岩倉具視を特命全権大使とする使節団が、明治4年11月12日に横浜港を出港した
日付と暦
- 原典表記
- 明治4年11月12日(和暦・太陰太陽暦)
- 換算
- 1871-12-23(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 11月12日のページ
暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の明治4年11月12日に起きた(グレゴリオ暦換算: 1871年12月23日)[SRC-00035][SRC-00667]。本サイトでは 11-12 のページに掲載している。換算値は国立天文台「日本の暦日データベース」への照会による[SRC-00035]。なお、国立公文書館の一部ページは出発日を「11月10日」と記しており、この点は異説・論争欄で扱う[SRC-00663]。
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概要
岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳を副使とする使節団は、明治4年11月12日(グレゴリオ暦1871年12月23日)、横浜港を出港した[SRC-00662][SRC-00667]。使節団派遣の目的は、幕末に結んだ不平等条約改正のための予備交渉と、各国の制度・文物の視察・調査にあった[SRC-00662][SRC-00664]。随行員や留学生を含め総勢107名の大所帯であり、慶應義塾大学の講演録は使節46名・随行18名・留学生43名という内訳を伝える[SRC-00667]。留学生のなかには、北海道開拓使が募集した日本最初の女子留学生5人のうち最年少、満6歳の津田梅子もいた[SRC-00668]。使節団はサンフランシスコを経てアメリカに滞在したのち欧州諸国を歴訪し、明治6年(1873年)9月に帰国した[SRC-00662][SRC-00663]。
本文
1858年(安政5年)に徳川幕府が欧米各国と締結した通商条約は、締結から171か月後に条約内容の改定を行うことを定めており、その期限は1872年7月(明治5年5月)に迫っていた[SRC-00666]。1871年、大蔵少輔兼民部少輔だった伊藤博文は、政府首脳に提出した意見書のなかで、特命理事官を海外に派遣して外国交際・条約・貿易規則等を調査させ、翌年に控えた改定交渉に備えたいと建言していた[SRC-00666]。廃藩置県によって国内の諸改革が一区切りを迎えた1871年(明治4年)秋、こうした使節派遣構想が実現に向けて動き始めた[SRC-00666]。
政府首脳のあいだで使節派遣の準備が急速に進められ、使節団員の任命が行われた[SRC-00666]。人選をめぐっては軋轢もあったが、最終的に、当時外務卿を務めていた岩倉具視が右大臣に遷任のうえ特命全権大使に就いた[SRC-00666]。副使には、藩閥への配慮から、木戸孝允・伊藤博文(長州)、大久保利通(薩摩)、外務少輔山口尚芳(佐賀)が選抜された[SRC-00666]。国立国会図書館も、副使を木戸孝允・大久保利通・伊藤博文等とする使節団の出発を記す(同館の記述は山口尚芳を名指ししていない)[SRC-00664]。田辺太一・塩田三郎など、幕末に通詞として海外渡航を経験した旧幕臣を中心に、通訳を兼ねた書記官も任命された[SRC-00666]。
使節団に託された「国書」は、その目的を三点に置いていた[SRC-00666]。第一に条約締結各国への聘問の礼を修め和親交際の情誼を厚くすること、第二に翌年に期限を迎える条約改定の議について各国と商議すること、第三に国際公法に矛盾する国内の諸制度を改正するため文明各国の成法定規を視察調査することである[SRC-00666]。
明治4年11月6日、太政大臣三条実美の邸で送別の宴が催され、三条は使節一行に送別の辞を詠んだ[SRC-00666]。明治4年11月12日、使節団は横浜港を出港した[SRC-00662][SRC-00667]。慶應義塾大学の講演録は使節46名・随行18名・留学生43名、合計107名の大所帯だったと伝える[SRC-00667]。留学生のなかには、北海道開拓使が募集した日本最初の女子留学生5人が含まれ、最年少は満6歳の津田梅子だった[SRC-00668]。同じく留学生として同行した山川捨松は当時11歳、永井繁子は当時8歳だったと津田塾大学は記す[SRC-00669]。
使節団は、出典が暦種別を明示していない「12月6日」にサンフランシスコに到着し、アメリカ大陸を東へ横断しながら半年以上アメリカに滞在した[SRC-00662]。その後ヨーロッパ大陸に渡り、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリアなど各国をまわり、オーストリアではウィーン万国博覧会を見学した[SRC-00662]。当初は10ヵ月半の行程が予定されていたが、結果的には1年10ヵ月にわたる長期の視察となり、明治6年(1873年)9月13日に帰国した[SRC-00662][SRC-00663]。
歴史的背景
条約改定の期限が翌年に迫るなか、政府内では外国交際・海外視察・条約改正など、さまざまな立場から欧米への使節派遣が構想されていた[SRC-00666]。廃藩置県によって国内の諸改革が一区切りを迎えたことで、政府首脳の多くが同時に日本を離れる使節派遣が現実的な選択肢となった(本サイトの整理。背景の詳細な経緯には本記事では立ち入らない)[SRC-00666]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 明治4年11月6日(旧暦) | 太政大臣三条実美の邸で送別の宴が催され、三条が使節一行に送別の辞を詠んだ | [SRC-00666] |
| 明治4年11月12日(旧暦・グレゴリオ暦換算1871年12月23日) | 使節団が横浜港を出港(本記事の採用日) | [SRC-00662][SRC-00667] |
| 明治4年11月10日(旧暦・国立公文書館の一部ページの記述) | 同ページは「使節団は明治4年11月10日に日本を出発した」と記す(異説・論争参照) | [SRC-00663] |
| 12月6日(出典は暦種別を明示せず) | サンフランシスコに到着 | [SRC-00662] |
| 1873年(明治6年)9月13日 | 使節団が帰国 | [SRC-00662][SRC-00663] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
出発日について、本記事は登録出典が支持する11月12日を採用日としているが、国立公文書館の別ページ(「歴史資料の宝庫」)は「使節団は明治4年11月10日に日本を出発し」と明記する[SRC-00663]。11月12日については、慶應義塾大学の講演録が「1871年12月23日(明治4年11月12日)に横浜を出港し」と直接明記しており[SRC-00667]、アジア歴史資料センターのコラムも「出発6日前の11月6日」に送別の宴が催されたとする記述から逆算すると11月12日となる(本サイトの計算)[SRC-00666]。国立公文書館の別ページ(「公文書の世界」)は出発を「明治4年(1871)11月」とするのみで日にちまでは記しておらず、11月12日と矛盾しない範囲で月次を裏づける[SRC-00662]。本サイトはいずれの出典が誤りかを独自に裁定することはせず(独自換算・独自判断を禁じるR-CAL-3と同旨の姿勢)、直接明記と逆算により支持される11月12日を採用日として掲載しつつ、この記述の相違自体を開示する。
留学生の人数についても出典間に幅がある。慶應義塾大学の講演録は使節46名・随行18名・留学生43名という具体的な内訳を伝える一方[SRC-00667]、国立国会図書館国際子ども図書館は「書記官や約50人の留学生」という概数で記す[SRC-00665]。総数107名についてはこの2出典(慶應義塾大学講演録・国立国会図書館国際子ども図書館)で一致している[SRC-00667][SRC-00665]。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 出発日 | 明治4年11月12日(本記事の採用日) | 慶應義塾大学講演録の直接明記/アジア歴史資料センターの記述からの逆算(国立公文書館「公文書の世界」は月次〔11月〕までの一致) | [SRC-00667][SRC-00666][SRC-00662] |
| 出発日 | 明治4年11月10日 | 国立公文書館「歴史資料の宝庫」の明記 | [SRC-00663] |
| 留学生の人数 | 43名(内訳を明記) | 慶應義塾大学講演録 | [SRC-00667] |
| 留学生の人数 | 約50名(概数) | 国立国会図書館国際子ども図書館 | [SRC-00665] |
関連する出来事
- 改暦の詔書(11-09。ART-00056): 使節団の外遊中の明治5年(1872年)11月9日、太陰暦を廃し太陽暦を採用する詔書が国内で布告された[SRC-00605]。使節団は改暦後の明治6年(1873年)9月13日に帰国した[SRC-00662][SRC-00663]。
- 征韓論政変: 使節団の帰国後、留守政府が決定していた西郷隆盛の朝鮮派遣をめぐり、1873年10月、西郷・板垣退助らと岩倉具視・大久保利通らの間に政争が起きた[SRC-00666]。アジア歴史資料センターはこの政争を「征韓論政変」と呼ぶ[SRC-00666]。
関連人物
岩倉具視(いわくらともみ): 特命全権大使として使節団を率いた[SRC-00662][SRC-00666]。当時は外務卿を務めており、右大臣に遷任のうえこの任に就いた[SRC-00666]。
木戸孝允(きどたかよし): 副使(長州出身)[SRC-00662][SRC-00666]。
大久保利通(おおくぼとしみち): 副使(薩摩出身)[SRC-00662][SRC-00666]。
伊藤博文(いとうひろぶみ): 副使(長州出身)[SRC-00662][SRC-00666]。1871年当時は大蔵少輔兼民部少輔で、条約改定交渉に備えた特命理事官の海外派遣を政府首脳に建言していた[SRC-00666]。
山口尚芳(やまぐちなおよし): 副使(佐賀出身・外務少輔)[SRC-00666]。
津田梅子(つだうめこ): 北海道開拓使が募集した日本最初の女子留学生5人のうち最年少(満6歳)として使節団に同行した[SRC-00668]。のちに女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設した[SRC-00662][SRC-00668]。
歴史的意義
岩倉使節団は、1860年代に幕府が派遣した遣外使節団と比べても規模・歴訪国数で群を抜いており、その後もこれに匹敵する政府使節団は派遣されなかったと慶應義塾大学の講演録は位置づける[SRC-00667]。使節団の公式記録として、明治11年(1878年)に太政官記録課から『米欧回覧実記』計5冊が出版された[SRC-00662]。同書は使節団に同行した久米邦武が編集したもので、欧米各地で見聞きした制度や文化などを記す[SRC-00662]。
現代の視点
使節団に随行した女子留学生5人のうち津田梅子は、帰国後、女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設した[SRC-00662][SRC-00668]。満6歳での渡航から私立女子高等教育における先駆的機関のひとつの創設に至る歩みは、今日、津田塾大学が自校の歴史として伝えている[SRC-00668][SRC-00669]。
出典一覧
- [SRC-00662] 公文書の世界 - 33.銅版と出版物 ―岩倉使節団の記録 : 国立公文書館/国立公文書館(ランクA)
- [SRC-00663] 20.岩倉使節団|歴史資料の宝庫 : 国立公文書館/国立公文書館(ランクA)
- [SRC-00664] 1-7 岩倉遣外使節団|史料にみる日本の近代(国立国会図書館)/国立国会図書館(ランクA)
- [SRC-00665] 岩倉使節団|テーマ解説|中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典(国立国会図書館国際子ども図書館)/国立国会図書館国際子ども図書館(ランクA)
- [SRC-00666] なぜ岩倉使節団は派遣されたのか|-明治150年 インターネット特別展- 岩倉使節団~海を越えた150人の軌跡~(アジア歴史資料センター)/アジア歴史資料センター(国立公文書館)(ランクA)(複数の資料を収載)
- [SRC-00667] ヴィクトリア朝の岩倉使節団──幕末維新期における文化接触と〈知〉をめぐる旅|講演録|三田評論(慶應義塾)/慶應義塾(三田評論)(ランクA)
- [SRC-00668] 津田塾の歴史|津田塾大学/津田塾大学(ランクA)
- [SRC-00669] 創立120周年記念特別対談「3人の女子留学生の研究者」による鼎談|津田塾大学/津田塾大学(ランクA)
- [SRC-00035] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 天正10年6月2日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
- [SRC-00605] 『法令全書』明治5年(内閣官報局)― 太政官第三百三十七号(改暦ノ詔書並太陽暦頒布)原本画像/内閣官報局(国立国会図書館デジタルコレクション収載)(ランクS)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-04 | — |
| 2 | 2026-09-04 | あり |
| 3 | 2026-09-04 | あり |
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