エゼルレッド2世のデーン人殺害命令は、勅許状で「最も正当な根絶」と呼ばれたが、実際に何が起きたのかは今も特定されていない

日付と暦

原典表記
1002年11月13日(聖ブリクティウスの祝日)(ユリウス暦)
換算
1002-11-13(ユリウス暦)
掲載日
11月13日のページ

暦の注記: この出来事はユリウス暦の1002年11月13日(聖ブリクティウスの祝日)に起きた(ユリウス暦のまま換算: 1002-11-13)[SRC-00712][SRC-00714][SRC-00717]。アングロサクソン年代記は同じ命令が「聖ブリクティウスの祝祭日」に実行されたと記すが、この年代記自体は暦日としての「11月13日」への同定を行っていない[SRC-00713]。グレゴリオ暦の導入は1582年10月であり、この日付はそれより580年前にあたるため、換算先の暦種別もユリウス暦のままとなる(R-CAL-2の機械決定。1582年10月という改暦の年月そのものは本サイトの換算方針が定める定数規則であり、外部出典を要する事実主張ではない)。本サイトでは 11-13 のページに掲載している。換算は独自に行っておらず、原典の日付をそのまま転記したものである(R-CAL-3)[SRC-00712][SRC-00714][SRC-00717]。

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概要

1002年11月13日、聖ブリクティウスの祝日[SRC-00712][SRC-00714][SRC-00717]、イングランド王エゼルレッド2世は、国内にいたデーン人の殺害を命じたとされる[SRC-00713]。アングロサクソン年代記は、デーン人が王と重臣の命を奪い王国を奪おうと企てていると密告されたことが理由だったと記す[SRC-00713]。2年後の1004年、エゼルレッド自身が発給した勅許状は、この命令の対象を「この島に生じたすべてのデーン人」と記す[SRC-00711]。この一節について、World History Encyclopediaはエゼルレッド自身がその行為を「最も正当な根絶」("a most just extermination")と誇らしげに呼んだと伝える一方[SRC-00714]、リーヴァイ・ローチは同じ英語表現を、王自身の言葉としてではなく勅許状の起草者の筆致として紹介している[SRC-00717]。オックスフォードでは、教会内に逃げ込んだデーン人がいたが、住民はセント・フリデスワイド教会を焼き払ったと伝わる[SRC-00717]。しかし、この命令が実際にどれほどの規模・対象で実行されたのかについては歴史家の間で見解が分かれており、2008年に同地で見つかった集団埋葬との関連づけも、発掘・分析にあたった研究チーム自身が明確な結論を避けている[SRC-00712][SRC-00714][SRC-00717]。

本文

1002年、エゼルレッド2世は、デーン人がひそかに王と重臣たちの命を奪い、抵抗を受けることなく王国を手中にしようとしていると伝えられた[SRC-00713]。これを受け、王は重臣・有力者らの助言のもと命令を発したとされる[SRC-00711]。アングロサクソン年代記はこの命令を次のように記す。「王はイングランドにいたすべてのデーン人を殺すよう命令を下した。これは聖ブリクティウスの祝祭日に実行された」[SRC-00713]。

この命令の内容は、2年後の1004年12月7日、エゼルレッド自身がオックスフォードシャーのヘディントンで発給した、セント・フリデスワイド修道院への土地を確認する勅許状(S 909)の前文にも記されている。その原文(ラテン語)は「cuncti Dani qui in hac insula uelut lolium inter triticum pullulando emerserant, iustissima examinatione necarentur」であり、これは「この島に麦の中の毒麦のように生い茂ったすべてのデーン人が、iustissima examinatione〔最も正当な吟味/根絶〕によって殺されるべきである」という意味である(本サイトの訳)[SRC-00711]。この一節について、World History Encyclopediaは、エゼルレッド自身が誇らしげにこの行為を「最も正当な根絶」("a most just extermination")と呼んだと記す[SRC-00714]。一方、エゼルレッド研究者リーヴァイ・ローチは、同じ英語表現を、王自身の言葉としてではなく、勅許状の起草者がデーン人をイングランド社会を汚す存在として描いた表現として紹介している[SRC-00717]。勅許状を収載するeSawyer自身のページには英訳文は掲載されておらず、eSawyerが唯一名指す刊行訳であるWhitelock, English Historical Documents, no. 127(pp. 590-3)への書誌参照があるのみである(ラテン語 "examinatione" と英訳 "extermination" の語義の隔たり、および上記2資料の間で帰属先が割れている点については後述の「異説・論争」参照)[SRC-00711]。

この勅許状(S 909)の真正性については研究者の判断が分かれている。Plummerは偽作(spurious)と判定した一方、Stevenson・Stenton・Whitelock・Keynesは真正(authentic)と判定する。ただし真正と判定したWhitelockも、境界記述が同時代のものではない可能性と、ヘディントンに関する部分が後世の付加(スプリアス)かもしれない可能性の両方を指摘しており、Gellingは(対象箇所を限定せずに)本勅許状が後世の挿入(interpolation)を含む可能性を指摘する[SRC-00711]。eSawyerが列挙する写本のうち最古のものは大英図書館所蔵の12世紀末〜13世紀初頭の写本であり、原本(1004年当時の羊皮紙そのもの)はこの一覧には含まれていない(本サイトの整理)[SRC-00711]。

オックスフォードでも殺害が及んだ。同じ1004年勅許状は、地元のデーン人たちが教会内に避難を求め、町の住民がこれに応じてセント・フリデスワイド教会を焼き払ったと記していると、エゼルレッド研究者リーヴァイ・ローチ(エクセター大学)は紹介する[SRC-00717]。

歴史的背景

エゼルレッド2世は978年、異母兄エドワードの死後にイングランド王として即位し、978年から1013年、および1014年から1016年まで在位した[SRC-00714]。その異名「Unready」は、古英語 "unræd"(悪しき助言)に由来し、「高貴な助言」を意味する本名 Æthelred との言葉遊びであり、現代英語の「準備不足」とは意味がずれているため、より正確には「無策王」に近い(本サイトの訳)と説明される[SRC-00714]。

歴史家リーヴァイ・ローチは、1002年の命令に先立つ経緯として、1001年、エゼルレッドから離反した傭兵の一部がイングランド南岸を襲撃していたことを挙げ、この命令を「先制攻撃」の性格を持つものと位置づけ、「完全に理不尽な対応だったとは言えないかもしれない」と評する[SRC-00717]。もっとも同じ論考は、たとえ規模が限定的で、(少なくともエゼルレッドの視点では)正当化されるものだったとしても、この行為には「中世盛期以降のヨーロッパ社会にあまりに特徴的となる攻撃的な排外主義と文化的優越主義」が表れているとし、たとえ1002年の出来事が厳密な意味での民族浄化には至らないものだったとしても「その、より暗い側面を無視すべきではない」と結論づけている[SRC-00717]。この時点でイングランド国内には、相当数のデーン人(近年の移住者・傭兵を含むとみられる)が存在していたことになる(本サイトの整理)。

タイムライン

日付(暦種別を明記) 出来事 出典
1001年(ユリウス暦) エゼルレッドから離反した傭兵の一部が、イングランド南岸を襲撃していた [SRC-00717]
1002年11月13日(ユリウス暦・聖ブリクティウスの祝日) エゼルレッド2世が国内のデーン人殺害を命じ、実行されたとされる(セント・ブライス祭の虐殺)。オックスフォードでは避難先の教会が焼かれた [SRC-00712][SRC-00713][SRC-00714][SRC-00717]
1004年12月7日(ユリウス暦) エゼルレッド2世、ヘディントンでセント・フリデスワイド修道院への勅許状を発給し、2年前の命令の経緯を振り返る [SRC-00711]
1013年(ユリウス暦) デンマーク王スヴェン1世(フォークビアード)がイングランドへ侵攻し、実権を掌握。エゼルレッドはノルマンディーへ逃れる [SRC-00714]
2008年 オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ構内(ケンドルー・クワドラングル建設予定地)で若い男性の集団埋葬が発見される [SRC-00715]
2012年 オックスフォード大学の研究チームが集団埋葬の放射性炭素年代測定・同位体分析の結果を査読誌に発表 [SRC-00712]
異説・論争 — 定説のない論点があります(開く)

「セント・ブライス祭の虐殺」がどれほどの規模・対象で行われたのかは、一次資料の文言そのものと、現代の歴史研究による再評価との間で見解が分かれている。犠牲者数についても、本サイトが調査した範囲のいずれの出典も具体的な数値を示していない。

論点 根拠・出典 学界での位置づけ
勅許状の中核文言(iustissima examinatione)の訳と帰属 ラテン語原文「iustissima examinatione necarentur」の英訳として、World History Encyclopediaは国王エゼルレッド自身の言葉として「最も正当な根絶」("a most just extermination")を紹介する一方、リーヴァイ・ローチは同じ英語表現を、王自身の言葉としてではなく勅許状の起草者の筆致として紹介しており、同じ訳語の帰属先が資料間で割れている [SRC-00714][SRC-00717] World History Encyclopediaは「王は自らの行為を誇らしげに"a most just extermination"と呼んでいる」と記す[SRC-00714]。一方ローチ(SRC-00717)は「この文書の起草者は、デーン人をイングランド社会を汚す存在として描き、この出来事を"a most just extermination"と表現している」と記し、主語を勅許状の起草者としている[SRC-00717]。eSawyerが唯一名指す刊行訳であるWhitelock, English Historical Documents, no. 127(本勅許状のデータベースSRC-00711が書誌のみ示す)の本体には本サイトは到達できておらず、ラテン語「examinatione」(吟味・審理)と英訳「extermination」(根絶)の語義の隔たりの原因(翻訳者の選択によるものか、底本の異読によるものか)を説明できる資料には本サイトは到達していない
勅許状(S 909)の真正性 本勅許状の成立の真正性そのものについて、研究者の判断が分かれている [SRC-00711] Plummerは偽作(spurious)と判定した一方、Stevenson・Stenton・Whitelock・Keynesは真正(authentic)と判定する。真正と判定したWhitelockも、境界記述が同時代のものではない可能性と、ヘディントンに関する部分が後世の付加(スプリアス)かもしれない可能性の両方を指摘しており、Gellingは(対象箇所を限定せずに)後世の挿入(interpolation)の可能性を指摘する
命令の対象・規模(一次資料の文言) エゼルレッド自身の1004年勅許状、アングロサクソン年代記はいずれも命令の対象を「この島に生じた(イングランドにいた)すべてのデーン人」と記す [SRC-00711][SRC-00713] 王自身の記録と年代記という独立した2系統が同じ範囲の文言を用いる
命令の対象・規模(現代の再評価) 歴史家リーヴァイ・ローチは、犠牲者の多くは長く定住したデーン系住民ではなく、最近の移住者、おそらく傭兵だった可能性が高く、規模も「厳密な意味での民族浄化には至らない」水準の限定的なものだったとする。ただし同じ論考は、規模が限定的で正当化しうるものだったとしても、この行為には「攻撃的な排外主義と文化的優越主義」が表れているとし、「その、より暗い側面を無視すべきではない」とも述べる [SRC-00717] エクセター大学講師による研究書(2016年、Yale University Press)に基づく見解。World History Encyclopediaも「規模において小規模で、傭兵など軍事関係者を標的にした」という同旨の再評価を紹介する[SRC-00714]
犠牲者数 具体的な犠牲者数を示す当時の記録は確認されておらず、本サイトが調査した範囲の出典はいずれも数値を示していない 「不明」であること自体が現状の到達点である(本サイトの整理)
2008年オックスフォードの集団埋葬との関連(機関自身の紹介) セント・ジョンズ・カレッジは、発見された集団埋葬を1002年の虐殺に直接結びつけて紹介する。個体数は「少なくとも35人」とする [SRC-00715] 発掘地の大学構成カレッジ自身による紹介。査読論文(後述)が明記する留保は伴わない
2008年オックスフォードの集団埋葬との関連(個体数の表記) セント・ジョンズ・カレッジは個体数を「少なくとも35人」(下限表記)とし、ScienceDailyは「37体」(確定数表記)と報じる。「少なくとも35人」は下限のみを示す表現であり、37という数字と論理的に両立する [SRC-00715][SRC-00716] 表記の性格(下限表記か確定数表記か)の違いであり、両者が示す数字自体が対立しているわけではない
2008年オックスフォードの集団埋葬との関連(学術論文の留保) 発掘・分析にあたった研究チーム自身は、放射性炭素年代測定の結果「10世紀の年代の方がより可能性が高い」とし、同位体分析からは犠牲者がスカンディナヴィア系である可能性を示しつつ、結論を「いくぶん曖昧」とする。地元デーン系住民の虐殺ではなく、ドーセットのウェイマス・リッジウェイの集団埋葬(別の発掘地点)との類似性から「拿捕された襲撃部隊」だった可能性を含む代替解釈を示す [SRC-00712][SRC-00716] 査読誌 Oxford Journal of Archaeology(2012年)掲載論文。1002年の虐殺との関連づけを積極的に主張するものではない

別の集団埋葬との混同に関する注記: 上表で比較対象として言及される「ウェイマス・リッジウェイ」の集団埋葬は、ドーセット州にある別の発掘地点であり、オックスフォードのセント・ジョンズ・カレッジの集団埋葬とは異なる遺跡である。放射性炭素年代測定では890年から1030年の間と幅を持って年代づけられており、「異なるスカンディナヴィア諸国出身の若い男性の集団」と考えられている[SRC-00716]。研究チームはこの遺跡との同位体パターンの類似性を根拠の一つとして、セント・ジョンズ・カレッジの集団埋葬についても、地元の住民ではなく遠征してきた戦士集団だった可能性を検討している[SRC-00712][SRC-00716]。

関連する出来事

関連人物

歴史的意義

この命令は、エゼルレッドが企図したとみられる問題の解決には至らなかった。その後もデーン人の襲撃は続き、1013年にはスヴェン1世の侵攻によってエゼルレッド自身がイングランドを追われる事態となった[SRC-00714]。

この出来事は、勅許状・年代記という一次資料が用いる「すべてのデーン人」という文言と、近年の歴史研究が示す「規模限定・傭兵標的」という見立ての間で、その実態(対象の広さ・実行の徹底度)が今なお一致を見ていない事例である[SRC-00711][SRC-00713][SRC-00717]。国王自身が公的な文書に「すべてのデーン人が殺されるべきである」と書き残した事実と、実際に何が起きたかについての歴史学的な不確かさが両立している点に、本記事の主題がある(本サイトの整理)。

現代の視点

考古学と自然科学の手法(放射性炭素年代測定・同位体分析)は、文献史料だけでは決着しない問題に新たな検証手段を与える。2008年にオックスフォードで発見された集団埋葬は、発見当初は1002年の虐殺の直接の物証として紹介されたが[SRC-00715]、その後の学術的な年代測定・同位体分析は、この解釈に対してむしろ慎重な留保を突きつける結果となった[SRC-00712]。研究チーム自身が「結論はいくぶん曖昧である」と述べているとおり、科学的分析は必ずしも歴史上の出来事を一つに確定させるとは限らず、複数の解釈が併存し得ることを示す事例でもある(本サイトの整理)。

本サイトは、この出来事を現代の出来事になぞらえた評価は行わない。犠牲者数・対象の範囲がいずれも不明である以上、断定的な規模の評価は、誇張・矮小化のいずれの方向であっても史料の裏付けを欠く(本サイトの整理)。

出典一覧

  1. [SRC-00711] S 909 — Æthelred II 1004 (Electronic Sawyer)/The Electronic Sawyer(King's College London, Centre for Computing in the Humanities/British Academy)(ランクA)
  2. [SRC-00712] 'Sprouting like cockle amongst the wheat': the St Brice's Day Massacre and the isotopic analysis of human bones from St John's College, Oxford(Oxford Journal of Archaeology 31(1) 掲載論文・大学出版リポジトリ記録)/オックスフォード大学 School of Archaeology/Research Laboratory for Archaeology and the History of Art (RLAHA)(ランクA)
  3. [SRC-00713] Medieval Sourcebook: The Anglo-Saxon Chronicle — Eleventh Century(The Avalon Project)/The Avalon Project, Lillian Goldman Law Library, Yale Law School(ランクA)
  4. [SRC-00714] Aethelred the Unready(World History Encyclopedia)/World History Encyclopedia(著者: Brandon M. Bender、2024-08-16公開)(ランクB)
  5. [SRC-00715] Remembering the St Brice's Day Massacre(St John's College, Oxford 公式サイト)/St John's College, Oxford(ランクB)
  6. [SRC-00716] Skeletons found at mass burial site in Oxford could be 10th-century Viking raiders(ScienceDaily)/ScienceDaily(ランクB)
  7. [SRC-00717] The St. Brice's Day Massacre: Then and Now(Yale University Press ブログ、著者リーヴァイ・ローチ)/Yale University Press(ランクB)

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訂正履歴

日付事実主張への変更
12026-09-05
22026-09-05あり
32026-09-05あり
42026-09-05なし

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