四方を敵に囲まれた信長は、浅井・朝倉をかくまう比叡山を焼くよう命じた
日付と暦
- 原典表記
- 元亀2年9月12日(和暦・太陰太陽暦)
- 換算
- 1571-09-30(ユリウス暦)
- 参考
- 1571-10-10(先発グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 9月12日のページ
暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の元亀2年9月12日に起きた(ユリウス暦換算: 1571年9月30日)[SRC-00316]。先発グレゴリオ暦(当時まだ施行されていない暦を遡って適用した値)では1571年10月10日にあたる[SRC-00316]。本サイトでは09-12のページに掲載している。換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」による[SRC-00316]。
この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る
概要
元亀元年(1570年)、姉川の戦いで信長に敗れた浅井長政・朝倉義景は、なお抵抗を続けた[SRC-00317]。両氏はのち比叡山に立てこもり、延暦寺はこれを庇護して信長との対決の構えを見せた[SRC-00317]。信長は延暦寺に中立を求めたが、延暦寺側はこれに明確に応じず、敵対的な態度をとり続けた[SRC-00318]。浅井・朝倉方によって織田信治が敗死し、伊勢長島の一向一揆によって信長の弟・織田信興が討たれるなど[SRC-00317]、多方面から包囲される危機的状況のなかで、元亀2年(1571年)9月12日、信長は比叡山への攻撃を命じた[SRC-00317][SRC-00318][SRC-00321]。根本中堂をはじめ堂塔伽藍のほぼすべてが焼き払われ、僧俗の男女が殺害されたと伝えられる[SRC-00317]。その数は、『信長公記』が「數千之屍」と記す一方[SRC-00321]、事典・解説記事は「数千名」[SRC-00317]、「3、4千人」[SRC-00318]、「3000人(僧侶1500人・俗人1500人)」[SRC-00319]とそれぞれ異なる人数を伝えており、一致した数字は今も定まっていない。
本文
『信長公記』は元亀2年9月12日の条に「叡山へ御取懸」と記す[SRC-00321]。信長は比叡山に攻め上り、根本中堂と「三王廿一社」を初めとする堂塔伽藍を焼き払った[SRC-00321]。サライ.jpは、信長が大軍で比叡山に攻め上ったとし、これに加えて東塔・西塔などの堂宇も焼き払われたと伝える[SRC-00318]。焼き討ちは数日にわたり続き、寺宝や経巻、古文書の多くも失われたと伝えられる[SRC-00318]。延暦寺は信長の存命中は再建を許されず、信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康の代になってようやく寺領が安堵され、再建が進んだ[SRC-00318]。
歴史的背景
比叡山延暦寺は、古代以来「鎮護国家」の霊場として、人々に君臨してきた伝統的権威を持っていた[SRC-00317]。また、古くから僧兵を擁し、政治や軍事にも強い影響力を持つ存在であり、単なる宗教施設ではなく戦国大名と並ぶ力を持つ一大勢力でもあった[SRC-00318]。信長がこの攻撃によってその伝統的権威を解体し、多方面から包囲される窮地を打開しようとした、というのは日本大百科全書の執筆者(奈倉哲三)による見立てであり、本サイトが独自に検証した解釈ではない[SRC-00317]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 元亀元年(1570・和暦)6月 | 姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が信長に一時敗れる | [SRC-00317] |
| 元亀元年(1570・和暦)9月 | 浅井・朝倉方が織田信治を討ち取り、両氏はのち比叡山に籠って延暦寺の庇護を受ける | [SRC-00317] |
| 元亀元年(1570・和暦)11月 | 伊勢長島の一向一揆が信長の弟・織田信興を討つ | [SRC-00317] |
| 元亀2年(1571・和暦)9月12日 | 信長が比叡山を攻撃し、根本中堂をはじめ堂塔伽藍を焼き払う | [SRC-00317][SRC-00318][SRC-00321] |
| (信長の死後) | 豊臣秀吉・徳川家康の代に延暦寺の寺領が安堵され再建が進む | [SRC-00318] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
焼き討ちによる死者数は、史料・解説記事によって記載が異なる。『信長公記』は元亀2年9月12日条に「數千之屍」と記すが、具体的な人数の内訳は記さない[SRC-00321]。事典・解説記事はそれぞれ異なる人数を伝える。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 出典の性格・内訳 |
|---|---|---|---|
| 焼き討ちによる死者数 | 數千之屍(具体的な人数は記さない) | 信長公記 巻之四〔元亀二辛未〕九月十二日条(太田牛一) [SRC-00321] | 近接軍記。内訳の記載なし |
| 同上 | 数千名(僧俗男女) | 日本大百科全書(署名: 奈倉哲三) [SRC-00317] | 事典項目。内訳の記載なし |
| 同上 | 3、4千人(山内にいた男女を含む) | サライ.jp(小学館) [SRC-00318] | 解説記事。内訳の記載なし |
| 同上 | 3000人(僧侶1500人・俗人〔男女児童〕1500人) | JBpress(乃至政彦) [SRC-00319] | 解説記事。著者は「当時の史料に伝えられている」と紹介するが、この内訳の典拠となる特定の一次史料名までは明示していない |
表に示した4件の出典は、死者数についてそれぞれ異なる記述を残している。いずれの数値についても本サイトは独自に人数を確定していない(調査範囲: SRC-00317〜00319・SRC-00321の4件)。
関連する出来事
- 姉川の戦い(元亀元年〔1570年〕6月、和暦): 浅井・朝倉連合軍が信長に一時敗れた戦い。この後も両氏の抵抗が続き、比叡山籠城・延暦寺庇護につながった[SRC-00317](記事未作成)
関連人物
- 織田信長 — 比叡山焼き討ちを命じた当事者。浅井・朝倉方を庇護し続ける延暦寺を、政治的・軍事的な脅威と位置づけたとされる[SRC-00317][SRC-00318]
歴史的意義
信長による延暦寺への攻撃は、古代以来「王城鎮護」の霊場として尊崇されてきた宗教権威に対する前代未聞の攻撃として、当時から強い衝撃をもって受け止められた[SRC-00318]。延暦寺は信長の存命中は復興を許されず、その後もかつてのような政治的・軍事的な影響力を回復することはなかった[SRC-00318]。
現代の視点
2022年、延暦寺の国宝・根本中堂にある仏像9体が、焼き討ち以前の鎌倉時代(正慶元年=1332年ごろ)の制作だったと判明した[SRC-00320]。それまでは江戸時代の根本中堂再建時に作り直されたと考えられていたが、仏像内部に残る墨書と、別の寺院(聖衆来迎寺)に伝わる記録が一致し、延暦寺側は僧侶らが持ち出して焼失を免れたのではないかとしている[SRC-00320]。焼き討ちから451年後の発見であり、山を焼いた炎から運び出された仏が、今も本尊の脇に立っていたことになる(前掲の経過から導かれる本稿の整理であり、出典が直接この総括を述べるものではない)。
出典一覧
- [SRC-00316] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 元亀2年9月12日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
- [SRC-00317] 延暦寺焼打(日本大百科全書〔ニッポニカ〕)— コトバンク/コトバンク(DIGITALIO)/原典: 小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」(ランクB)
- [SRC-00318] なぜ信長は「延暦寺焼打」をしたのか? 宗教勢力と信長の対決を読み解く【日本史事件録】 — サライ.jp/サライ.jp(小学館)(ランクB)
- [SRC-00319] 織田信長は仏教が嫌いだったのか?「比叡山焼き討ち」の真相 信長が敵視した粗暴者の溜まり場と成り果てた「聖地」の実態 — JBpress/JBpress(日本ビジネスプレス)(ランクB)
- [SRC-00320] 焼き打ち前の仏像と判明 大津、延暦寺の9体 — 日本経済新聞(共同)/日本経済新聞社(配信: 共同通信)(ランクB)
- [SRC-00321] 信長公記 巻之上(太田牛一著・甫喜山景雄刊「我自刊我本」・明治14年)— 国立国会図書館デジタルコレクション(巻之四「元亀二辛未」)/国立国会図書館デジタルコレクション(原刊: 甫喜山景雄、明治14年=1881)(ランクS)
本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。
訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-08-29 | — |
| 2 | 2026-08-29 | あり |
| 3 | 2026-08-29 | あり |
| 4 | 2026-08-29 | あり |
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