柳条湖の満鉄線路を爆破したのは、犯人だとされた中国軍ではなく、日本軍の中尉自身だった
日付と暦
- 原典表記
- 昭和6年9月18日(グレゴリオ暦)
- 換算
- 1931-09-18(グレゴリオ暦)
- 掲載日
- 9月18日のページ
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概要
1931年(昭和6年)9月18日の夜、南満州鉄道の柳条湖付近の線路脇に、独立守備隊の河本末守中尉がいた[SRC-00137][SRC-00138]。その河本中尉こそが、線路の爆薬を爆発させた実行者だったとされる[SRC-00137][SRC-00138]。関東軍参謀の板垣征四郎・石原莞爾らが計画したこの爆破は、隣接する北大営の中国軍(張学良軍)の行為だと偽られ、関東軍はただちに軍事行動を開始した[SRC-00136][SRC-00137][SRC-00138][SRC-00139]。これが柳条湖事件であり、満州事変の発端となった[SRC-00136][SRC-00138][SRC-00139]。政府は事態を拡大させない方針を表明したが、関東軍の行動はそれに反して拡大を続けた[SRC-00136][SRC-00139]。
本文
関東軍参謀の板垣征四郎(いたがきせいしろう)と石原莞爾は、かねて満州の武力占領を計画していた[SRC-00138]。1931年9月18日午後10時20分ごろ[SRC-00138]、独立守備歩兵第2大隊第3中隊の河本末守中尉が、柳条湖付近の南満州鉄道の線路で爆薬を爆発させた[SRC-00137][SRC-00138]。爆薬を準備した人物については出典間に食い違いがある。世界大百科事典は河本中尉自身が「爆薬をしかけ」たとするが[SRC-00138]、山田勝芳論文は今田新太郎大尉が爆薬を準備し、河本中尉は爆破を担当したとする[SRC-00137]。線路への被害はほとんどなく、直後には列車が無事に通過している[SRC-00138]。この爆音を合図に、付近に出動していた川島正大尉率いる同中隊が、隣接する中国軍の兵営・北大営(ほくだいえい)を攻撃した[SRC-00138]。関東軍は、この爆破を中国軍(張学良軍)による行為だとして、ただちに軍事行動を開始した[SRC-00136][SRC-00137][SRC-00138][SRC-00139]。翌19日中には、奉天のほか満鉄沿線の主要都市が占領された[SRC-00138][SRC-00139]。政府(第2次若槻礼次郎内閣)は9月21日、事態を「事変」とみなす決定をした[SRC-00136][SRC-00139]。22日には、朝鮮軍が独断で国境を越えて出動していたことも閣議で追認された[SRC-00139]。そして24日、政府は「領土的欲望」を否定し事態を拡大させない方針(いわゆる不拡大方針)を発表したが[SRC-00136]、関東軍の軍事行動はこれに反して続き、この年のうちに満州のほぼ全域が占領下に置かれた[SRC-00139]。
歴史的背景
関東軍が満州の武力占領を計画した背景には、日露戦争以来、南満州鉄道を中心に築いてきた権益を、中国側の国権回復運動から守ろうとする意識があった[SRC-00139]。1931年には万宝山事件や中村大尉事件が相次いで起き、日本国内では対中強硬論が高まっていた[SRC-00139]。柳条湖事件が関東軍自身による謀略だったという事実は、太平洋戦争の敗戦後まで国民には公表されなかった、と世界大百科事典は記す[SRC-00139]。
タイムライン
| 日付 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1931年9月18日午後10時20分ごろ | 柳条湖付近の南満州鉄道線路で爆薬が爆発(実行者は河本末守中尉とされる) | [SRC-00137][SRC-00138] |
| 1931年9月18日夜 | 関東軍が隣接する北大営を攻撃し、軍事行動を開始 | [SRC-00138][SRC-00139] |
| 1931年9月19日 | 奉天など満鉄沿線の主要都市を占領 | [SRC-00138][SRC-00139] |
| 1931年9月21日 | 政府が事態を「事変」とみなす決定 | [SRC-00136][SRC-00139] |
| 1931年9月22日 | 朝鮮軍の独断越境を閣議で追認 | [SRC-00139] |
| 1931年9月24日 | 政府が不拡大方針を発表 | [SRC-00136] |
| 1932年3月1日 | 「満州国」建国が宣言される | [SRC-00139] |
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)
柳条湖事件が関東軍自身による謀略だったこと自体については、調査範囲内([SRC-00136]〜[SRC-00140]の5件)で有力な異説は確認されなかった。一方、以下の4点については出典間で見解や記述が分かれている。
| 論点 | 説 | 根拠・出典 | 学界での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 爆発が起きた時刻 | 午後10時20分ごろ | 世界大百科事典(江口圭一)「午後10時20分ころ」、山川日本史小辞典「午後10時20分すぎ」[SRC-00138] | 定評ある事典2誌が一致する記述 |
| 同上 | 午後10時半ごろ | 日本大百科全書(君島和彦)「9月18日夜10時半」[SRC-00139] | 事件当夜、板垣征四郎参謀が森島守人領事に行った説明も「十八日午後十時半」であり[SRC-00140]、この時刻を裏づける同時代記録がある |
| 「柳条溝」という呼称の由来 | 事件当時の新聞報道が「柳条湖」を「柳条溝」と誤って伝えたことによる | 精選版日本国語大辞典「当時の新聞報道が『湖』を『溝』と誤り伝えたため」、ブリタニカ「当時の報道機関による誤報」。デジタル大辞泉も「柳条溝」は誤りだとするが、新聞報道への言及はない[SRC-00138] | 事典類の通説。ただし山田論文(下記)はこの説明そのものを検討のうえ否定している |
| 同上 | 単純な報道の誤りではなく、関東軍の板垣征四郎大佐らが発生直後にこの呼称を用いたことに由来し、地名がいわば創作された | 山田勝芳論文「単純な『誤り』ではなかったのである」「板垣等によって発生地名がいわば創作されたのである」[SRC-00137] | 同論文独自の学説。通説(コトバンク収載事典)との対立が未解消 |
| 「柳条湖」が正しい表記だと確認された時期 | 1980年代初頭(1980〜82年)、中国の研究による | ニッポニカ「1980年の中国における学会報告」、世界大百科事典「中国の研究(1981)」、精選版日本国語大辞典「一九八二年、中国遼寧大学の学者」— 同じコトバンクのページ内でも年が3通りに割れている[SRC-00138] | 定評ある事典間でも記述が一致していない |
| 同上 | 最初に指摘したのは1967年の島田俊彦の研究であり、1970年には明確に主張されていた | 山田勝芳論文「公表された論著で最も早く柳條湖であるべきことを述べたのは、1967年の島田俊彦の研究である」[SRC-00137] | 同論文独自の学説。中国の研究を最初とする通説とプライオリティを争う |
| 爆薬を準備した人物 | 河本末守中尉自身が爆薬を仕掛けた | 世界大百科事典「河本末守中尉が…爆薬をしかけ爆発させた」[SRC-00138] | 定評ある事典の記述 |
| 同上 | 今田新太郎大尉が爆薬を準備し、河本中尉は爆破(点火・実行)を担当した | 山田勝芳論文(当事者証言に基づく)[SRC-00137] | 一次証言に基づく研究の記述。事典の記述と分担が食い違う |
爆発時刻の10分差は事件の骨子(同日夜に起きたこと)に影響しない。一方、地名の由来と訂正時期については、定評ある事典群(通説)と山田勝芳論文(学術論文)の見解が正面から対立しており、決着していない。本記事はどちらか一方を断定せず、両論を出典付きで併記する。
関連する出来事
- 万宝山事件・中村大尉事件(1931年): 柳条湖事件に先立ち、日本国内で対中強硬論を高めた一連の事件[SRC-00139](記事未作成)
- リットン調査団の派遣(1932年): 国際連盟が満州事変の実情調査のため派遣した調査団[SRC-00139](記事未作成)
- 国際連盟脱退(1933年3月27日): リットン報告書の採択を受け、日本が連盟からの脱退を通告[SRC-00139](記事未作成)
関連人物
以下は、柳条湖事件に関わった人物である。
- 板垣征四郎(いたがきせいしろう) — 関東軍高級参謀。石原莞爾とともに、事件を計画した中心人物の一人とされる[SRC-00137][SRC-00138][SRC-00139]
- 石原莞爾 — 関東軍作戦主任参謀。板垣とともに、事件を計画した中心人物の一人とされる[SRC-00137][SRC-00138][SRC-00139]
- 河本末守 — 独立守備隊の中尉。柳条湖の南満州鉄道線路で爆薬を爆発させた実行者とされる(爆薬を準備した人物については出典間に食い違いがある。異説・論争欄参照)[SRC-00137][SRC-00138]
- 若槻礼次郎(わかつきれいじろう) — 事件当時の内閣総理大臣。不拡大方針を表明した[SRC-00136][SRC-00139]
- 張学良(ちょうがくりょう) — 当時、満州を実質的に統率していた軍事指導者。関東軍から事件の実行者だと主張された当事者[SRC-00138][SRC-00139]
歴史的意義
柳条湖事件は、関東軍による満州占領の拡大、1932年3月1日の「満州国」建国宣言へとつながり、1945年まで続く日中間の戦争(十五年戦争)の起点となった[SRC-00139]。国際連盟はリットン調査団を派遣して実情を調査し、その報告書が採択されたことを受け、日本は1933年3月27日、国際連盟からの脱退を通告した[SRC-00139]。
現代の視点
事件が起きた場所の名前は、事件当時から長く「柳条溝」と呼ばれてきた[SRC-00137][SRC-00138]。山田論文が検討対象として引く朝日新聞2009年5月29日記事は、日本では「半世紀以上」この名で通用してきたと述べる[SRC-00137]。なぜそう呼ばれたのかについては、出典の見解が分かれている。定評ある事典類は、当時の新聞報道が「柳条湖」を「柳条溝」と誤り伝えた単純な誤報だとする[SRC-00138]。これに対し山田勝芳論文は、事件当夜に板垣征四郎参謀が奉天総領事館の森島守人領事へこの呼称を伝えたことに着目し、「単純な『誤り』ではなかった」「板垣等によって発生地名がいわば創作された」と論じる[SRC-00137]。同論文はさらに、「柳条湖」が正しいという指摘自体、1980年代の中国の研究を最初とする通説より早く、1967年の島田俊彦の研究が最初だったとも主張する[SRC-00137]。本記事はどちらの説が正しいかを判定せず、異説・論争欄で両論を紹介するにとどめる。
事件当夜の時刻についても、記録は一つに収束していなかった。板垣参謀が森島領事に語った時刻は「十八日午後十時半」と外務省の公電に記録されているが[SRC-00140]、現場の独立守備隊が事件6日後に配布した説明資料は「午后十時頃」としており、時刻の記述にずれがある[SRC-00137]。政府・軍という組織の内部でさえ、同じ夜の出来事の記録が完全には一致しなかったことがうかがえる(本稿の見立てであり、出典が直接この教訓を述べるものではない)。
出典一覧
- [SRC-00136] 昭和6年(1931)9月|満州事変:日本のあゆみ/国立公文書館(ランクA)
- [SRC-00137] 満洲事変発生地名の再検討 ―「柳條溝」から「柳條湖」へ―/東北大学東北アジア研究センター(『東北アジア研究』第14号、2010年2月、1-36頁)(ランクA)
- [SRC-00138] 柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00139] 満州事変(まんしゅうじへん)とは? 意味や使い方 - コトバンク/コトバンク(朝日新聞社・VOYAGE MARKETING運営)(ランクB)(複数の資料を収載)
- [SRC-00140] 1 昭和6年9月14日から昭和6年9月19日(JACAR Ref. B02030185200)/国立公文書館アジア歴史資料センター(原蔵: 外務省外交史料館)(ランクS)
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訂正履歴
| 版 | 日付 | 事実主張への変更 |
|---|---|---|
| 1 | 2026-08-28 | — |
| 2 | 2026-08-28 | あり |
| 3 | 2026-08-29 | あり |
| 4 | 2026-08-29 | あり |
| 5 | 2026-08-29 | あり |
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