刀と禄を失った士族たちが、五年がかりで取り戻した鳥取県

日付と暦

原典表記
明治14年9月12日(グレゴリオ暦)
換算
1881-09-12(グレゴリオ暦)
掲載日
9月12日のページ

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

刀を差す権利も禄(給料)も失った鳥取藩の士族たちは、明治9年(1876)8月21日、鳥取県ごと島根県に併合された[SRC-00060][SRC-00062]。根拠法令は太政官布告第百十二号とされる[SRC-00062]。鳥取県が発行する学習教材によれば、生活に苦しんだ士族たちはこの併合を不満の一因と考え、「愛護会」「共斃社」といった団体のもとで鳥取県を取り戻す運動を起こしたという[SRC-00060]。旧鳥取藩士族の運動と政府の調査を経て[SRC-00060]、明治14年(1881)9月12日、鳥取県は5年ぶりに再置された[SRC-00062]。根拠法令は太政官布告第四十二号とされる[SRC-00062]。もっとも、そもそも鳥取県がなぜ島根県に併合されたのか、その理由は今もはっきりしていない[SRC-00060][SRC-00062]。

本文

明治になり、武士は帯刀の特権と家禄を失った[SRC-00060]。鳥取県の教材は、多くの士族が不慣れな商売に手を出して失敗し(いわゆる「士族の商法」)、生活がいっそう苦しくなったと伝える[SRC-00060]。同教材によれば、岡崎平内(おかざきへいない)が「ふるさとを愛護する」という意味で名づけた「愛護会」は再置運動の中心となり、足立長郷(あだちながさと)を社長とする士族団体「共斃社」(社員2000〜3000名という、「共にたおれる覚悟で活動する」の意)も、その活動の一つとして再置運動に加わったという[SRC-00060]。共斃社の活動は時に暴力的で社会問題にもなったとされ、島根県令・境二郎(さかいじろう)自身も鳥取分離を政府へ願い出ていたと同教材は記す[SRC-00060]。政府は調査のため参議・山県有朋(やまがたありとも)を派遣し、山県は明治14年7月17日からおよそ2週間、島根県を巡視して「島根県を割って鳥取県を置くことが急がれる」と報告したという[SRC-00060]。同年8月30日、太政大臣・三条実美や山県を含む5人の会議で再置が決定され、東北を巡幸中の明治天皇の許可を仰ぐ形をとったと伝えられる[SRC-00060]。そして9月12日、鳥取県が再置された[SRC-00062]。根拠法令は太政官布告第四十二号とされる[SRC-00062]。管轄したのは因幡国・伯耆国の両国だったとされる[SRC-00062]。倉吉・米子地方には、税負担の増加や、県庁の位置は松江の方が便利だという主張を理由に再置へ反対する声もあったという[SRC-00060]。

歴史的背景

鳥取県が最初に廃止された理由は、実のところはっきりしていない[SRC-00060][SRC-00062]。鳥取県の教材は「石高が大きかった藩や幕末に勢力を伸ばした藩を取り除く政府方針によるもの」という推測を示す一方、島根県立図書館が紹介する文献に基づく整理では「鳥取県の規模が小さすぎたため」「鳥取・島根がともに山陰道に位置していたため」という、内容の異なる推測が示されている[SRC-00062]。同じ時期には筑摩・浜松・磐木など14県が同様に廃止されており、鳥取県だけが特別扱いされたわけではなかった[SRC-00062](出典表記は「磐木」)。理由が曖昧なまま統合された県が、5年後には住民自身の運動によって作り直された——それが鳥取県再置である(前掲の経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この総括を述べるものではない)。

タイムライン

日付 出来事 出典
明治4年(1871)7月14日 廃藩置県により鳥取藩が鳥取県になる [SRC-00060]
明治9年(1876)8月21日 鳥取県廃止、島根県に併合(根拠法令は太政官布告第百十二号とされる) [SRC-00062]
明治14年(1881)7月17日〜 参議・山県有朋、島根県を巡視 [SRC-00060]
明治14年(1881)8月30日 太政大臣三条実美ら5人の会議で鳥取県再置を決定 [SRC-00060]
明治14年(1881)9月12日 鳥取県再置(根拠法令は太政官布告第四十二号とされる) [SRC-00061][SRC-00062]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

明治14年9月12日の再置そのものの日付・経緯に異説は確認されなかった(調査範囲: SRC-00060〜00062の3件。再置の決定文書『鳥取県再置ノ件』〔『公文録(太政官九月第一)』所収・国立公文書館蔵〕および太政官布告の原文書には未到達)。一方、再置に先立つ明治9年の併合理由については、出典間で説明が食い違っている。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
1876年、鳥取県が島根県へ併合された理由 大藩整理方針説(石高が大きかった藩・幕末に勢力を伸ばした藩を整理する政府方針によるもの) 鳥取県発行の学習教材による推測 [SRC-00060] 教材自身が「はっきりした理由は分かっていません」と明記した上での推測
同上 県規模過小説(鳥取県の規模が小さすぎたため) 『鳥取県再置秘史』(吉村撫骨編・国書刊行会・1979、p.277)に基づく島根県立図書館の文献紹介 [SRC-00062] 大藩整理方針説とは内容の方向性が逆であり一致しない(本稿の整理)
同上 山陰道所在説(鳥取・島根がともに山陰道に位置していたため) 同(p.33)に基づく同上 [SRC-00062] 県規模過小説と並んで挙げられる別系統の推測

3説はいずれも推測の域を出ず、どの出典も「理由ははっきりしない」と断った上で述べている。本記事はこの状態を「未解明」として扱い、いずれの説も断定しない。

関連する出来事

関連人物

以下は、いずれも鳥取県発行の学習教材が伝える再置運動に関わった人物である[SRC-00060]。

歴史的意義

鳥取県はこの日を記念し、平成10年(1998)に「とっとり県民の日」を条例で定めた[SRC-00061]。廃藩置県からわずか10年ほどの間に、統合と分離の両方を経験した鳥取県の歩みは、明治初期の地方行政区画がまだ流動的だったことを示す一例といえる(前掲の経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この総括を述べるものではない)。

現代の視点

「とっとり県民の日」をいつにするかを検討した1990年代の県の検討委員会では、「奈良県などは再置に7年かかっており、わずか一週間で決まった鳥取の歴史的意味合いは大切である」という意見が記録されている[SRC-00061]。この所要期間の比較そのものを本サイトが独自に検証したわけではなく、あくまで検討委員会に記録された一つの意見として紹介する。県民アンケートでは、再置の日(9月12日)と、「鳥取」の名称が初めて使われた廃藩置県の日(7月14日)のどちらを県民の日にふさわしいとするかで意見が割れた時期もあった[SRC-00061]。140年以上前の行政区画の変更が、今も学校給食の関連メニューや公共施設の無料開放という形で、鳥取県民の暮らしに組み込まれ続けている[SRC-00061][SRC-00060]。

出典一覧

  1. [SRC-00060] 鳥取県ができるまで(鳥取県地域づくり推進部県民参画協働課、令和元年7月発行の学習用小冊子)/鳥取県地域づくり推進部県民参画協働課(ランクB)
  2. [SRC-00061] 第148回県史だより「『とっとり県民の日』制定から20年」(鳥取県立公文書館、西村芳将)/鳥取県立公文書館(鳥取県総務部)(ランクB)
  3. [SRC-00062] 「明治時代、なぜ鳥取県が島根県に統合されたのか理由を知りたい。」(レファレンス協同データベース、回答館: 島根県立図書館)/国立国会図書館(レファレンス協同データベース)/回答: 島根県立図書館(ランクB)(複数の資料を収載)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-08-28
22026-08-29あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。