1364年世界 14世紀

1364年5月12日、ポーランド王カジミェシュ3世がクラクフに大学設立の特許状を発給した——後に「ヤギェウォ大学」と呼ばれるようになる大学の起源

日付と暦

原典表記
1364年5月12日(ユリウス暦)
換算
1364-05-12(ユリウス暦)
掲載日
5月12日のページ

暦の注記: この出来事はユリウス暦の1364年5月12日に起きた(ユリウス暦のまま換算: 1364-05-12)[SRC-02158][SRC-02161]。グレゴリオ暦の導入は1582年10月であり、この日付はそれより218年前にあたるため、換算先の暦種別もユリウス暦のままとなる(機械決定)。中世の一部地域には年始を復活祭や3月25日とする慣行があったが、本記事の対象日(5月12日)はいずれの基準日よりも後にあたるため、年始慣行の違いによって年表記が分かれることはない(本サイトの整理)。本サイトでは 05-12 のページに掲載している。換算は独自に行っておらず、原典の日付をそのまま転記したものである[SRC-02158][SRC-02161]。

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

1364年5月12日、ポーランド王カジミェシュ3世(大王)は、当時の王国の首都クラクフに大学を設立する特許状を発給した[SRC-02158][SRC-02159]。設立当時の名称は「ストゥディウム・ゲネラーレ」であり、自由学芸・医学・法学の3学部からなっていたとされる[SRC-02158]。出典の一つによれば、同年9月1日、教皇ウルバヌス5世もこの設立を承認し、神学部の設置は認めなかった[SRC-02161]。1370年にカジミェシュ3世が死去すると大学は活動を停止したとされ、1400年にヴワディスワフ2世ヤギェウォによって再建された[SRC-02158][SRC-02159]。この大学は、1817年以降、現在の名称「ヤギェウォ大学」を用いているとされる[SRC-02159]。

本文

カジミェシュ3世が大学設立を構想していたことを示す最初の文書上の証拠は、1362年に遡る[SRC-02161]。王は長年の努力の末、教皇ウルバヌス5世の支持を得て、1364年5月12日、クラクフに大学を設立する特許状を発給した[SRC-02160][SRC-02161]。この大学は、パドヴァとボローニャの学校を範として設計された[SRC-02161]。

出典によれば、同年9月1日、教皇ウルバヌス5世は大学設立を承認し、神学部の設置は認めなかった[SRC-02161]。ウィーン・ペーチの両大学についても、同様に神学部の設置は認められなかった[SRC-02160]。大学が実際に活動を開始したのは、1367年より早くはなかったとされる[SRC-02160]。大学公式サイトの記述によれば、設立時の3学部(自由学芸・医学・法学)のうち、創立者カジミェシュ3世の存命中に実際に機能していたのは自由学芸・医学の2学部のみであった[SRC-02158][SRC-02159]。

1370年、カジミェシュ3世が死去した。後継者となったハンガリー王ルドヴィクが大学に関心を示さなかったため、大学はまもなく活動を停止したとされる[SRC-02160]。1390年代に再建が試みられたが、いずれも失敗した[SRC-02158]。1399年に死去した王妃ヤドヴィガが、私財の相当な部分を大学に遺贈する旨を遺言に記しており、この遺贈が再建の実現に寄与した[SRC-02158][SRC-02159]。1397年には神学部が正式に設置され、1400年7月26日、国王ヴワディスワフ2世ヤギェウォによって大学は再建された[SRC-02158][SRC-02159][SRC-02161]。再建後の主要な学寮は、まず「王の学寮(コレギウム・レギウム)」、後に「大きな学寮(コレギウム・マイウス)」と呼ばれた[SRC-02158][SRC-02159]。

歴史的背景

14世紀半ば、プラハには1348年に大学が設立されていた[SRC-02160]。クラクフに設立された大学は、大学教授スタニスワフ・ヴァルトシによる大学公式サイト掲載の歴史解説によれば、プラハに次いで中欧で2番目に設立された大学であったとされる[SRC-02160]。この解説は、クラクフの大学設立の後、間もなくウィーン(1365年)・ペーチ(1367年)・ハイデルベルク(1386年)にも大学が設立されたと記している[SRC-02160]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1362年(ユリウス暦) カジミェシュ3世による大学設立構想を示す最初の文書上の証拠(本記事の前提事実) [SRC-02161]
1364年5月12日(ユリウス暦) カジミェシュ3世、クラクフに大学を設立する特許状を発給する(本記事の主題) [SRC-02158][SRC-02159][SRC-02161]
1364年9月1日(ユリウス暦) 教皇ウルバヌス5世が大学設立を承認したとされる(神学部は除外) [SRC-02161]
1367年より早くない(ユリウス暦) 大学が実際に活動を開始したのは1367年より早くはなかったとされる [SRC-02160]
1370年(ユリウス暦) カジミェシュ3世が死去し、大学は活動を停止したとされる [SRC-02158][SRC-02159][SRC-02160]
1397年(ユリウス暦) 神学部が正式に設置される [SRC-02158][SRC-02159]
1400年7月26日(ユリウス暦) ヴワディスワフ2世ヤギェウォによって大学が再建される [SRC-02158][SRC-02159][SRC-02161]
1817年(グレゴリオ暦) 大学が現在の名称「ヤギェウォ大学」を名乗るようになったとされる [SRC-02159]
異説・論争定説のない論点があります

出典間の記述の相違(設立を承認した教皇の呼称): 本記事の出典の一つ(大学教授による大学公式サイト掲載の歴史解説、SRC-02160)は、神学部設置への不同意を示した教皇を「ウルバヌス6世」と記す。しかし、ウルバヌス6世が教皇に選出されたのは1378年のコンクラーヴェによるものであり、1364年当時は未だナポリ王国アチェレンツァの大司教に叙階されたばかりであった[SRC-02164]。1364年当時の教皇はウルバヌス5世(在位1362年-1370年)であり、別の出典(カトリック百科事典)は、この教皇が「1364年の大勅書によりクラクフに大学を設立した」と明記している[SRC-02163]。本サイトは、年代的に整合するウルバヌス5世を採用する。これはクラクフでの大学設立承認についての、単一出典内の一箇所の誤記と見られ、同出典の他の記述(3学部構成・活動開始は1367年より早くないこと・国王死去1370年・後継者の無関心等)は他出典と矛盾しないため、その点は採用している。

設立時に実際に機能し、中心的だった学部はどれか: 大学公式サイト(SRC-02158・SRC-02159)は、創立者カジミェシュ3世の存命中に実際に機能した学部を自由学芸・医学の2学部のみとし、法学部をそこに含めない。一方、カトリック百科事典(SRC-02161)は、大学がパドヴァとボローニャの学校を範としたため、法学部とローマ法の研究が「第一の地位を占めた」と記す。両者は、特許状上の設計意図(法学の重視)と、創立者存命中の実際の運営実態(法学部は機能しなかった)の相違として理解することができ、本サイトはいずれの記述が優位するかを判定しない。

大学の継続性をめぐる記述——大学自身の記述の中にある相違: 大学公式サイト(SRC-02158・SRC-02159)は、1400年の再建以後、大学は「二度と教育・学術活動を中断しなかった」と記している。しかし同じページの後段は、1939年11月6日にナチス・ドイツ当局が大学関係者を拘束したこと、大学が閉鎖されたこと(出典はこの閉鎖自体に年次を付していない)、1942年に約800人の学生を対象とする地下教育が始まったことを記している[SRC-02158][SRC-02159]。本サイトは、この「継続性」の記述を出典自身の整理として紹介するにとどめ、同一出典内のこの記述の相違をここに開示する。

論点 説 根拠・出典 学界での位置づけ
大学設立を承認した教皇の呼称 ウルバヌス6世 SRC-02160(単一出典内の記述) 年代的に成立しない誤記と判断(ウルバヌス6世の教皇選出は1378年)
大学設立を承認した教皇の呼称 ウルバヌス5世 SRC-02161・SRC-02163(いずれも1913年版カトリック百科事典の記事) 在位期間(1362年-1370年)と整合する記述
設立時に実際に機能し中心的だった学部 自由学芸・医学の2学部のみが機能し、法学部は機能しなかった SRC-02158・SRC-02159 大学自身の自己史記述
設立時に実際に機能し中心的だった学部 パドヴァ・ボローニャを範とし、法学部・ローマ法研究が第一の地位を占めた SRC-02161 定評ある百科事典の記述。本サイトは両説の優劣を判定しない

関連する出来事

クラクフに設立されたこの大学は、1400年の再建後、15世紀に大きく発展し、1491年には天文学者ニコラウス・コペルニクスが学生として登録したことで知られる(大学自身の記述による)[SRC-02158]。大学は、1370年から1400年までの約30年間、活動を停止していたとされる時期を挟んでいる[SRC-02158][SRC-02159][SRC-02160]。

関連人物

歴史的意義

この大学は、1364年の設立から1370年の活動停止、1400年の再建を経て、以後は活動を中断することなく存続していると大学自身は位置づけており、ポーランド国内で最古の高等教育機関としている(大学自身の記述による。ただし同じ出典は第二次大戦中の閉鎖にも触れており、この点は異説・論争欄で開示する)[SRC-02158][SRC-02159][SRC-02162]。大学公式サイトは、2024年をこの大学の「660周年」としている[SRC-02162]。設立の起点(1364年)から周年を数えるこの数え方と、1370年から1400年までの約30年間にわたる活動停止という出典の記述との関係については、出典自身が明示的に論じているわけではない。本サイトは、特許状の発給という設立の出来事自体と、その後の継続的な活動の有無とは別の事柄として区別する(この整理は本サイトによるものである)。

現代の視点

大学は、16世紀末以降「クラクフ・アカデミー」と呼ばれるようになり、1817年以降、現在の名称「ヤギェウォ大学」を用いているとされる[SRC-02159]。この名称は、1400年の再建に関わった王朝(ヤギェウォ朝)にちなむものであり、設立時(1364年)の名称「ストゥディウム・ゲネラーレ」とも、再建直後の学寮名「コレギウム・レギウム(王の学寮)」とも異なる、450年以上後の呼称であるとされる[SRC-02159]。本記事が主題とする1364年の設立の出来事と、現在一般に知られる大学名「ヤギェウォ大学」とは、同じ制度についての、異なる時代の呼称であることをここに整理する。

出典一覧

  1. [SRC-02158] History – Jagiellonian University/Jagiellonian University(ランクA)
  2. [SRC-02159] Historia AUJ – Archiwum Uniwersytetu Jagiellońskiego/Archiwum Uniwersytetu Jagiellońskiego (Jagiellonian University Archives)(ランクA)
  3. [SRC-02160] Tradycja i współczesność (Narodziny) — Stanisław Waltoś/Uniwersytet Jagielloński(著者: Stanisław Waltoś)(ランクA)
  4. [SRC-02161] The University of Cracow — Catholic Encyclopedia (1913)/Robert Appleton Company(New Advent掲載版)(ランクB)
  5. [SRC-02162] Overview – Jagiellonian University/Jagiellonian University(ランクA)
  6. [SRC-02163] Pope Bl. Urban V — Catholic Encyclopedia (1913)/Robert Appleton Company(New Advent掲載版)(ランクB)
  7. [SRC-02164] Pope Urban VI — Catholic Encyclopedia (1913)/Robert Appleton Company(New Advent掲載版)(ランクB)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

版日付事実主張への変更
12026-10-03—
22026-10-03あり
32026-10-03あり
42026-10-03あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。