正使趙珩は、江戸城の大広間で徳川家綱と向き合った — 検証記録

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最終検証日
2026-08-30
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3
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b885596
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執筆と別系統のAI

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中核となる主張と、その根拠

記事の骨格をなす主張について、確からしさの程度と、それを支える資料を示します。

朝鮮通信使の将軍徳川家綱への江戸城謁見は、明暦元年10月8日(グレゴリオ暦1655年11月5日)に行われた。

確からしさ: 確実

  • 『徳川実紀』巌有院殿御実紀巻十、明暦元年十月八日条に「韓使引見あり」とあり、正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼が江戸城大広間で将軍徳川家綱に引見(謁見)したことを、国書・聘物の取り扱い、着座の次第とともに記す。前段には、韓使入府時の辻固の下命(九月廿九日条)、朝鮮信使の入府(十月二日)、老中酒井忠淸・松平信綱による本誓寺での三使全員(正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼)との対面と将軍の意向の伝達(三日)、対馬藩主宗義成の拝謁と将軍への金襴・照布・虎豹皮等の献上(四日)、御三家らによる引見儀注の協議と将軍によるリハーサル(七日)が記される。八日条は将軍のみが大広間の上段に着座し、井伊直孝・保科正之ら列席の大名・老中は西の縁に着座したことを記す(八日条の着座列に御三家は現れず、饗宴の場面に紀伊頼宣・水戸頼房・尾張光友が現れる)。 — 徳川実紀 第參編(巌有院殿御実紀 巻十・明暦元年九月-同十月)— 国立国会図書館デジタルコレクション(後世の編纂記録)
  • 改訂新版世界大百科事典の付属表(通し番号の記載なし)は、1655年来日の使節の正使を「趙珩」、使命を「家綱の襲職」と記す。山川日本史小辞典改訂新版は「1655年(明暦元)以降は徳川将軍の代替りごとの派遣が定例となった」と記す(1655年が代替わり慶賀の最初の事例だとは述べていない — 同表は1624年の使節〔正使鄭岦〕の使命も「家光の襲職」とする。同事典は「初期の3回は…厳密には通信使ではない」とも明記する)。日本大百科全書(ニッポニカ)は通信使一般の経路として「大坂までは海路、それ以東は陸路」と記す。 — コトバンク「朝鮮通信使」(複数事典収載)(事典・概説)

謁見は江戸城(大広間)で行われた。

確からしさ: 確実

  • 『徳川実紀』巌有院殿御実紀巻十、明暦元年十月八日条に「韓使引見あり」とあり、正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼が江戸城大広間で将軍徳川家綱に引見(謁見)したことを、国書・聘物の取り扱い、着座の次第とともに記す。前段には、韓使入府時の辻固の下命(九月廿九日条)、朝鮮信使の入府(十月二日)、老中酒井忠淸・松平信綱による本誓寺での三使全員(正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼)との対面と将軍の意向の伝達(三日)、対馬藩主宗義成の拝謁と将軍への金襴・照布・虎豹皮等の献上(四日)、御三家らによる引見儀注の協議と将軍によるリハーサル(七日)が記される。八日条は将軍のみが大広間の上段に着座し、井伊直孝・保科正之ら列席の大名・老中は西の縁に着座したことを記す(八日条の着座列に御三家は現れず、饗宴の場面に紀伊頼宣・水戸頼房・尾張光友が現れる)。 — 徳川実紀 第參編(巌有院殿御実紀 巻十・明暦元年九月-同十月)— 国立国会図書館デジタルコレクション(後世の編纂記録)

趙珩は明暦元年の朝鮮通信使の正使として、この江戸城謁見に参加した。

確からしさ: 確実

  • 『徳川実紀』巌有院殿御実紀巻十、明暦元年十月八日条に「韓使引見あり」とあり、正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼が江戸城大広間で将軍徳川家綱に引見(謁見)したことを、国書・聘物の取り扱い、着座の次第とともに記す。前段には、韓使入府時の辻固の下命(九月廿九日条)、朝鮮信使の入府(十月二日)、老中酒井忠淸・松平信綱による本誓寺での三使全員(正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼)との対面と将軍の意向の伝達(三日)、対馬藩主宗義成の拝謁と将軍への金襴・照布・虎豹皮等の献上(四日)、御三家らによる引見儀注の協議と将軍によるリハーサル(七日)が記される。八日条は将軍のみが大広間の上段に着座し、井伊直孝・保科正之ら列席の大名・老中は西の縁に着座したことを記す(八日条の着座列に御三家は現れず、饗宴の場面に紀伊頼宣・水戸頼房・尾張光友が現れる)。 — 徳川実紀 第參編(巌有院殿御実紀 巻十・明暦元年九月-同十月)— 国立国会図書館デジタルコレクション(後世の編纂記録)
  • 改訂新版世界大百科事典の付属表(通し番号の記載なし)は、1655年来日の使節の正使を「趙珩」、使命を「家綱の襲職」と記す。山川日本史小辞典改訂新版は「1655年(明暦元)以降は徳川将軍の代替りごとの派遣が定例となった」と記す(1655年が代替わり慶賀の最初の事例だとは述べていない — 同表は1624年の使節〔正使鄭岦〕の使命も「家光の襲職」とする。同事典は「初期の3回は…厳密には通信使ではない」とも明記する)。日本大百科全書(ニッポニカ)は通信使一般の経路として「大坂までは海路、それ以東は陸路」と記す。 — コトバンク「朝鮮通信使」(複数事典収載)(事典・概説)
  • 『孝宗実録』は、日本通信使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼の3名が孝宗6年(1655)4月20日に国王へ辞朝(出発前の暇乞い)をしたことを記す。氏名の表記(趙珩・兪瑒・南龍翼)は『徳川実紀』の表記(趙珩・兪瑒・南龍翼)と完全に一致する。 — 朝鮮王朝実録(孝宗実録)— 国史編纂委員会「朝鮮王朝実録」データベース:孝宗6年4月20日条・孝宗7年2月28日条・孝宗7年3月13日条(後世の編纂記録)
  • 九州国立博物館所蔵の対馬宗家文書中に、正使趙珩自筆(号「翠屏」)の詩巻(重要文化財、全1巻・3紙)が現存することを、データベースの目録記述で確認した。 — 対馬宗家文書データベース(九州国立博物館)— P14168「朝鮮通信使正使趙珩詩巻」及び明暦元年関連文書群(公的機関の解説)

徳川家綱は将軍として、この江戸城謁見で通信使を引見した。

確からしさ: 確実

  • 『徳川実紀』巌有院殿御実紀巻十、明暦元年十月八日条に「韓使引見あり」とあり、正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼が江戸城大広間で将軍徳川家綱に引見(謁見)したことを、国書・聘物の取り扱い、着座の次第とともに記す。前段には、韓使入府時の辻固の下命(九月廿九日条)、朝鮮信使の入府(十月二日)、老中酒井忠淸・松平信綱による本誓寺での三使全員(正使趙珩・副使兪瑒・従事官南龍翼)との対面と将軍の意向の伝達(三日)、対馬藩主宗義成の拝謁と将軍への金襴・照布・虎豹皮等の献上(四日)、御三家らによる引見儀注の協議と将軍によるリハーサル(七日)が記される。八日条は将軍のみが大広間の上段に着座し、井伊直孝・保科正之ら列席の大名・老中は西の縁に着座したことを記す(八日条の着座列に御三家は現れず、饗宴の場面に紀伊頼宣・水戸頼房・尾張光友が現れる)。 — 徳川実紀 第參編(巌有院殿御実紀 巻十・明暦元年九月-同十月)— 国立国会図書館デジタルコレクション(後世の編纂記録)
  • 徳川家綱は江戸幕府第4代将軍(読み: とくがわいえつな)。寛永18年8月3日(1641年)生まれ、慶安4年(1651年)11歳で将軍職を継いだ。法号は厳有院(『徳川実紀』当該部が「巌有院殿御実紀」と題される典拠)。 — コトバンク「徳川家綱」(複数事典収載)(事典・概説)

明暦元年10月8日はグレゴリオ暦1655年11月5日に相当する。

確からしさ: 確実

  • 国立天文台「日本の暦日データベース」への照会により、明暦元年10月8日はグレゴリオ暦1655年11月5日に相当することを確認した。双方向照会(和暦→西暦・西暦→和暦)で完全一致。 — 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 明暦元年10月8日の換算・干支照会結果(公的機関の解説)

山川日本史小辞典等は、1655年(明暦元)以降、徳川将軍の代替わりごとに通信使を派遣することが定例となったと位置づける。ただし1624年の使節(正使鄭岦)も将軍家光の襲職祝賀を使命としており、代替わり慶賀の使節そのものは1655年が最初ではない。

確からしさ: 有力

  • 改訂新版世界大百科事典の付属表(通し番号の記載なし)は、1655年来日の使節の正使を「趙珩」、使命を「家綱の襲職」と記す。山川日本史小辞典改訂新版は「1655年(明暦元)以降は徳川将軍の代替りごとの派遣が定例となった」と記す(1655年が代替わり慶賀の最初の事例だとは述べていない — 同表は1624年の使節〔正使鄭岦〕の使命も「家光の襲職」とする。同事典は「初期の3回は…厳密には通信使ではない」とも明記する)。日本大百科全書(ニッポニカ)は通信使一般の経路として「大坂までは海路、それ以東は陸路」と記す。 — コトバンク「朝鮮通信使」(複数事典収載)(事典・概説)

そのほかの記述の検証

中核以外の記述についても、107 件を出典と突き合わせ、107 件で一致を確認しました。

訂正の履歴

日付事実主張への変更再fact-check
12026-08-30
22026-08-30あり
32026-08-30あり

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