遣唐大使に選ばれた菅原道真が天皇に求めたのは、中止ではなく議定だったとされる

日付と暦

原典表記
寛平6年9月30日(和暦・太陰太陽暦)
換算
0894-11-01(ユリウス暦)
参考
0894-11-05(先発グレゴリオ暦)
掲載日
9月30日のページ

暦の注記: この出来事は和暦(旧暦)の寛平6年9月30日に起きた(ユリウス暦換算: 894年11月1日)[SRC-00330]。先発グレゴリオ暦(当時まだ施行されていない暦を遡って適用した値)では894年11月5日にあたる[SRC-00330]。本サイトでは09-30のページに掲載している。換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」による[SRC-00330]。

この記事の主張は出典に紐づけて検証しています。検証記録を見る

概要

寛平6年(894年)8月21日、菅原道真は遣唐大使に、紀長谷雄は副使に任じられた(任命日には異説がある — 異説欄参照)[SRC-00331][SRC-00332][SRC-00336]。その20日余り後の9月14日、道真は宇多天皇に一通の文書を提出したという[SRC-00332]。在唐の僧・中瓘(ちゅうかん)が伝えてきた唐の衰退や航海の危険を理由に挙げ、遣唐使を派遣すべきか否かを公卿・博士に広く諮り、詳しく可否を定めてほしいと願い出る内容だったとされる[SRC-00332]。同じ年の9月30日、『日本紀略』は、その日の条の末尾に「其日。停遣唐使。」(その日、遣唐使を停む — 本サイトによる訓読)と記す[SRC-00331]。この条は独立した日付表記を伴わず、記事の大半は新羅の海賊を撃退した大宰府からの報告と対馬の神々への位階奉授で占められている[SRC-00331]。

本文

道真が提出した文書の正式な題は「請令諸公卿議定遣唐使進止状(諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめむことを請ふ状)」という[SRC-00332]。文中で道真は、中瓘の報告する唐の混乱ぶりを紹介したうえで、「臣等伏して願はくは、中瓘の録記の状を以て、遍く公卿・博士に下し、詳らかに其の可否を定められむことを」と記している[SRC-00332]。この文書が求めているのは、遣唐使を派遣するかどうかについて公卿・博士に広く諮り、議定してもらうことであり、道真自身が派遣の中止を直接命じる内容ではないと読み取れる[SRC-00332]。

この文書が出される2か月ほど前、寛平6年7月22日には、太政官が中瓘に宛てた返牒(返信の公文書)の中で、遣唐使の派遣はすでに朝議で決まっているが、準備に時間がかかり出発が延びる可能性がある、と伝えていた[SRC-00332]。

『日本紀略』が9月30日条末尾に記す「其日。停遣唐使。」について、近年の学術的検討はその史料的価値に疑問を投げかけている[SRC-00336]。渡邊誠(2013)は、石井正敏氏の指摘(この一文は日付を特定できない記事を条末に仮に置いた書式であり、道真の奏状の文言をもとに編者が後に記したと推定される)を支持し、9月末に停止が決定された事実は「存在しなかったとしなければならない」と結論づける[SRC-00336]。近年の研究では、道真が提出した文書そのものによる「廃止」ではなく、その後も派遣が模索されながら、結局唐が滅亡したことで新たな派遣が行われないまま遣唐使の歴史が幕を閉じた、と理解されている[SRC-00332]。唐の滅亡は907年である[SRC-00333]。

歴史的背景

日本から唐への正式な使節は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣に始まり、寛平6年までに約20回任命されている[SRC-00333]。日本大百科全書は、平安時代に入ってからの遣唐使は延暦23年(804年)と承和5年(838年)の2回にわたって派遣されたのち、それ以降は中断していたと記す[SRC-00333]。寛平6年の計画は、承和5年から56年後にあたる(前掲の年から導かれる本サイトの計算であり、出典が直接この年数を述べるものではない)。道真の文書は、この間の唐の様子を「大唐の凋弊」と表現し、危険を冒してまで派遣する必要があるのか、朝廷に判断を委ねる形をとった[SRC-00332]。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
寛平6年(894・和暦)7月22日 太政官が入唐僧中瓘への返牒で、遣唐使派遣は既に朝議で決まっているが準備に時間がかかると伝える [SRC-00332]
同8月21日 菅原道真が遣唐大使に、紀長谷雄が副使に任じられる(滝川(2019)は八月二十二日とする — 異説欄参照) [SRC-00331][SRC-00332][SRC-00336]
同9月14日 道真が「請令諸公卿議定遣唐使進止状」を提出し、遣唐使派遣の可否を公卿・博士に諮るよう願い出る [SRC-00332]
同9月30日 『日本紀略』が同日条の末尾に「其日。停遣唐使。」と記す(近年の学術的検討はこの記述に独立した史料的価値を認めていないとされる) [SRC-00331][SRC-00336]
907年 唐が滅亡した [SRC-00333]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
論点 根拠・出典 学界での位置づけ
寛平6年9月30日に遣唐使停止の具体的な決定がなされたか 894年、遣唐大使であった菅原道真の建議・上表をきっかけに遣唐使が停止された、という理解が事典類で広く示される 複数の事典類 [SRC-00333][SRC-00334] 通説・一般的理解(事典類は「894年」とのみ記し、9月30日という日付には触れていない — 本サイトの整理)。渡邊誠(2013)も「従来、遣唐使の停止を伝える史料として疑われなかった『日本紀略』寛平六(八九四)年九月卅日条「其日、停遣唐使」」と述べ、この理解が広く受け止められてきたことを学術文献の側から証言している[SRC-00336]
同上 『日本紀略』の「其日。停遣唐使。」という記述自体は、日付を特定できない記事を条末に置く際の書式であり、道真の奏状(9月14日付)の文言をもとに後に編者が記したと推定され、独立した史料的価値を持たないとされる。したがって道真の建議から間もない9月末に停止が具体的に決定されたと直接裏づけるものではないとされる 日本紀略の記述自体[SRC-00331]、および渡邊誠(2013)が紹介・支持する石井正敏氏の指摘[SRC-00336] 近年の学術的検討
道真が9月14日に求めたのは何か 道真は遣唐使の中止・廃止そのものを建議した、という理解が一般的である 複数の事典類 [SRC-00333][SRC-00334] 通説・一般的理解
同上 道真の文書自体が求めたのは、遣唐使派遣の可否を公卿・博士に広く諮り議定することであり、中止そのものを直接命じる内容ではない 「請令諸公卿議定遣唐使進止状」の原文(滝川2019・渡邊2013による独立した2系統の翻刻) [SRC-00332][SRC-00336] 原文に基づく理解
菅原道真が遣唐大使に任じられたのは何日か 『日本紀略』寛平6年8月21日(廿一日庚戌)条に任命の記事があり、日付は8月21日である 日本紀略の記述自体・渡邊誠(2013)の関係記事一覧および本文 [SRC-00331][SRC-00336] 原典の日付表記。日の干支「庚戌」は国立天文台「日本の暦日データベース」が返す寛平6年8月21日の日の干支と一致する(8月22日であれば干支は「辛亥」となり原典の記載とは一致しない)[SRC-00330]
同上 滝川幸司(2019)は同じ任命記事の日付を八月二十二日とする [SRC-00332] 学術論文の一説。ただし同論文は『日本紀略』原文の日付表記そのものを検討対象とはしていない

停止の決定日・道真の建議の内容については、本サイトはどちらの理解が「正しい」かを裁定しない。原典(日本紀略・道真の文書)が実際にどう記しているか、および近年の学術的検討の内容を併記した。任命日については、日付を直接記す一次史料『日本紀略』と、これに基づく渡邊誠(2013)の記述を優先し、本文では八月二十一日を採用した(本サイトの整理。調査範囲: SRC-00331・SRC-00332・SRC-00333・SRC-00334・SRC-00336)。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

寛平6年の一連の出来事ののち、日本から唐への正式な使節は二度と派遣されなかった[SRC-00333]。この時期以降、日本の文化は独自色を強めていったとされ、この動きは「国風文化」と呼ばれる[SRC-00333]。ただし、遣唐使の途絶と国風文化の発展を単純な因果関係で結びつけることについては、事典の解説自体が慎重な留保を付けている。世界大百科事典は「あたかもこのころを期として日本には急速に国風文化が発展するが,それは,けっして唐との文化的接触が断絶した結果ではないのである」と記す[SRC-00333]。

現代の視点

「894年、菅原道真が遣唐使を廃止した」という一文にまとめられた理解は、今も一般的な事典類に広く記されている[SRC-00333][SRC-00334]。しかし原典に立ち返ると、道真自身の文書が求めたのは中止の決定そのものではなく、遣唐使派遣の可否についての議定だったとされる[SRC-00332][SRC-00336]。また『日本紀略』が記す停止の記事も独立した日付表記を伴わない簡潔な一文にとどまる[SRC-00331]。近年の学術的検討はこれに独立した史料的価値を認めていないとされる[SRC-00336]。ひとつの出来事が、後世に語り継がれるうちにどのように単純化されていくのかを考えさせる事例である(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-00330] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 寛平6年の換算・干支照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
  2. [SRC-00331] 国史大系 第5巻 日本紀略(経済雑誌社・黒板勝美校訂、1897)— 前篇二十 宇多天皇 寛平6年9月30日条/経済雑誌社(黒板勝美校訂)/国立国会図書館デジタルコレクション(ランクS)
  3. [SRC-00332] 滝川幸司「菅原道真と遣唐使(一)―「請令諸公卿議定遣唐使進止状」「奉勅為太政官報在唐僧中瓘牒」の再検討―」『詞林』第65号(2019年4月)17-30頁/大阪大学大学院文学研究科・文学部 詞林の会(大阪大学学術情報庫OUKA収載)(ランクA)
  4. [SRC-00333] 遣唐使(ケントウシ)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
  5. [SRC-00334] 菅原道真(スガワラノミチザネ)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
  6. [SRC-00335] 宇多天皇(ウダテンノウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING)(ランクB)(複数の資料を収載)
  7. [SRC-00336] 渡邊誠「寛平の遣唐使派遣計画の実像」『史人』第5号(広島大学大学院教育学研究科下向井研究室、2013年)63-79頁/広島大学大学院教育学研究科下向井研究室(発行)/広島大学学術情報リポジトリ(収載)(ランクA)

本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。

訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-08-29
22026-08-29あり
32026-08-29あり

訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。