英国のグレゴリオ暦採用 — 天文学がわからない伯爵が、11日間を消した夜
日付と暦
- 原典表記
- 1752年9月14日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1752-09-14(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 9月14日のページ
暦の注記: この出来事は西暦(グレゴリオ暦)の**1752年9月14日(木)**に起きた。イギリス(グレートブリテン王国)はこの日から新暦(グレゴリオ暦)を採用し、前日までは旧暦にあたるユリウス暦を使っていた[SRC-00044][SRC-00045]。改暦法は、9月2日(当時は水曜日にあたる[SRC-00047])の翌日を「9月14日と呼ぶ」と定め、その間の9月3日から13日までの11日間は日付の呼称として一度も存在しなかった[SRC-00044]。11日間という日数は、1700年(ユリウス暦では閏年、グレゴリオ暦では平年)に両暦の差がさらに1日広がったことによる(1582年の改暦時は10日だった)[SRC-00045]。本サイトでは 09-14 のページに掲載している。
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概要
1751年2月25日、貴族院の演壇に立ったチェスターフィールド伯爵フィリップ・ドーマー・スタナップは、自分がこれから通そうとする法案の中身――天文学の話――をほとんど理解していなかった[SRC-00047]。それでも法案は貴族院を通過した[SRC-00046]。翌1752年9月2日(水)の夜、イギリスの人々はいつもどおり眠りにつき、目覚めると暦は9月14日(木)になっていた[SRC-00044][SRC-00045][SRC-00047]。9月3日から13日までの11日間は、暦の上に一度も存在しなかった[SRC-00044]。天文学がわからないまま雄弁だけで法案を通した伯爵と、消えた11日間の顛末を出典とともに読む[SRC-00047]。
本文
チェスターフィールド伯爵は、オランダ駐在の外交官を二度務めた人物である[SRC-00047]。当時の大陸ヨーロッパの大半はすでにグレゴリオ暦を使っており、旧暦(ユリウス暦)を使い続けるイギリスとの間でやり取りする手紙には、新暦・旧暦の二重の日付を書き添える必要があった[SRC-00047]。伯爵は、法案づくりにあたり「最良の弁護士と最も熟練した天文学者に相談し……その法案をでっち上げた」と本人は述べている[SRC-00047]。また、貴族院で天文学的な専門用語を用いねばならなかったが、自分は一言も理解していなかったと息子への手紙で認めている[SRC-00047]。法案の天文学的な裏づけは、ヒストリー・オブ・パーラメント(英国議会史研究機関)によれば、貴族院で旧暦の欠陥を論じたマクルズフィールド伯爵ジョージ・パーカーが担ったとされる[SRC-00047]。
法案は貴族院を通過し、翌1752年から効力を持った[SRC-00044]。法律の正式な短題「Calendar (New Style) Act 1750」は、後年の1896年の法律(Short Titles Act 1896)によって与えられたものである[SRC-00044]。短題の年が「1750」となっているのは当時の年始(3月25日起算)によるとみられる(出典がこの点を直接述べるものではなく、本稿の整理である)。そして1752年9月2日(水)の夜、人々はいつもどおり眠りについた[SRC-00047]。翌朝、暦は9月14日(木)になっていた――法律が「9月2日の翌日を、9月14日と呼び、その間の11の呼称上の日を省略する」と定めていたからである[SRC-00044]。時間そのものが11日間消えたわけではない。省略されたのは、あくまで日付の「呼び名」だった[SRC-00044]。
歴史的背景
1582年にグレゴリオ暦を定めたのはローマ教皇グレゴリウス13世である[SRC-00045][SRC-00047]。プロテスタント国となっていたイギリスは、この「教皇の改革」を長く採用しなかった[SRC-00046]。エリザベス1世の時代の1585年3月16日(当時の年始〔3月25日起算〕で書けば1584年にあたり、原典表記「1584/5」はこの旧年始による二重表記である)に改暦法案が貴族院に提出されたが、聖職者たちの反対で第二読会のあと廃案になっている[SRC-00047]。それから170年近くを経て、貿易・外交上の不便が宗教上のためらいを上回ったことが、法案成立の背景にある(イギリスの改暦がこれほど遅れたのは暦の精度よりも宗教上の理由が大きかったという評価を含め、前掲の経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この因果を述べるものではない)[SRC-00047]。
タイムライン
| 日付 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1582年10月 | ローマ教皇グレゴリウス13世がグレゴリオ暦を制定。カトリック諸国が採用(プロテスタントのイギリスは不採用) | [SRC-00045][SRC-00047][SRC-00046] |
| 1585年3月16日 | イギリスで最初の改暦法案が貴族院に提出されるが、聖職者の反対で第二読会後に廃案(当時の年始〔3月25日〕では1584年にあたり、原典表記「1584/5」はその二重年表記。単一の日付を指す) | [SRC-00047] |
| 1751年2月25日 | チェスターフィールド伯爵が貴族院に改暦法案を提出(「最良の弁護士と最も熟練した天文学者に相談し、その法案をでっち上げた」と本人は述べている) | [SRC-00047] |
| 1751〜52年 | 改暦法「Calendar (New Style) Act 1750」(短題は後年の1896年の法律で付与)。新年の始まりを3月25日から1月1日に改める規定を含む(短題の年表記「1750」は当時の年始によるとみられる — 本稿の整理) | [SRC-00044] |
| 1752年9月2日(水)→9月14日(木) | 9月2日の翌日を「9月14日」と呼ぶことで、9月3日〜13日の11日間の日付表記が省略される | [SRC-00044][SRC-00045][SRC-00047] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
改暦をめぐる「暴動」の有無 — 通説と近年の学術的検証は一致しない。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 改暦の夜に暴動があったか | 通説(俗説): 人々が「11日間を返せ」と叫んで暴動を起こした | ブリタニカ百科事典は第15版(1976年)までこの説を記載していた [SRC-00046] | 長く「信頼できる文献」にも記載されてきたが、直接の実証的根拠ではない |
| 同上 | 近年の学術的検証: 実証的根拠は乏しいとされる。ただし各媒体が挙げる典拠は完全には一致しない | Britannicaは根拠を(1)チェスターフィールドの風刺雑誌『ザ・ワールド』の記事(改暦反対派の誇張表現を皮肉ったもの)(2)画家ウィリアム・ホガースの版画『選挙の饗宴』(1755年発表。改暦の2年後、1754年のオックスフォードシャー選挙の混乱を描いた4部作の1点目)の2点とする[SRC-00046]。The History of Parliament Trustは同様に懐疑的だが、挙げる典拠はホガースの版画のみである[SRC-00047] | Britannica編集部・The History of Parliament Trustとも独立に懐疑的な評価(Britannica「証拠は乏しい」/HoP「実際の混乱はせいぜい数例」)を示している |
| 法案提出日の年表記 | 貴族院への法案提出日は日としては一致するが、年の表記が資料間で割れる | Britannicaは「February 25, 1750」(当時の英国の旧年始表記)、History of Parliament Trustは「25 February 1751」(現在の数え方に基づく表記)とする。同じ日を指す[SRC-00046][SRC-00047] | 本記事のテーマである改暦・年始変更そのものに由来する表記差であり、誤りではない |
ホガースの版画に描かれた「Give Us Our Eleven Days(われらの11日間を返せ)」の垂れ幕は、折れた竿につけられたまま、ホイッグ派支持者が突き出した足の下に横たわる構図で描かれている[SRC-00046]。多くの歴史家は、この絵が意図したのは1752年の改暦そのものではなく、2年後の選挙運動の過熱ぶりの風刺だったと見ている[SRC-00046]。
関連する出来事
- 1582年10月のグレゴリオ暦導入(ローマ教皇グレゴリウス13世): イギリスの改暦の直接の前提。カトリック諸国はこの時点で新暦へ切り替えたが、プロテスタントのイギリスは170年遅れて採用した[SRC-00045][SRC-00047][SRC-00046](記事未作成)
関連人物
- チェスターフィールド伯爵(フィリップ・ドーマー・スタナップ) — 1751年2月25日、改暦法案を貴族院に提出した人物(駐オランダ大使を歴任[SRC-00049])。オランダ駐在の外交官を二度務め、外交文書の二重日付に苦労した経験が動機になったとされる[SRC-00047]
- マクルズフィールド伯爵(ジョージ・パーカー) — 法案の学術的な裏づけを担ったとされる人物。貴族院での演説で「どれほど完璧だと信じられていた方式であっても、真偽を暴く偉大な発見者である時間が、それがきわめて誤っていたことを示した」と旧暦の欠陥を論じたと伝えられる(本サイトによる意訳)[SRC-00047]
歴史的意義
この改暦により、イギリスは大陸ヨーロッパの大半と暦を共有し、外交・貿易上の「二重日付」という長年の不便を解消した[SRC-00047]。1582年の改暦から170年近くもの間、暦という共通のインフラでさえ宗教的な立場の違いによって分かれていたことを、この経緯は物語る(前掲の経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この評価を述べるものではない)[SRC-00047]。日付の書き方という一見地味な行政上の変更が、270年以上を経た現代の英国税制にまで痕跡を残している点で、暦が単なる記録の道具ではなく社会制度そのものに組み込まれていることを物語る一例でもある(前掲の経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この評価を述べるものではない)。
現代の視点
1752年のこの11日間の調整は、いまも英国の日常に痕跡を残しているとされる。イギリスの税年度(会計年度)は、なぜか4月6日という半端な日から始まる[SRC-00048]。ハル大学のジェーン・フレックナル=ヒューズ教授によれば、財務省は税収の減少を避けるため、1752年分の課税年度の末尾に消えた11日間を加算し、その結果1753年分の税年度の開始日は4月5日になったとされる[SRC-00048]。さらに1800年、ユリウス暦では閏年だがグレゴリオ暦では閏年でないという両暦のもう一つのずれを理由に、財務省はもう1日分を先送りし、開始日は現在の4月6日になったと説明される[SRC-00048]。貴族院で「天文学はわからない」と認めた伯爵の法案は、270年余りを経た今も、4月6日が巡ってくるたびに英国の納税者にその存在を思い出させている(本稿の見立て)。
出典一覧
- [SRC-00044] Calendar (New Style) Act 1750 (24 Geo 2 c.23) — 英国政府公式法令データベース/legislation.gov.uk(The National Archives、英国政府)(ランクS)
- [SRC-00045] 暦Wiki「グレゴリオ暦」(国立天文台暦計算室)/国立天文台暦計算室(ランクA)
- [SRC-00046] Did a Calendar Change Cause Riots in England?(Britannica)/Encyclopædia Britannica, Inc.(ランクB)
- [SRC-00047] 'Time, that great discoverer of truth and falsehood': the calendar change of 1752 and the dating of Easter(The History of Parliament)/The History of Parliament Trust(ランクA)
- [SRC-00048] Why the UK tax year begins on April 6 (it's a very strange tale)(The Conversation)/The Conversation(ランクB)
- [SRC-00049] チェスターフィールド伯(コトバンク — 日本大百科全書収載)/コトバンク(DIGITALIO)/原典: 小学館(ランクB)(複数の資料を収載)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-08-28 | — |
| 2 | 2026-08-28 | あり |
| 3 | 2026-08-29 | あり |
訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。