carta 1214-1225 (teaching resource: primary source transcripts, background, timeline)/The National Archives (UK)(ランクS)
- [SRC-02436] The Magna Carta Project — Introduction: Magna Carta 1215/The Magna Carta Project (University of East Anglia / King's College London)(ランクA)
- [SRC-02437] Magna Carta (Salisbury Cathedral)/Salisbury Cathedral(ランクA)
- [SRC-02438] Magna Carta (Lincoln Castle)/Lincoln Castle (on permanent loan from Lincoln Cathedral)(ランクA)
- [SRC-02447] Magna Carta: an introduction/The British Library(ランクA)
本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。
訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-10-08 | — |
| 2 | 2026-10-09 | あり |
| 3 | 2026-10-09 | あり |
| 4 | 2026-10-09 | あり |
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