1265年世界 13世紀

シモン・ド・モンフォールが招集した議会が開会した——庶民代表を招いたこの集会の意義づけは、当のイギリス議会自身の説明でも一様ではない

日付と暦

原典表記
1265年1月20日(ユリウス暦)
換算
1265-01-20(ユリウス暦)
掲載日
1月20日のページ

暦の注記: この出来事はユリウス暦の1265年1月20日に起きた(ユリウス暦換算: 1265-01-20)[SRC-01248]。当時のイングランドはまだグレゴリオ暦改暦(1582年10月15日)以前であり、原典の日付とユリウス暦換算値は同一である(恒等変換)。本サイトでは 01-20 のページに掲載している。この開会日はUK議会自身の公式解説による[SRC-01248]。

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

1264年12月14日、当時イングランドを事実上統治していたシモン・ド・モンフォールは、第2の議会を招集した[SRC-01248]。招集されたのは在俗の有力者23名・聖職者(同解説の表記では"bishops")約120名に加え、各州から騎士2名・各都市から市民代表2名、シンク・ポーツ〔五港〕から各4名だったとUK議会公式解説は記す[SRC-01248]。議会は1265年1月20日にウェストミンスターで開会し、同年3月まで続く、モンフォールの統治期間中最長の議会となった[SRC-01248]。招集の目的は、1264年5月のルイスの戦いでモンフォールに捕らえられていた[SRC-01250]王子エドワード(のちのエドワード1世)[SRC-01249]の釈放をめぐる取り決めを協議することだったと記される[SRC-01248]。都市・自治都市の代表を各州の騎士とともに招いたこの構成は、今日の庶民院に結びつけて語られる一方[SRC-01248]、モンフォール自身は「意識的に庶民院を創設していたわけではない」と、招集元であるUK議会自身の別の解説は記しており[SRC-01249]、議会を招集した狙いについても評価が分かれている[SRC-01249][SRC-01250]。

本文

シモン・ド・モンフォールは1208年頃、フランス・イルドフランス地方のモンフォールに生まれたとされ、イングランドでレスター伯となった、ヘンリー3世に対するバロン反乱の指導者である[SRC-01250][SRC-01251]。1263年12月、モンフォールはルイ9世による裁定を受け入れざるを得なくなったが、翌1264年1月のミーズ・オブ・アミアンでルイはそれまでの改革条項をすべて無効としたため、モンフォールはこの裁定を拒否し、直接交渉の試みが失敗したのち、同年5月14日のルイスの戦いでヘンリーを破り、ヘンリーとその子である王子エドワードを捕らえた[SRC-01250]。以後モンフォールは、ブリタニカの表現では「軍事独裁」によってイングランドを統治し、ヘンリー支持者との交渉と、州および自治都市双方の代表を議会に招集することの両面によって、統治の法的な合意基盤を得ようと努めたが成功しなかったと記される[SRC-01250]。この議会への招集は、モンフォールのバロン層からの支持不足を埋め合わせるためだったとブリタニカは明記する[SRC-01250]。

議会は1264年12月14日に招集され、1265年1月20日に開会した[SRC-01248]。UK議会公式解説は、この議会を「課税の承認ではなく国政上の事項を協議するため」のものであり、「都市・自治都市の代表が各州の騎士とともに出席した最初の議会」だったと位置づける[SRC-01248]。招集の直接の目的は、捕虜となっていた[SRC-01250]王子エドワードの釈放をめぐる取り決めの協議だったとされる[SRC-01248]。

しかしモンフォールの権力独占は、主要な盟友であった若きギルバート・ド・クレア(グロスター伯)を疎外し、同人は国王方のマーチ卿らに加わり、1265年5月にヘレフォードで王子エドワードの脱出を確保した[SRC-01250]。エドワードは迅速な用兵によってモンフォールをセヴァーン川の向こうに孤立させ、8月1日にケニルワースで彼を救援に来た大軍を撃破し[SRC-01250]、8月4日、イーヴシャムの戦いでモンフォールの小部隊を罠にかけ、モンフォールとその従者の大半を殺害した[SRC-01250][SRC-01251]。ケニルワース城の管理団体English Heritageは、モンフォールの死後、彼の支持者たちがケニルワース城へ退き、1266年にヘンリー3世が6か月に及ぶ攻城戦を行ったが、城は陥落せず、最終的に休戦が合意されたと記している[SRC-01251]。

歴史的背景

モンフォールが招集した議会をめぐっては、招集した本人の評価そのものが、招集元であるUK議会自身の解説の中で割れている。同解説は、モンフォールが「もちろん意識的に庶民院を創設していたわけではない」としたうえで、改革は正しく正当だという信念に導かれた指導者と見なされてきた面がある一方、当時多くの人々からは「融通の利かない狂信者」あるいは「私利を追う日和見主義者」とも見なされていたと記す[SRC-01249]。同解説はさらに、モンフォールが武力で権力を握り、自らの地位を使って一族・従者を富ませ、その結果、有力な盟友であったギルバート・ド・クレアを疎外するに至ったこと、そして「イングランド人のためのイングランド」の擁護者を自任するポピュリスト指導者だったことを挙げる[SRC-01249]。ブリタニカが記す、議会への招集を「バロン層からの支持不足を埋め合わせるため」の方策と位置づける記述も、同様の性格づけと軌を一にする[SRC-01250]。

タイムライン

日付(ユリウス暦) 出来事 出典
1264年1月 ルイ9世による裁定(ミーズ・オブ・アミアン)をモンフォールが拒否 [SRC-01250]
1264年5月14日 ルイスの戦いでモンフォールがヘンリー3世を破り、ヘンリーと王子エドワードを捕らえる [SRC-01250]
1264年12月14日 モンフォールが第2の議会を招集 [SRC-01248]
1265年1月20日 議会がウェストミンスターで開会(本記事の対象日) [SRC-01248]
1265年3月(頃) 議会が終了(1月開会から3月まで続いた、モンフォール統治期間中最長の議会) [SRC-01248]
1265年5月 王子エドワードがヘレフォードで脱出、国王方のマーチ卿らと合流 [SRC-01250]
1265年8月1日 エドワードがケニルワースでモンフォールの救援軍を撃破 [SRC-01250]
1265年8月4日 イーヴシャムの戦いでモンフォールが戦死 [SRC-01250][SRC-01251]
1266年 ケニルワース城で6か月に及ぶ包囲の末、陥落せず休戦が成立 [SRC-01251]
異説・論争定説のない論点があります

モンフォールが招集したこの議会を「議会制民主主義の起源」あるいは今日の庶民院につながる画期と位置づける語りと、それをより慎重に相対化する語りとが、出典間で——時には同一発行元の異なるページの間でさえ——併存している。本サイトはいずれの位置づけが妥当かを判定しない。

一方で、招集元であるUK議会自身の公式解説(「Simon De Montfort's parliament」ページ)は、都市・自治都市の代表が各州の騎士とともに出席したこの議会の構成を、「より代表制的な民主主義の基盤を形づくった」ものであり、「モンフォール議会の構成は今日知られる庶民院に結びつけて語られる」と明記する[SRC-01248]。

他方で、同じUK議会が運営する別の解説ページ(「Simon De Montfort's Legacy」)は、「モンフォールは、もちろん意識的に庶民院を創設していたわけではない」と明記したうえで、モンフォールが当時「融通の利かない狂信者」あるいは「私利を追う日和見主義者」とも見なされていたこと、武力で権力を握り一族・従者を富ませたことを記す[SRC-01249]。同ページはまた、モンフォールが州・都市の代表を議会に招くという慣行そのものは、彼の死後、1272年に即位したエドワードが引き継ぎ、これが次第に頻繁になった結果、14世紀に庶民院として結実したと位置づけており、1265年の議会単独を庶民院の「起源」と直接には結びつけていない[SRC-01249]。ブリタニカも、1265年の議会への招集を「バロン層からの支持不足を埋め合わせるため」の方策として記しており[SRC-01250]、この議会が理念的な代表制改革の実践であったと同時に、モンフォール個人の政治的窮状に由来する方策でもあったという、両面の性格づけが出典間に見て取れる。

本サイトが登録した出典の範囲では、この対立は特定の歴史家の名を冠した学術論争としてではなく、UK議会自身の公式解説の中での重点の違いとして確認された(調査範囲: 本記事が登録した4件の出典〔UK議会2ページ・ブリタニカ・English Heritage〕。学術専門誌・大学の個別研究者による論考へのアクセスは、本記事執筆時点でのアクセス制約〔後述の提出宣言参照〕により確認できなかった)。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
1265年議会の歴史的位置づけ 都市・自治都市の代表を含む構成は「代表制民主主義の基盤」であり、今日の庶民院に結びつけて語られる [SRC-01248] UK議会自身の公式解説(概説ページ)
1265年議会の歴史的位置づけ モンフォールは意識的に庶民院を創設していたわけではなく、州・都市代表の招集という慣行が庶民院として結実するのは、モンフォールの死後、14世紀にかけてのことである [SRC-01249] 同じUK議会が運営する別の解説ページ(人物評伝・後世への影響を扱うページ)
モンフォールの人物像・招集の動機 改革は正しく正当だという信念に導かれた指導者だったと見なされる面がある [SRC-01249] UK議会公式解説
モンフォールの人物像・招集の動機 当時多くの人々からは融通の利かない狂信者、あるいは私利を追う日和見主義者とも見なされ、議会への招集自体がバロン層からの支持不足を埋め合わせる方策だった [SRC-01249][SRC-01250] UK議会公式解説・ブリタニカ双方

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

UK議会自身の公式解説は、この議会での代表の構成(都市・自治都市の代表を各州の騎士とともに招いたこと)を、今日の庶民院に結びつけて語る一方[SRC-01248]、同じ発行元の別の解説は、モンフォール自身が意識的に庶民院を創設していたわけではなく、州・都市代表を議会に招くという慣行が制度として定着するのは、モンフォールの死後、1272年に即位したエドワードによる招集がしだいに頻繁になった14世紀のことだったと位置づける[SRC-01249]。本サイトは、この議会が単独で「議会制民主主義の起源」であったと断定はせず、招集元自身の解説の中に、この出来事を大きな物語として語る記述と、より慎重に位置づける記述の両方が存在することを、出典に基づき開示する。

現代の視点

本記事の射程は、1264年12月の招集から1265年1月20日の開会、同年8月のモンフォールの死、1266年のケニルワース城での休戦までの経緯の紹介にとどめる。1265年の議会とその後世への意義づけをめぐる評価の違いは、上記「異説・論争」欄で出典に基づき開示したとおりであり、本サイトはこの評価の当否を判定しない。現代のイギリス議会政治や現代の代表制民主主義論への接続は行わない(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-01248] Simon De Montfort's parliament/UK Parliament(Living Heritage — Origins of Parliament)(ランクA)
  2. [SRC-01249] Simon De Montfort's Legacy/UK Parliament(Living Heritage — Origins of Parliament)(ランクA)
  3. [SRC-01250] Simon de Montfort, earl of Leicester/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
  4. [SRC-01251] Kenilworth Castle — History and Stories: Significance/English Heritage(ランクA)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-09-16あり
22026-09-16あり
32026-09-16あり
42026-09-28なし

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。