ポンバル侯爵は地震の翌年、全国の教区へ13の質問を送ったという
日付と暦
- 原典表記
- 1755年11月1日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1755-11-01(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 11月1日のページ
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概要
1755年11月1日、諸聖人の日の朝、リスボンでは多くの市民が祝日のミサのため教会に集まっていた[SRC-00658]。アラウージョによれば午前9時40分ごろ、大地震がポルトガルの首都を襲い、地面は6分から7分にわたって揺れたとされる[SRC-00655]。地震にはまもなく津波と市内各所の火災が続き、リスボンは地震・津波・火災が重なる複合的な災害に見舞われた[SRC-00655][SRC-00658]。国王ジョゼ1世一家は、地震当日ベレンの離宮にいたため難を逃れた[SRC-00655]。国王の大臣セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァリョ・エ・メロ(後のポンバル侯爵)は復興の指揮を執り、翌年には全国の教区へ13の質問からなる調査票を送ったとされ、科学的な被害調査を命じた[SRC-00655][SRC-00657]。
本文
被害は甚大だった[SRC-00655][SRC-00658]。ブリタニカによれば、激しい揺れは大規模な公共建築物と約1万2000戸の住宅を倒壊させ、教会の多くはミサの最中に崩れて多数の礼拝者を巻き込んだ[SRC-00658]。アラウージョの整理によれば、市内40の教区のうち16が倒壊・焼失し、19が廃墟同然となり、65の修道院のうち建ったまま残ったのは11のみだった[SRC-00655]。
地震の後には津波が続き、モレイラ・デ・メンドンサによれば、海はいったん引いて普段見えない海底をあらわにしたのち、大きなうねりとなって沿岸を3度にわたって襲い、多くの建物を破壊したという[SRC-00655]。夜には各所の火の手が市中心部に広がり、アラウージョによれば、その後4日間にわたって瓦礫と遺体を焼き尽くしたという[SRC-00655]。死者数と地震の規模(マグニチュード)は、いずれも出典によって大きく異なり単一の確定値がない(異説・論争で扱う)[SRC-00654][SRC-00655][SRC-00656][SRC-00657][SRC-00658]。
歴史的背景
ポンバル侯爵は、被害の実態を客観的に把握するため、アラウージョの整理によれば1756年、全国の教区の司祭へ13の質問からなる調査票を送ったという[SRC-00655][SRC-00657](フォンセカは、この調査を1755年、地震発生の直後に始まったものとする[SRC-00656]。年の食い違いは異説・論争を参照)。フォンセカは、この調査が「地震学を近代の時代へ導入した」("introduziu a sismologia na era moderna")ことは広く認められていると評し[SRC-00656]、アラウージョも、調査への回答は「近代的な地震学的理解の誕生」("the birth of a modern seismological understanding")を示すものだったと位置づけている[SRC-00655]。
地震発生から1か月後の12月4日、技師長マヌエル・ダ・マイアは復興に関する最初の報告書を提出した[SRC-00655][SRC-00657]。最終的に、エウジェニオ・ドス・サントスが立案した計画に基づき、木造の骨組み構造(アラウージョは英語で"cage"、アルメイダは葡語で"gaiola de madeira"と呼ぶ)を石積みの壁に組み込んだ耐震工法での再建が進められた[SRC-00655][SRC-00657]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1755年11月1日(グレゴリオ暦。アラウージョによれば午前9時40分ごろ) | 地震発生。モレイラ・デ・メンドンサによれば6〜7分間揺れた | [SRC-00655] |
| 1755年11月1日(同日中、グレゴリオ暦) | 津波が沿岸部を襲い、市中心部で火災が発生。アラウージョによれば以後4日間続いたという | [SRC-00655] |
| 1755年12月4日(グレゴリオ暦) | マヌエル・ダ・マイアが復興に関する最初の報告書を提出 | [SRC-00655][SRC-00657] |
| 1756年(グレゴリオ暦。アラウージョ・アルメイダの整理による) | ポンバル侯爵、全国の教区へ13問の地震調査票を送付したという | [SRC-00655][SRC-00657] |
| 1756年(グレゴリオ暦) | ヴォルテール『リスボンの災厄についての詩』刊行 | [SRC-00655] |
| 1758年5月12日(グレゴリオ暦) | 復興工事に関する法律が公布され、正式に再建が始まる | [SRC-00655] |
| 1759年(グレゴリオ暦) | ヴォルテール『カンディード』刊行 | [SRC-00655] |
暦の注記: 1755年当時のポルトガル王国はすでにグレゴリオ暦を採用していたとみられる(アラウージョの論文が全編グレゴリオ暦の日付で記述していることに基づく本サイトの整理[SRC-00655])。本記事の日付はすべてグレゴリオ暦(旧暦・ユリウス暦への換算は不要)。
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
死者数の推定値は、同時代の記録・現代の学術的整理・現代の総括値のいずれについても史料ごとに大きく異なり、単一の確定値は存在しない[SRC-00655][SRC-00657][SRC-00658]。アラウージョの整理によれば、同時代の記録には性質の異なる3つの推定値が並存する。事件の1年後、パードレ・アントニオ・ド・サクラメントが伝えたとされる「少なくとも1万8000人」、教皇大使がローマに報告した「およそ4万人」、そしてポンバル侯爵自身が動揺を抑えるため植民地総督たちに伝えたという、より低い「6000人から8000人」である[SRC-00655]。現代の学術的整理にも一致はない。リスボン大学工学部のアルメイダ(2015)は、死者の正確な数は不確かだとしたうえで「1万人から1万5000人」とする推定と「3万人から6万人」とする推定が並存すると記す(この脚注は推定の一次的な出典を明示しておらず、他の出典による裏付けも確認できていない)[SRC-00657]。ブリタニカは「リスボンだけで推定6万人」という総括的な値を記している[SRC-00658]。また、ポンバル侯爵の全国調査が始まった年についても史料の間で割れがある(後述)。
地震の規模(モーメントマグニチュード)についても、系統の異なる2つの推定が並存する。米国地質調査所(USGS)が公開するバーカンほか(2009)の論文は「推定モーメントマグニチュード8.5から9.0」("an estimated moment magnitude of 8.5-9.0")としている[SRC-00654]。一方、リスボン大学の地震学者フォンセカは、2017年の論考で震度資料を再検討し、モーメントマグニチュード「8.1±0.4」という、それよりやや低い値を独自に算出している[SRC-00656]。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 死者数はどれくらいか | 6000〜8000人(ポンバル侯爵自身が植民地総督に伝えた公式推定) | [SRC-00655] | 動揺を抑えるための政治的配慮を伴う可能性があるとアラウージョは指摘する |
| 同上 | 少なくとも1万8000人(パードレ・アントニオ・ド・サクラメントが1年後に伝えたとされる) | [SRC-00655] | 街の噂として広まっていたという位置づけ |
| 同上 | およそ4万人(教皇大使がローマへ報告) | [SRC-00655] | 外交ルートを通じた報告 |
| 同上 | 1万〜1万5000人、または3万〜6万人(アルメイダ2015年の学術的整理。上流の出典明示なし) | [SRC-00657] | アルメイダの脚注が「不確か」としたうえで両推定を並記する |
| 同上 | リスボンだけで推定6万人 | [SRC-00658] | ブリタニカ編集部による総括値 |
| 地震の規模(モーメントマグニチュード)は何か | 8.5〜9.0 | [SRC-00654] | USGSが引用する研究の値 |
| 同上 | 8.1±0.4 | [SRC-00656] | フォンセカによる、震度資料の再検討に基づくやや低めの学術的再評価 |
| 全国の教区への調査票はいつ始まったか | 1756年 | [SRC-00655][SRC-00657] | アラウージョ・アルメイダの整理による |
| 同上 | 1755年、地震発生の直後 | [SRC-00656] | フォンセカは地震直後に始まったとする |
| 火災は何日間続いたか | 4日間 | [SRC-00655] | アラウージョの整理による |
| 同上 | およそ6日間 | [SRC-00658] | ブリタニカ編集部による記述 |
関連する出来事
- 地震の揺れは北アフリカでも感じられ[SRC-00655]、地震が起こした津波は大西洋を越えてカリブ海のマルティニークにまで到達したとされる[SRC-00658]。
- ポンバル侯爵は1759年、イエズス会をポルトガル王国と海外領土から追放した[SRC-00655]。
関連人物
- セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァリョ・エ・メロ(せばすてぃあん・じょぜ・で・かるゔぁりょ・え・めろ、後のポンバル侯爵): 国王ジョゼ1世の大臣。地震後の危機対応と復興の指揮を執り[SRC-00655]、アラウージョの整理によれば1756年、全国の教区へ地震の調査票を送ったという[SRC-00655][SRC-00657]。
- マヌエル・ダ・マイア(まぬえる・だ・まいあ): ポルトガル王国の技師長。1755年12月4日、復興に関する最初の報告書を提出した[SRC-00655][SRC-00657]。
歴史的意義
リスボン地震は、ヨーロッパの啓蒙思想における議論を呼んだ[SRC-00655][SRC-00656][SRC-00657]。ヴォルテールは地震の翌年にあたる1756年、『リスボンの災厄についての詩』を発表し、1759年には小説『カンディード』でこの災厄に触れながら楽天主義を風刺した[SRC-00655]。ルソーはヴォルテールへの書簡で、被害の大きさは自然そのものというより、高層の住居に人々が密集して暮らしていた社会のあり方にも一因があると応じた[SRC-00655][SRC-00657]。カントも地震の自然科学的な原因を論じる文章を発表した[SRC-00655][SRC-00656]。『カンディード』は発表初年に3万部が売れたとされる[SRC-00657]。
現代の視点
現代の地震学者は、この地震の震源となった断層の位置について、今も議論を続けている[SRC-00656]。フォンセカは、同時代の記録に基づく震度分布の再検討から、この地震の規模を従来の古典的な推定よりやや低い値へ見直す提案をしている[SRC-00656]。1755年の発生から271年が過ぎた現在も、揺れの規模も死者の数も、一つの値には定まっていない[SRC-00654][SRC-00655][SRC-00656][SRC-00657][SRC-00658]。
出典一覧
- [SRC-00654] Far field tsunami simulations of the 1755 Lisbon earthquake: Implications for tsunami hazard to the U.S. East Coast and the Caribbean(USGS Publications Warehouse収録)/U.S. Geological Survey(米国地質調査所)Publications Warehouse(ランクA)(複数の資料を収載)
- [SRC-00655] The 1755 Lisbon Earthquake: The Catastrophe and the Reconstruction/Storicamente(査読誌)/Dipartimento di Storia Culture Civiltà, Università di Bologna(ランクA)
- [SRC-00656] O terramoto de 1 de Novembro de 1755 à luz da sismologia moderna(『Testemunhas do Caos: As Faces do Terramoto de 1755(混沌の証人たち:1755年地震の諸相)』第1章)/Academia das Ciências de Lisboa(リスボン科学アカデミー)(ランクA)(複数の資料を収載)
- [SRC-00657] Um terramoto em Lisboa (1755). Uma reflexão de agora, 260 anos depois(『1755年のリスボン地震——260年後の、今からの省察』)/Territorium誌(RISCOS - Associação Portuguesa de Riscos, Prevenção e Segurança〔ポルトガル・リスク予防安全協会〕刊)(ランクA)
- [SRC-00658] Lisbon earthquake of 1755/Encyclopaedia Britannica(ランクB)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-04 | あり |
| 2 | 2026-09-04 | あり |
| 3 | 2026-09-04 | あり |
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