妻女山を武田より先に下りた上杉謙信が、夜のうちに武田方を攻撃した
日付と暦
- 原典表記
- 永禄4年9月10日(和暦・太陰太陽暦)
- 換算
- 1561-10-18(ユリウス暦)
- 参考
- 1561-10-28(先発グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 9月10日のページ
暦の注記: 日本大百科全書によれば、この出来事は和暦(旧暦)の永禄4年9月10日に起きたとされる[SRC-00076](ユリウス暦換算: 1561年10月18日[SRC-00078])。先発グレゴリオ暦(当時未施行の暦の遡及適用)では1561年10月28日にあたる[SRC-00078]。本サイトでは09-10のページに掲載している。換算値は国立天文台暦計算室「日本の暦日データベース」による[SRC-00078]。なお、この期日にはブリタニカ国際大百科事典による異説(9月1日夜〜翌2日午後)がある。詳細は異説・論争欄を参照。
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概要
武田信玄は、軍を二手に分けて上杉方が布陣する妻女山(さいにょざん)を攻めさせ、山を下りたところを本隊で挟み撃ちにする策をとった[SRC-00076]。だが上杉謙信はこの動きを察知し、武田方より先に山を下り、永禄4年(1561年)9月、信濃国川中島(現在の長野市川中島町)で武田方に攻めかかった[SRC-00076]。日本大百科全書はこの対戦を9月10日のこととするが、同じ資料集約ページ内でブリタニカ国際大百科事典は9月1日夜から翌2日午後の戦いと記しており、期日には食い違いがある[SRC-00076]。副将格の武田信繁をはじめ双方に多数の死者が出たが、勝敗は決しなかった[SRC-00076]。信玄と謙信が一騎討ちをしたという逸話も伝わるが、その真偽は今も確認されていない[SRC-00076]。
本文
永禄4年9月の合戦(日本大百科全書は9月10日の対戦とする)は、天文22年(1553)以来断続的に続いていた武田信玄と上杉謙信の川中島対戦のうち、もっとも激しいものとされる[SRC-00076]。
このとき信玄は、軍を二手に分ける策をとった。一隊に妻女山の上杉方を攻めさせ、山を下りたところを本隊が川中島で迎え撃つという挟撃策である[SRC-00076]。上杉方はこの動きを察知し、武田方より先に妻女山を下り、夜のうちに川中島で武田方と対峙した[SRC-00076]。武田方は苦戦し、信玄の弟で副将格の武田信繁が討ち死にした[SRC-00076]。日本大百科全書は、隊将の山本晴幸(はるゆき)も戦死したと記す[SRC-00076]。
合戦なかばで武田方の別動隊が川中島へ戻ると戦況は一変し、上杉方は追撃を受けて退いた。両軍とも多数の戦死者を出して兵を引き、勝敗は決しなかった[SRC-00076]。合戦後、川中島の地は武田方の領有となった[SRC-00076]。
歴史的背景
天文10年(1541)に家督を継いだ武田信玄は信濃へ出兵し、小笠原・村上・高梨氏ら信濃の旧族を破った[SRC-00076]。敗れた村上義清らが越後の上杉謙信に救援を求めたことから、天文22年(1553)、謙信が初めて北信濃へ出兵し、両者の対戦が始まった[SRC-00076]。永禄3年(1560)、謙信は関東管領(かんれい)に就任し、もっぱら北関東で小田原の北条氏と対戦していた。信玄はその間隙(かんげき)を突いて北信濃へ出兵したという[SRC-00076]。日本大百科全書は、この川中島における長期の対戦が、上洛(京へ進出すること)をめざしていた上杉・武田両氏の兵力を消耗させ、結果として織田信長に先を越されることになった、と総括している(同事典自身の評価であり、本サイトが独自に検証した見立てではない)[SRC-00076]。
タイムライン
| 日付(暦種別を明記) | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 天文22年〔旧暦〕(1553) | 村上義清らの敗走をきっかけに、上杉謙信が初めて北信濃へ出兵。両者の対戦が始まる | [SRC-00076] |
| 永禄3年〔旧暦〕(1560) | 上杉謙信、関東管領に就任 | [SRC-00076] |
| 永禄4年9月10日〔旧暦〕(1561・日本大百科全書による) | 第四次合戦。武田信繁らが戦死、勝敗は決しなかった | [SRC-00076] |
| (異説)永禄4年9月1日夜〜翌2日〔旧暦〕(1561・ブリタニカ国際大百科事典による) | 同じ合戦を、この期間に展開された戦いとする記述もある(異説・論争欄参照) | [SRC-00076] |
| 永禄7年〔旧暦〕ごろ(1564) | 川中島での対戦がおおむね収束 | [SRC-00076] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
第四次川中島の戦いは、合戦の期日そのものと、信玄・謙信の一騎討ちという2点で、参照した出典内でも記述が割れている(調査範囲: SRC-00076〔コトバンク集約ページ内の6資料〕・SRC-00077〔長野市公式サイト〕。当時の一次史料そのものへは本記事の調査では到達していない)。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 第四次合戦の期日 | 永禄4年9月10日とする記述 | コトバンク収載6資料中、日本大百科全書(ニッポニカ)〔柴辻俊六〕のみが「9月10日」と明記する(デジタル大辞泉は「9月」まで、共同通信ニュース用語解説は日付の記載なし、旺文社日本史事典は「'61年」と年までの表記にとどまる)[SRC-00076]。長野市公式サイトも「永禄4年(1561年)」と年までの表記にとどまる[SRC-00077] | 同じコトバンクのページ内で採られている記述の一つ |
| 同上 | 永禄4年9月1日夜から翌2日午後にかけて展開された戦いとする記述 | ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典のみ [SRC-00076] | 上記と同じページ内にありながら異なる期日を記す。両者は同一の合戦を指すとみられるが、本サイトはいずれの期日が正しいかを判定しない |
| 信玄と謙信の一騎討ち | 逸話としては語り伝えられている | 共同通信ニュース用語解説「あったとも伝わる」・旺文社日本史事典「あったといわれる」・長野市(本文「信玄・謙信の一騎打ちなど、多くの伝説を残した激戦でした」) [SRC-00076][SRC-00077] | 日本大百科全書は「その真偽は確かではない」、共同通信は「真偽は不明」と記し、いずれの事典も史実として確定させていない |
関連する出来事
- 天文22年(1553)の初回対戦: 信濃の村上義清らの敗走をきっかけに、上杉謙信が初めて北信濃へ出兵した戦い[SRC-00076](記事未作成)
- 永禄7年(1564)ごろまでの川中島対戦の収束: 以後、上杉・武田両氏の争いは西上野・北関東へ移っていったという[SRC-00076](記事未作成)
関連人物
- 武田信玄(たけだしんげん)— 甲斐の戦国大名。この合戦に参陣した[SRC-00076]
- 上杉謙信(うえすぎけんしん)— 越後の戦国大名。この合戦に参陣した[SRC-00076]
- 武田信繁(たけだのぶしげ)— 武田信玄の弟。副将格として参陣し、戦死した[SRC-00076]
- 山本晴幸(やまもとはるゆき)— 武田方の隊将。この合戦で戦死したと日本大百科全書は記す[SRC-00076]
歴史的意義
この合戦を含む一連の川中島での対戦は、北信濃の領有をめぐる争いであると同時に、上杉・武田両氏の兵力を消耗させ、両氏の上洛(京への進出)を遅らせる結果になったと日本大百科全書は総括している[SRC-00076]。合戦後、川中島の地は武田方の領有となった[SRC-00076]。精選版日本国語大辞典は、近松門左衛門『信州川中島合戦』や河竹黙阿彌『川中島東都錦絵』に脚色されたと記す[SRC-00076]。デジタル大辞泉も、浄瑠璃・歌舞伎に脚色されてきたと記す[SRC-00076]。
現代の視点
長野市川中島町には現在、川中島古戦場史跡公園が整備され、信玄が本陣を築いたとされる八幡社や首塚、三太刀七太刀之跡の碑が残る[SRC-00077]。隣接する長野市立博物館では映像やジオラマで合戦を紹介しており、ボランティアガイド「川中島の戦い語りべの会」による案内も行われている[SRC-00077]。もっとも、これらの史跡・案内の存在は、一騎討ちなどの逸話が史実であったことを裏づけるものではない(本サイトの整理であり、出典が直接この評価を述べているわけではない)。
出典一覧
- [SRC-00076] 川中島の戦い(コトバンク — 6事典の集約ページ)/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00077] 川中島古戦場史跡公園のご案内(長野市公式ホームページ)/長野市(ランクB)
- [SRC-00078] 日本の暦日データベース(国立天文台 暦計算室)— 永禄4年9月10日の換算照会結果/国立天文台 暦計算室(ランクA)
本文中の [SRC-nnnnn] はこの一覧の番号を指します。各出典の所在・参照日・信頼度の判定は検証記録で確認できます。
訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-08-28 | — |
| 2 | 2026-08-28 | あり |
| 3 | 2026-08-29 | あり |
| 4 | 2026-08-29 | あり |
訂正の方針は訂正ポリシーに記載しています。各版が事実主張に関わる変更を伴ったかは上表のとおりで、再fact-checkの実施状況は検証記録でご確認いただけます。