政府が10年後の国会開設を約束する勅諭を発した
日付と暦
- 原典表記
- 明治14年10月12日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1881-10-12(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 10月12日のページ
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概要
明治14年(1881年)10月12日、政府は10年後の明治23年(1890年)を期して国会を開設することを約束する勅諭(国会開設の勅諭)を発した[SRC-00466][SRC-00467][SRC-00474]。前日の10月11日には御前会議が開かれ、国会の早期開設や政党内閣制の導入を求めていた参議大隈重信とその一派の罷免が決まったとブリタニカ国際大百科事典は記す(明治十四年の政変)[SRC-00467]。発端は、開拓使長官黒田清隆が同郷の政商五代友厚へ極めて有利な条件で官有物を払い下げようとし、世論の激しい批判を浴びた「開拓使官有物払下げ事件」だった[SRC-00468]。勅諭が約束したとおり、明治23年(1890年)に帝国議会が開設された[SRC-00473]。
本文
明治7年(1874)の板垣退助らによる「民撰議院設立建白書」を機に高まった自由民権運動は、明治13年(1880)には全国から約70件の国会開設請願の建白書が提出されるまでになっていた[SRC-00469]。政府部内でも、参議伊藤博文を中心とする漸進論と参議大隈重信の急進論が対立していたと日本大百科全書は記す[SRC-00467]。大隈は明治14年3月、政党内閣制の採用や早期の国会開設を求める意見書を単独で提出したとブリタニカ国際大百科事典は記す[SRC-00467]。同事典はこれを左大臣有栖川宮への提出とし、「本年中に英米流の憲法を制定,2年後に国会開設」という内容だったと記す[SRC-00467]。日本大百科全書は、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏したと記す[SRC-00467]。
折しも、開拓使長官黒田清隆が、同郷(薩摩藩出身)の政商五代友厚らの関西貿易商会へ、無利息30年賦・38万円余という有利な条件で開拓使官有物の払下げを計画していることが明らかになった[SRC-00468]。薩摩閥同士の癒着だとする世論の批判が高まり、大隈もこれに反対したため、政府部内の対立は決定的になったと日本大百科全書は記す[SRC-00467]。岩倉具視・伊藤博文は井上毅にプロシア流の憲法構想を立案させて大隈のイギリス的議会主義を退け、天皇が東北・北海道巡幸から帰京するのを待って大隈追放の計画を断行したと同書は記す[SRC-00467]。
ブリタニカ国際大百科事典によれば、10月11日の御前会議で大隈一派の罷免と払下げの中止が決定され、翌12日、「明治23年に国会開設と憲法を制定する」という詔勅が出された[SRC-00467]。山川日本史小辞典・旺文社日本史事典もともに10月12日の勅諭発布を記し、岩倉具視・伊藤博文の主導で大隈の早期(1883年)国会開設論・イギリス流議会政治実現論が退けられたと山川日本史小辞典は記す[SRC-00466]。
歴史的背景
政府は明治8年(1875)に詔により漸進的な立憲政体樹立の方針を示していたと山川日本史小辞典は記す[SRC-00466]。同書は、国会開設の勅諭が期限を明示することで、政府の手による漸進的国会開設の基本的方向を明確にしたとも記す[SRC-00466]。国会期成同盟を中心とする国会開設運動は、開拓使官有物払下げ事件で最高潮に達したと旺文社日本史事典は記す[SRC-00466]。勅諭発布後、明治17年(1884)の華族令、翌年の内閣制度発足を経て、明治22年(1889)2月11日に大日本帝国憲法が発布されたと国立国会図書館は整理する[SRC-00470]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 明治7年(1874、グレゴリオ暦) | 板垣退助ら「民撰議院設立建白書」を提出 | [SRC-00469] |
| 明治13年(1880、グレゴリオ暦) | 全国から約70件の国会開設請願の建白書が提出される | [SRC-00469] |
| 明治14年(1881)3月(グレゴリオ暦) | 大隈重信が政党内閣制・早期国会開設を求める意見書を単独で提出(ブリタニカ国際大百科事典の記述) | [SRC-00467] |
| 明治14年(1881)10月11日(グレゴリオ暦) | 御前会議で大隈重信一派の罷免と開拓使官有物払下げの中止が決定(ブリタニカ国際大百科事典の記述) | [SRC-00467] |
| 明治14年(1881)10月12日(グレゴリオ暦) | 国会開設の勅諭が発せられる(明治23年の国会開設を約束) | [SRC-00466][SRC-00467][SRC-00474] |
| 明治22年(1889)2月11日(グレゴリオ暦) | 大日本帝国憲法が発布される | [SRC-00470] |
| 明治23年(1890)11月25日〜29日(グレゴリオ暦) | 帝国議会が召集され、開院式が行われる(改訂新版世界大百科事典の記述) | [SRC-00473] |
暦の注記: 本事象は明治14年(1881年)に発生しており、日本が明治6年(1873年)にグレゴリオ暦へ改暦した後の日付である。旧暦・新暦の換算は発生しない(改暦境界1582年10月・明治5年改暦のいずれにも該当しない)。
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
日付・内容そのものに争いはないが、この政変の性格をめぐる評価には資料間で幅がある[SRC-00467]。山川日本史小辞典は、勅諭が時期を明示することで政府の手による漸進的国会開設の基本的方向を明確にしたと記す[SRC-00466]。同書は明治8年(1875)の詔による漸進的な立憲政体樹立の方針も記す[SRC-00466]。旺文社日本史事典・国立公文書館・国立国会図書館の展示解説は、国会開設という制度の帰結を中心に本事象を説明する[SRC-00466][SRC-00469][SRC-00470]。これに対し、日本大百科全書は本事象を「参議大隈重信とその一派を追放し薩長藩閥政府の強化を計った政治的事件」と定義し、岩倉具視・伊藤博文らによる「大隈放逐のクーデター」の計画だったと記す[SRC-00467]。ブリタニカ国際大百科事典小項目事典も「この政変は単に国会開設問題だけでなく,維新以来の財政政策を舞台とした大隈と松方正義および伊藤らの間の権力闘争の側面があり」と記し、財政政策をめぐる薩長系参議と大隈の路線対立・権力闘争という側面を明記する[SRC-00467]。デジタル大辞泉は政府内部の対立と薩長藩閥体制の確立という結果を簡潔に記すのみで、いずれの文脈にも深入りしない[SRC-00467]。
本事象を指す語も資料間で割れている。山川日本史小辞典・旺文社日本史事典は「国会開設の勅諭」と記し[SRC-00466][SRC-00468]、日本大百科全書は「国会開設の詔勅」と記す[SRC-00468]。ブリタニカ国際大百科事典小項目事典も「詔勅」の語を用いる[SRC-00467]。両語が同一の語であることを述べる資料は確保できていないが、原典『法令全書 明治十四年』は当該文書を「詔勅」の部に収める項目見出し「勅諭」として掲げている[SRC-00474]。本記事は原典の項目見出しに従って「勅諭」を主表記とし、ブリタニカ国際大百科事典に帰属する箇所では同事典の語「詔勅」をそのまま用いる(本サイトの整理)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 政変の性格 | 自由民権運動の高まりへの対応であり、国会開設という制度の帰結を中心とするもの(山川日本史小辞典は時期の明示による漸進的国会開設の基本的方向の明確化と位置づける) | 山川日本史小辞典・旺文社日本史事典・国立公文書館・国立国会図書館 | [SRC-00466][SRC-00469][SRC-00470] 制度史・自由民権運動史の文脈を中心に据える記述。「漸進的な立憲政体樹立」の表現は山川日本史小辞典のみに見られ、同書はこれを明治8年(1875)の詔の方針として記す |
| 政変の性格 | 国会開設問題にとどまらない政治的側面があった。日本大百科全書は参議大隈重信とその一派の追放による薩長藩閥政府強化を狙った政治的事件(大隈放逐のクーデター)と性格づけ、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典は財政政策をめぐる大隈と松方正義・伊藤博文らの間の権力闘争の側面を明記する | 日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典小項目事典 | [SRC-00467] 財政政策をめぐる権力闘争という側面を明記するのはブリタニカ国際大百科事典小項目事典のみで、他の登録収載資料には同旨の記述はない |
| 本事象を指す語 | 「勅諭」と「詔勅」に割れる。山川日本史小辞典・旺文社日本史事典は「国会開設の勅諭」、日本大百科全書は「国会開設の詔勅」、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典は「詔勅」と記す | 山川日本史小辞典・旺文社日本史事典/日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典小項目事典/『法令全書 明治十四年』 | [SRC-00466][SRC-00467][SRC-00468][SRC-00474] 両語が同一の語であることを述べる資料は確保できていない。原典『法令全書 明治十四年』は当該文書を「詔勅」の部に収める項目見出し「勅諭」として掲げる |
関連する出来事
- 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布された[SRC-00470](記事未作成)
- 明治23年(1890年)11月25日、日本最初の帝国議会が召集され、29日に開院式が行われたと改訂新版世界大百科事典は記す[SRC-00473](記事未作成)
- 明治15年(1882年)4月、自由党の板垣退助が岐阜で暴漢に襲われた[SRC-00469](記事未作成)
関連人物
- 大隈重信(おおくましげのぶ) — 参議。明治14年3月、政党内閣制の採用と早期の国会開設を求める意見書を単独で提出したとブリタニカ国際大百科事典は記す(日本大百科全書は、政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏したと記す)。同年10月、明治十四年の政変で政府から罷免された[SRC-00467]
- 伊藤博文(いとうひろぶみ) — 参議。薩長系参議による国会開設の漸進論を主導し、岩倉具視とともに大隈重信の追放を計画したと日本大百科全書は記す[SRC-00467]
- 岩倉具視(いわくらともみ) — 右大臣。伊藤博文と組んで井上毅にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈重信のイギリス的議会主義を退けたと日本大百科全書は記す[SRC-00467]
- 明治天皇(めいじてんのう) — 国会開設の勅諭発布時の天皇(在位1867〜1912年)[SRC-00472]。政変は天皇が東北・北海道巡幸から帰京するのを待って断行されたと日本大百科全書は記す[SRC-00467]
- 黒田清隆(くろだきよたか) — 開拓使長官。同郷の政商五代友厚への官有物払下げ計画が世論の批判を浴びた[SRC-00468]
歴史的意義
国会開設の勅諭は、明治14年の政変を契機に発せられ、これにより明治23年の国会開設が決まり、立憲国家の枠組みも整えられていったと国立国会図書館は整理する[SRC-00470]。同館は、明治17年(1884)の華族令、翌年の内閣制度発足、伊藤博文による欧州での憲法調査を経て、明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布へと政治過程が続いたことも記す[SRC-00470]。勅諭で示された期限どおり、明治23年(1890年)に帝国議会が開設された[SRC-00473]。
現代の視点
「10年後」という具体的な期限を示す統治判断は、要求を全面的に退けるのではなく形を変えて受け止める漸進的な制度改革の手法の一例として読むことができる(本サイトの整理)。一方で、この決定の背景には自由民権運動の圧力だけでなく、政府内部の政策路線対立・権力闘争があったとブリタニカ国際大百科事典は指摘している[SRC-00467]。この政変を単線的な「制度の進歩」の物語として理解することには留保が必要である(本サイトの整理)。
出典一覧
- [SRC-00466] 国会開設の勅諭(コトバンク収載)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00467] 明治十四年の政変(コトバンク収載)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00468] 開拓使官有物払下げ事件(コトバンク収載)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00469] 近代国家 日本の登場 - 8.国会開設前夜/国立公文書館(ランクS)
- [SRC-00470] 史料にみる日本の近代 2-3 明治14年の政変/国立国会図書館(ランクS)
- [SRC-00471] 大日本帝国憲法(中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典 テーマ解説)/国立国会図書館国際子ども図書館(ランクA)
- [SRC-00472] 明治天皇(コトバンク収載)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00473] 帝国議会(コトバンク収載)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00474] 法令全書 明治十四年(詔勅の部・国会開設の勅諭)/内閣官報局(国立国会図書館デジタルコレクション収載)(ランクS)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-09-03 | — |
| 2 | 2026-09-03 | あり |
| 3 | 2026-09-03 | あり |
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