西郷隆盛は、朝鮮への使節派遣を退けられ、参議の辞表を提出した — 検証記録
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中核となる主張と、その根拠
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参議西郷隆盛が参議・近衛都督の辞表を提出したのは、明治6年(1873年)10月23日である(本記事の採用説。出典間に10月22日の対決後・10月24日とする記述があり、割れの内容は記事の異説・論争欄に記す)。
確からしさ: 諸説あり
- 西郷隆盛が参議の辞表を提出したのは明治6年(1873)10月23日。翌日、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の4参議も辞表を提出して政府から去った。10月28日朝、西郷は東京を発って鹿児島に向かい、再び東京の地を踏むことがなかった。「明治六年政変」または「征韓論政変」といわれる政府の分裂である。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 10月14日・15日の閣議での議論と15日の三条による西郷派遣容認の決定、三条の発病(10月18日)、10月21日までに固められた上奏方針、10月22日の会談(「二二日、西郷、副島、板垣、江藤の参議四人が岩倉邸に行き会談となった」/参議一同は「致方ナシ」といって引取り、著者はこれを「あきらめたのである」と読む)、23日朝の岩倉の上奏と天皇の回答留保、同日西郷が朝早々に辞表を書き日本橋小網町の自宅を出て小梅村の別邸に移ったこと、23日に正院には後藤象二郎と大木喬任が出席していたこと、24日午前9時の勅書「汝具視カ奏状、之ヲ嘉納ス」と西郷の辞職許可(陸軍大将の辞職・位記返上は不許可)、同日の板垣・江藤・後藤・副島の辞表提出(翌25日許可)、大久保・木戸の辞表却下。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 「同年5月、朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で参議板垣退助は出兵論を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。」「10月15日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定され、三条は苦悩のあまり人事不省に陥り執務不能となった。そこで岩倉が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文と組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷使節派遣を葬った。23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も抗議辞職して政府は大分裂した。この政変は、通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、真相は以上のとおりであり、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望したのである。」(逐語) — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
西郷隆盛は、参議と近衛都督の辞表を提出した。
確からしさ: 確実
- 西郷隆盛が参議の辞表を提出したのは明治6年(1873)10月23日。翌日、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の4参議も辞表を提出して政府から去った。10月28日朝、西郷は東京を発って鹿児島に向かい、再び東京の地を踏むことがなかった。「明治六年政変」または「征韓論政変」といわれる政府の分裂である。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 10月14日・15日の閣議での議論と15日の三条による西郷派遣容認の決定、三条の発病(10月18日)、10月21日までに固められた上奏方針、10月22日の会談(「二二日、西郷、副島、板垣、江藤の参議四人が岩倉邸に行き会談となった」/参議一同は「致方ナシ」といって引取り、著者はこれを「あきらめたのである」と読む)、23日朝の岩倉の上奏と天皇の回答留保、同日西郷が朝早々に辞表を書き日本橋小網町の自宅を出て小梅村の別邸に移ったこと、23日に正院には後藤象二郎と大木喬任が出席していたこと、24日午前9時の勅書「汝具視カ奏状、之ヲ嘉納ス」と西郷の辞職許可(陸軍大将の辞職・位記返上は不許可)、同日の板垣・江藤・後藤・副島の辞表提出(翌25日許可)、大久保・木戸の辞表却下。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 「同年5月、朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で参議板垣退助は出兵論を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。」「10月15日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定され、三条は苦悩のあまり人事不省に陥り執務不能となった。そこで岩倉が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文と組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷使節派遣を葬った。23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も抗議辞職して政府は大分裂した。この政変は、通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、真相は以上のとおりであり、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望したのである。」(逐語) — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
岩倉具視は10月23日朝、仮皇居に参内し、天皇と対面して奏上した。天皇は即答を避け、翌日回答すると答えた。
確からしさ: 確実
- 10月14日・15日の閣議での議論と15日の三条による西郷派遣容認の決定、三条の発病(10月18日)、10月21日までに固められた上奏方針、10月22日の会談(「二二日、西郷、副島、板垣、江藤の参議四人が岩倉邸に行き会談となった」/参議一同は「致方ナシ」といって引取り、著者はこれを「あきらめたのである」と読む)、23日朝の岩倉の上奏と天皇の回答留保、同日西郷が朝早々に辞表を書き日本橋小網町の自宅を出て小梅村の別邸に移ったこと、23日に正院には後藤象二郎と大木喬任が出席していたこと、24日午前9時の勅書「汝具視カ奏状、之ヲ嘉納ス」と西郷の辞職許可(陸軍大将の辞職・位記返上は不許可)、同日の板垣・江藤・後藤・副島の辞表提出(翌25日許可)、大久保・木戸の辞表却下。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 10月14日・15日の閣議経緯、三条の変説と発病(10月18日)、10月23日朝の岩倉の上奏、天皇の反応「上奏への天皇の反応は予想と異なり、『国家重事件厚御賢考可被遊ニ付、明朝御返事可伺出』というものであった。天皇は即答をさけ明日答えるとしたのである。」(誌面 p.703・版面判読による逐語)、翌24日の天皇の勅答と大久保・木戸の辞表却下、西郷以下五参議の辞表受理。 — 高橋秀直「〈論説〉征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号(研究者による分析)
天皇は10月24日午前9時、岩倉具視を召見して上奏を嘉納する勅書を与え、同日、西郷隆盛の参議・近衛都督の辞職を許可した。ただし陸軍大将の辞職と位記の返上は許さなかった。大久保利通・木戸孝允の辞表は却下された。
確からしさ: 確実
- 10月14日・15日の閣議での議論と15日の三条による西郷派遣容認の決定、三条の発病(10月18日)、10月21日までに固められた上奏方針、10月22日の会談(「二二日、西郷、副島、板垣、江藤の参議四人が岩倉邸に行き会談となった」/参議一同は「致方ナシ」といって引取り、著者はこれを「あきらめたのである」と読む)、23日朝の岩倉の上奏と天皇の回答留保、同日西郷が朝早々に辞表を書き日本橋小網町の自宅を出て小梅村の別邸に移ったこと、23日に正院には後藤象二郎と大木喬任が出席していたこと、24日午前9時の勅書「汝具視カ奏状、之ヲ嘉納ス」と西郷の辞職許可(陸軍大将の辞職・位記返上は不許可)、同日の板垣・江藤・後藤・副島の辞表提出(翌25日許可)、大久保・木戸の辞表却下。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 10月14日・15日の閣議経緯、三条の変説と発病(10月18日)、10月23日朝の岩倉の上奏、天皇の反応「上奏への天皇の反応は予想と異なり、『国家重事件厚御賢考可被遊ニ付、明朝御返事可伺出』というものであった。天皇は即答をさけ明日答えるとしたのである。」(誌面 p.703・版面判読による逐語)、翌24日の天皇の勅答と大久保・木戸の辞表却下、西郷以下五参議の辞表受理。 — 高橋秀直「〈論説〉征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号(研究者による分析)
板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の4参議は10月24日に辞表を提出し、翌25日に許可された(本記事の採用説。出典間に割れがある)。
確からしさ: 諸説あり
- 西郷隆盛が参議の辞表を提出したのは明治6年(1873)10月23日。翌日、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の4参議も辞表を提出して政府から去った。10月28日朝、西郷は東京を発って鹿児島に向かい、再び東京の地を踏むことがなかった。「明治六年政変」または「征韓論政変」といわれる政府の分裂である。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 10月14日・15日の閣議での議論と15日の三条による西郷派遣容認の決定、三条の発病(10月18日)、10月21日までに固められた上奏方針、10月22日の会談(「二二日、西郷、副島、板垣、江藤の参議四人が岩倉邸に行き会談となった」/参議一同は「致方ナシ」といって引取り、著者はこれを「あきらめたのである」と読む)、23日朝の岩倉の上奏と天皇の回答留保、同日西郷が朝早々に辞表を書き日本橋小網町の自宅を出て小梅村の別邸に移ったこと、23日に正院には後藤象二郎と大木喬任が出席していたこと、24日午前9時の勅書「汝具視カ奏状、之ヲ嘉納ス」と西郷の辞職許可(陸軍大将の辞職・位記返上は不許可)、同日の板垣・江藤・後藤・副島の辞表提出(翌25日許可)、大久保・木戸の辞表却下。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 「同年5月、朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で参議板垣退助は出兵論を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。」「10月15日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定され、三条は苦悩のあまり人事不省に陥り執務不能となった。そこで岩倉が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文と組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷使節派遣を葬った。23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も抗議辞職して政府は大分裂した。この政変は、通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、真相は以上のとおりであり、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望したのである。」(逐語) — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
日本大百科全書の執筆者・毛利敏彦は、西郷隆盛は即時出兵を主張した板垣退助に反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じたのであり、征韓論に敗れて辞職したとする通説は実相と異なると論じる。精選版日本国語大辞典も「征韓論に対し遣韓使節による平和交渉を唱えて反対され」と記す。この読みは、同じ遣使を開戦への手順とみる佐々木克・高橋秀直・ブリタニカ国際大百科事典「征韓論」項の読みと対立する。
確からしさ: 諸説あり
- 「同年5月、朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で参議板垣退助は出兵論を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。」「10月15日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定され、三条は苦悩のあまり人事不省に陥り執務不能となった。そこで岩倉が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文と組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷使節派遣を葬った。23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も抗議辞職して政府は大分裂した。この政変は、通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、真相は以上のとおりであり、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望したのである。」(逐語) — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
- 「維新後、参議として廃藩置県を断行したが、征韓論に対し遣韓使節による平和交渉を唱えて反対され鹿児島に帰って私学校を開校。西南戦争に敗れて城山で自刃した。」(逐語) — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
西郷隆盛が求めた「自ら使節となって朝鮮へ渡る」という構想の性格について、本記事の出典は三つに分かれる。①コトバンク「西郷隆盛」収載の百科事典マイペディア・旺文社日本史事典・ブリタニカ国際大百科事典・新訂政治家人名事典は、西郷が征韓論を唱えて敗れたとする語りを採る。②日本大百科全書(毛利敏彦執筆)・改訂新版世界大百科事典「西郷隆盛」項(毛利敏彦執筆)・精選版日本国語大辞典は、西郷が求めたのは平和的交渉だったとする。③佐々木克・高橋秀直の両査読論文とブリタニカ国際大百科事典「征韓論」項は、その遣使が開戦につながる、あるいは開戦を期したものだったとする。改訂新版世界大百科事典「征韓論」項の執筆者・田中彰は、②の見方が学界に存在することを紹介する立場である。
確からしさ: 諸説あり
- 「同年5月、朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で参議板垣退助は出兵論を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。」「10月15日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定され、三条は苦悩のあまり人事不省に陥り執務不能となった。そこで岩倉が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文と組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷使節派遣を葬った。23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も抗議辞職して政府は大分裂した。この政変は、通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、真相は以上のとおりであり、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望したのである。」(逐語) — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
- 「征韓論に敗れて帰郷」(百科事典マイペディア)・「征韓論を唱え,敗れて下野」(旺文社日本史事典)・「征韓論を唱えて政府にいれられず辞職」(ブリタニカ国際大百科事典)・「6年征韓の議が容れられず退官」(新訂政治家人名事典)。コトバンク「西郷隆盛」ページの収載区画を実測すると12件で、うちこの通説的な語りを明示的に採るのは上記4件である。ほかに遣韓型3件(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版世界大百科事典)、征韓論争・明治6年の政変への言及にとどまる中立3件(デジタル大辞泉・デジタル版日本人名大辞典+Plus・山川日本史小辞典)、この主題に触れないもの2件(防府市歴史用語集・デジタル大辞泉プラス)。いずれの区画も具体の月日には言及していない。 — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
- 「参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず、使節にみずからがなろうとし、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、大隈重信、大木喬任の諸参議が賛同していったん内定はしたものの、正式決定は岩倉使節団の帰国をまつこととした。」「10月24日西郷の遣韓使節は中止が決定された。西郷、板垣、後藤、江藤、副島はいっせいに下野した。」「この征韓派と非征韓派の対立を、異質の政治勢力(その程度の差で諸説は分かれる)とみるか、同質の政治勢力の対抗ないし政府主導権の争いとみるかで多くの見解が出されており、また、西郷はあくまで交渉による朝鮮との修交を求めたもので、これまでの彼の征韓論者的イメージを否定する意見も出されている。」「また、この征韓論が近代日本の対アジア観の原点であり、その延長線上に近代日本の大陸侵略政策があったことも留意しなければならない。」(逐語) — 征韓論(せいかんろん)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
- 「板垣退助らは強硬出兵論を唱え、西郷隆盛は、まず自分が使節として朝鮮に渡り、交渉決裂後出兵すべきだとした。」「1873年8月17日に閣議は、いったん西郷派遣を決定したが、同9月13日欧米視察から急遽帰国した岩倉具視、大久保利通らは、内治優先などを理由に強硬に反対、閣内対立は決定的なものとなった。両派対立の間に立って三条実美は病に倒れ、同10月24日太政大臣代行についていた岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり、先の閣議決定は無期延期され、同日西郷が参議、近衛都督を辞任、続いて翌25日板垣、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平が下野。」(逐語) — 征韓論(せいかんろん)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
- 「対外強硬志向の噴出の機会となったのは朝鮮からの報告であった。釜山の大日本公館(旧倭舘)駐在の広津弘信は明治六(一八七三)年五月三一日付で報告を送り、日本人の密貿易への朝鮮側の取締りが強化され、それを禁じる掲示の中に日本に対する無礼な句があったと報じた(『日本外交文書』六、二七九〜二八一頁)。報告の内容自体は大したものではなかったが、留守政府は過敏といわざるをえない反応を示し、六月もしくは七月、居留民保護の名目で朝鮮への即時派兵、その上での『使節』派遣を主張する、対朝鮮策案(朝鮮議案)を閣議にかけた。」(誌面 p.683・版面判読による逐語) — 高橋秀直「〈論説〉征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号(研究者による分析)
- 「西郷を朝鮮への使節として派遣することを強く主張した、西郷を筆頭とする五参議は、朝鮮との戦争になる場合も想定していたことから外征派ともいわれた。」(p.1・版面判読による逐語)/「八月一七日付の板垣宛の別の手紙では、朝鮮が使節を『軽蔑』する振る舞いに出るだけでなく、『暴殺』に及ぶに相違ないから、その節は『天下の人、皆挙げて(朝鮮を)討つべきの罪』を知ることになり、そうなれば『いよいよ戦いに持ち込む』ことが出来るという。そして自分の役目は朝鮮との開戦に至るまでの『手順』を立てることで、この仕事を自分に任せて欲しい、それから先のことは板垣に『御譲り』いたしたいと述べるのである。」(p.3〜4・版面判読による逐語)/「これにたいして岩倉具視と大久保利通が中心となって、西郷ら五参議の排除を画策した権力闘争であったとする説が現在のところ有力となっているようだ。しかし権力闘争説をとった場合、説明が苦しくなる事実がある。岩倉具視は西郷の辞職が予測された時、思いとどまらせる方法がないかと苦慮していた。政府から排除することは考えていなかったのである。」(p.1・版面判読による逐語) — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 「維新後、参議として廃藩置県を断行したが、征韓論に対し遣韓使節による平和交渉を唱えて反対され鹿児島に帰って私学校を開校。西南戦争に敗れて城山で自刃した。」(逐語) — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
佐々木克は、岩倉具視・大久保利通が中心となって西郷ら五参議の排除を画策した権力闘争であったとする説が現在のところ有力となっているようだと述べたうえで、岩倉が西郷の辞職を予測したとき思いとどまらせる方法がないかと苦慮していたこと、大久保が西郷との対決を覚悟して子どもへ遺書を残していたことなど、権力闘争説をとると説明が苦しくなる事実があると指摘する。
確からしさ: 諸説あり
- 8月17日に閣議が開催され西郷使節の朝鮮派遣が議決されたが、この閣議に西郷自身は出席しておらず期日についても踏み込んだ議論をしなかった。右大臣岩倉具視は帰国途上の船中だった。特命全権大使岩倉具視の帰国日は9月13日である。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 大久保利通は岩倉からの再三の懇請を受け10月9日に参議就任を決意し、西郷との対決を覚悟して、アメリカ留学中の長男彦熊・次男伸熊に宛てて遺書を残していた。『明治天皇紀』によれば大久保の参議就任は10月12日とされるが辞令が出たのは13日のようであり、同日、副島種臣も参議に就任した。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 「西郷を朝鮮への使節として派遣することを強く主張した、西郷を筆頭とする五参議は、朝鮮との戦争になる場合も想定していたことから外征派ともいわれた。」(p.1・版面判読による逐語)/「八月一七日付の板垣宛の別の手紙では、朝鮮が使節を『軽蔑』する振る舞いに出るだけでなく、『暴殺』に及ぶに相違ないから、その節は『天下の人、皆挙げて(朝鮮を)討つべきの罪』を知ることになり、そうなれば『いよいよ戦いに持ち込む』ことが出来るという。そして自分の役目は朝鮮との開戦に至るまでの『手順』を立てることで、この仕事を自分に任せて欲しい、それから先のことは板垣に『御譲り』いたしたいと述べるのである。」(p.3〜4・版面判読による逐語)/「これにたいして岩倉具視と大久保利通が中心となって、西郷ら五参議の排除を画策した権力闘争であったとする説が現在のところ有力となっているようだ。しかし権力闘争説をとった場合、説明が苦しくなる事実がある。岩倉具視は西郷の辞職が予測された時、思いとどまらせる方法がないかと苦慮していた。政府から排除することは考えていなかったのである。」(p.1・版面判読による逐語) — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
西郷隆盛は10月28日朝、東京を発って鹿児島に向かい、以後、再び東京の地を踏むことはなかった。
確からしさ: 確実
- 西郷隆盛が参議の辞表を提出したのは明治6年(1873)10月23日。翌日、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の4参議も辞表を提出して政府から去った。10月28日朝、西郷は東京を発って鹿児島に向かい、再び東京の地を踏むことがなかった。「明治六年政変」または「征韓論政変」といわれる政府の分裂である。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
西郷隆盛の辞表提出日について本記事の出典は三つに割れる。佐々木克は10月23日(他4参議は翌24日)とし、日本大百科全書(毛利敏彦執筆)も同じ割り振りを与える。高橋秀直は「西郷は二二日の対決後、辞表を認め帰郷の途についた。板垣・後藤・江藤・副島も二三日辞表を提出した」と記し、いずれも1日早い。ブリタニカ国際大百科事典「征韓論」項は西郷の辞任を10月24日、他4参議の下野を翌25日とする。本記事は、辞表を書いた時刻と移動先まで含めて23日と特定する佐々木克の記述と、別著者・別媒体の毛利敏彦の記述が一致することを理由に10月23日を採用説とし、この割れを異説として明示する。
確からしさ: 諸説あり
- 西郷隆盛が参議の辞表を提出したのは明治6年(1873)10月23日。翌日、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の4参議も辞表を提出して政府から去った。10月28日朝、西郷は東京を発って鹿児島に向かい、再び東京の地を踏むことがなかった。「明治六年政変」または「征韓論政変」といわれる政府の分裂である。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 「同年5月、朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で参議板垣退助は出兵論を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。」「10月15日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定され、三条は苦悩のあまり人事不省に陥り執務不能となった。そこで岩倉が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文と組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷使節派遣を葬った。23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も抗議辞職して政府は大分裂した。この政変は、通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、真相は以上のとおりであり、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望したのである。」(逐語) — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
- 「板垣退助らは強硬出兵論を唱え、西郷隆盛は、まず自分が使節として朝鮮に渡り、交渉決裂後出兵すべきだとした。」「1873年8月17日に閣議は、いったん西郷派遣を決定したが、同9月13日欧米視察から急遽帰国した岩倉具視、大久保利通らは、内治優先などを理由に強硬に反対、閣内対立は決定的なものとなった。両派対立の間に立って三条実美は病に倒れ、同10月24日太政大臣代行についていた岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり、先の閣議決定は無期延期され、同日西郷が参議、近衛都督を辞任、続いて翌25日板垣、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平が下野。」(逐語) — 征韓論(せいかんろん)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
- 「西郷は二二日の対決後、辞表を認め帰郷の途についた。板垣・後藤・江藤・副島も二三日辞表を提出した。翌二四日天皇は岩倉の上奏を認める勅答を下し、大久保・木戸の辞表を却下、西郷以下五参議の辞表は受理された。内治派の勝利はここに確定したのである。」(誌面 p.703-704・版面判読による逐語) — 高橋秀直「〈論説〉征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号(研究者による分析)
日本大百科全書の執筆者・毛利敏彦は、岩倉具視が大久保利通・伊藤博文と組んで天皇に閣議決定を裁可しないよう求め西郷使節派遣を葬ったとしたうえで、10月23日に西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日に板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の各参議も抗議辞職したと記す。佐々木克は辞表提出の経緯を記すが、動機を「抗議」とは述べていない。
確からしさ: 有力
- 「同年5月、朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で参議板垣退助は出兵論を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。」「10月15日の閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定され、三条は苦悩のあまり人事不省に陥り執務不能となった。そこで岩倉が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文と組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷使節派遣を葬った。23日西郷はこの処置に抗議の辞表を出し、翌24日板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も抗議辞職して政府は大分裂した。この政変は、通説では西郷が征韓論に敗れて辞職したものとされているが、真相は以上のとおりであり、西郷は征韓論に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、朝鮮使節を切望したのである。」(逐語) — 西郷隆盛(さいごうたかもり)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
佐々木克は、西郷を筆頭とする五参議は朝鮮との戦争になる場合も想定していたことから外征派ともいわれたと記し、西郷の8月17日付板垣宛書簡について、朝鮮が使節を「暴殺」するに相違ないからそうなれば「いよいよ戦いに持ち込む」ことが出来るといい、自分の役目は朝鮮との開戦に至るまでの「手順」を立てることだと述べていると読解する。高橋秀直は、交渉不成功の場合は開戦につながるものであり交渉成功の見通しはきわめて低かったとして「西郷の提案は開戦を期した主張だった」と論じる。ブリタニカ国際大百科事典「征韓論」項も、西郷は自分が使節として朝鮮に渡り交渉決裂後出兵すべきだとしたと記す。
確からしさ: 諸説あり
- 「板垣退助らは強硬出兵論を唱え、西郷隆盛は、まず自分が使節として朝鮮に渡り、交渉決裂後出兵すべきだとした。」「1873年8月17日に閣議は、いったん西郷派遣を決定したが、同9月13日欧米視察から急遽帰国した岩倉具視、大久保利通らは、内治優先などを理由に強硬に反対、閣内対立は決定的なものとなった。両派対立の間に立って三条実美は病に倒れ、同10月24日太政大臣代行についていた岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり、先の閣議決定は無期延期され、同日西郷が参議、近衛都督を辞任、続いて翌25日板垣、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平が下野。」(逐語) — 征韓論(せいかんろん)とは? 意味や使い方(コトバンク)(事典・概説)
- 「対外強硬志向の噴出の機会となったのは朝鮮からの報告であった。釜山の大日本公館(旧倭舘)駐在の広津弘信は明治六(一八七三)年五月三一日付で報告を送り、日本人の密貿易への朝鮮側の取締りが強化され、それを禁じる掲示の中に日本に対する無礼な句があったと報じた(『日本外交文書』六、二七九〜二八一頁)。報告の内容自体は大したものではなかったが、留守政府は過敏といわざるをえない反応を示し、六月もしくは七月、居留民保護の名目で朝鮮への即時派兵、その上での『使節』派遣を主張する、対朝鮮策案(朝鮮議案)を閣議にかけた。」(誌面 p.683・版面判読による逐語) — 高橋秀直「〈論説〉征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号(研究者による分析)
- 「西郷を朝鮮への使節として派遣することを強く主張した、西郷を筆頭とする五参議は、朝鮮との戦争になる場合も想定していたことから外征派ともいわれた。」(p.1・版面判読による逐語)/「八月一七日付の板垣宛の別の手紙では、朝鮮が使節を『軽蔑』する振る舞いに出るだけでなく、『暴殺』に及ぶに相違ないから、その節は『天下の人、皆挙げて(朝鮮を)討つべきの罪』を知ることになり、そうなれば『いよいよ戦いに持ち込む』ことが出来るという。そして自分の役目は朝鮮との開戦に至るまでの『手順』を立てることで、この仕事を自分に任せて欲しい、それから先のことは板垣に『御譲り』いたしたいと述べるのである。」(p.3〜4・版面判読による逐語)/「これにたいして岩倉具視と大久保利通が中心となって、西郷ら五参議の排除を画策した権力闘争であったとする説が現在のところ有力となっているようだ。しかし権力闘争説をとった場合、説明が苦しくなる事実がある。岩倉具視は西郷の辞職が予測された時、思いとどまらせる方法がないかと苦慮していた。政府から排除することは考えていなかったのである。」(p.1・版面判読による逐語) — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
10月22日に岩倉具視の私邸を訪れた参議について、佐々木克は「二二日、西郷、副島、板垣、江藤の参議四人が岩倉邸に行き会談となった」と四人で記し、翌23日については正院に後藤象二郎と大木喬任が出席していたとする。これに対し高橋秀直は同じ会談を「西郷以下征韓派五参議は岩倉邸を訪れ彼と激論を闘わしている」と五人で記す。本記事は本文・タイムラインで佐々木の四人を採り、この割れを異説として明示する。
確からしさ: 諸説あり
- 10月14日・15日の閣議での議論と15日の三条による西郷派遣容認の決定、三条の発病(10月18日)、10月21日までに固められた上奏方針、10月22日の会談(「二二日、西郷、副島、板垣、江藤の参議四人が岩倉邸に行き会談となった」/参議一同は「致方ナシ」といって引取り、著者はこれを「あきらめたのである」と読む)、23日朝の岩倉の上奏と天皇の回答留保、同日西郷が朝早々に辞表を書き日本橋小網町の自宅を出て小梅村の別邸に移ったこと、23日に正院には後藤象二郎と大木喬任が出席していたこと、24日午前9時の勅書「汝具視カ奏状、之ヲ嘉納ス」と西郷の辞職許可(陸軍大将の辞職・位記返上は不許可)、同日の板垣・江藤・後藤・副島の辞表提出(翌25日許可)、大久保・木戸の辞表却下。 — 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号(研究者による分析)
- 「木戸・伊藤が嘆いた閣議は翌二二日に本当に開かれたのだろうか。周知のようにこの日、西郷以下征韓派五参議は岩倉邸を訪れ彼と激論を闘わしている。」(誌面 p.698・版面判読による逐語) — 高橋秀直「〈論説〉征韓論政変の政治過程」『史林』第76巻第5号(研究者による分析)
そのほかの記述の検証
中核以外の記述についても、7 件を出典と突き合わせ、7 件で一致を確認しました。また記事全体で 3 件は資料の間で記述が分かれるため、記事の異説欄に併記しています。
訂正の履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 | 再fact-check |
|---|---|---|---|
| 1 | 2026-09-03 | — | 要 |
| 2 | 2026-09-04 | あり | 要 |
| 3 | 2026-09-04 | あり | 要 |
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